〈靖国参拝と日本人の宗教観のあいまいさ〉
    (2001年8月10日記事)

なぜか毎年8月15日を迎えるころに、決まって首相の靖国神社参拝の問題が起こる。

 これまで言葉遊びだけで問題解決を怠った、事なかれ主義日本人の、先送りの一つである。

靖国神社は、そもそも明治2年(1869年)に明治天皇が創設したもので、最初は「招魂社」と言って、

 明治維新の官軍殉職者のみの霊を祀る別格官幣社であった。その後「日清・日露戦争」の戦没者も含め祀られた。

 管理は陸海軍のもとで行われ、国家神道の中心として、また天皇崇拝を基に、軍国主義の精神的支柱として存在していた。

現在、第2次大戦のA級戦犯を含め、約240万体の霊が祀られ、形式的には宗教法人が管理運営している。

宗教は、世界的な「キリスト教」「イスラム教」等、基本の「教義」があり、日本における仏教もしかりである。

日本古来の神社は八百万の神(森羅万象を神として)がその起源としており、五穀豊穣・家内安全などを願う、

 日常生活に密着した素朴な存在であった。(故人を偲ぶのは「墓」である。)

 ところが天皇神格化の思想に基づき、歴史的にあいまいな「**尊」などが、祀られることとなった。

 しかし、ご神体は「鏡」や「剣」であり、理解に苦しむ偶像崇拝であり、思想(教義)はあいまいなものである。

殉国者を祀るのであれば、所謂「墓」として故人の徳を偲ぶのであれば意味がある。

 アメリカの「アーリントン国立墓地」もこのような考えで創られたもので、宗教宗派に関係なく埋葬されている。

日本には、第2次大戦の戦没者(無名戦死者)の祀られている「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」が,皇居の内堀の近くにひっそりとある。

 敷地は広くはないが、閑静な場所にあった。宗教色は無く、六角形の納骨堂(六角堂)に遺骨収集場所毎に分けられ、

 これまで約35万体の無名戦没者の遺骨が収められている。

 つつましい建物ではあるが、それがかえって静かに思いを寄せることが出来るような気がする。

神社は「神道」(神の道)ということである。それはなにか判らない。前の首相の時に問題になったが、はっきりしない。

 特に「靖国神社」には創建当時の軍国主義的雰囲気があるのではないか。宗教的教義は不明で、主として軍人崇拝の場として

 存在しているものではないか。しかし参拝問題では「政教分離」が論議されるように、宗教の一分野として扱われている。

 これは間違いかもしれない。

以上のことから、首相参拝の現在の議論はおかしい。別の観点から議論をすべきことではないか。

 また国家主義的思想の復活への思い入れの混じった参拝なら、ゆゆしき問題である。

 なぜ「敗戦の日」の8月15日に靖国に参拝したいのか。本来の殉職者を慰霊する、国立墓地へなら理解は出来る。

ドイツではナチズムの復古の兆しがあり、日本でも右翼の活動もかなり活発である。(金銭を援助している組織もあるようだ)

 ドイツの首相がヒットラーの墓に参拝したことは、聞いた事が無い。靖国神社には、戦争責任者のA級戦犯が祀られている。

近隣諸国からのクレームだけでなく、講和条約の趣旨にも反することもいわれ始めた。言葉の遊びで右往左往するだけでなく、

 グローバルな観点から、「国のあり方」を先送りせず、早期にこの問題を解決することは、「構造改革」の一環だと思う。

まだまだ、言い足りないことが多いが、今のままで参拝問題の危険な根をそのままにして、持ち越すのは大変心配である。

 あのひどかった、戦中戦後の暗い時代は二度と経験はしたくない。民主主義的平和こそ人類の最大の願いである。 

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