楽  健  法  の  お  経


山内宥厳の書き下ろしです
Yamanouchi Yugen
・楽 健 法 経・東方出版 1994年刊


楽健法教室風景



二人ヨーガ楽健法経

大楽金剛不空真実佛足楽健法経

 是の如く我聞けり。或る時佛、喩師婆伽所にて、楽健法を説きたまえり。春うららなる 季節、圍繞する諸菩薩の中央に、乾闥婆を寝かせて、佛、法を説きつつ、さらに実技を交 えて、楽健法の指導をなしたまえり。  まず佛、座より立ちて自らの御佛足を具示して曰く、乾闥婆ならびに菩薩等よ、わが足 裏、汝が足裏を如何んと考えるや。  足裏に触れるものは大地のみなるや否や。  われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。  それ道は、ただに地と地を結ぶもののみに非ず、人々の心と心を結び、生きとし生くる ものの法をも結ぶものなり。  道を歩まんには、健やかなる五体、ことに足の強健ならざれば遠く歩むこと難し。  また足が如何ほど強健、五体満足といえども地を伝い、草踏みわけて遠き地に衆生済度 に赴くには、健やかなる思い、慈愛の心、済度せんとする衆生からも、常に学ばんとする 求道の心があって、はじめて強健なる足とはなるなり。  足に光あり。  汝が足は汝の楽健法を学ばんとする求道心と、衆生済度の慈悲の心が一つとなるとき、 光を放ちて、闇を光に変えるものとならん。  楽健法を行ずる者は、光輝楽健菩薩と呼ばるるなり。  東西南北、赴く地に至れば、汝が足の光を求めて蝟集する人々数多あるなり。  富める者あり、数多の貧しき者あり。貧富を問わず強健なる者もあり病弱なる者もある。  正にいま、死に至らんとして、なお光輝楽健菩薩にすがりつく者もあらん。  此れを見、彼を見るに至って、菩薩等如何にしてこれらの人々に光を与うるや。  あに路傍に座をしつらえて、法を説くのみにて、心の病める者、身体の病める者を救い 得るや否や。  言葉の伝える法のみにて、病める人を救うは、至難の技とやいわん。  菩薩等よくわが教えるところを心眼をもって追体験し体解し、もって衆生を済度すべし。    かく語りて佛、乾闥婆を呼び寄せ、敷楽健曼荼羅に寝かせたまえり。  乾闥婆、佛の意に従いて北枕にして、身体の左側を下にして左足を伸べ、右足を曲げて 横たわり佛に合掌せり。  この時、天香芳しく妙音とともにたなびけり。  佛、微笑みてうなずき乾闥婆の足許に立ちたまいて曰く、いまから楽健法を伝授するなり。  古来よりわが国にヨーガあり。ヨーガは自力自助の手段にして、いまだ発心せざる衆生 には病患を癒すには、はなはだ遠き手段なり。  また、手当療法あり、食養、断食あり、アーユルヴェーダあり。  いずれも効多しといえども労も多くして、病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。  宿痾を抱えて、如何なる前生の因縁によりてかくは苦しまん、と嘆くもの多し。  されど病気の由縁は、精神生活の理法わきまえず、自我に気付かず、自省せず、食生活 の無知なるに由ることほとんどなり。  人間の存在の法を知り、生理の根源にさかのぼりて、身体の浄化をなし、流れを整え,三 毒によってもたらされたる諸病を癒し、積年の疲労をとるに、楽健法こそは最良の、楽々 健々の法なるべしと。    また佛曰く、楽健法はいかなる部位も左より行うべし。  左より右に転ずべしと。    佛、乾闥婆の大腿部の付け根に、並はずれて大きく、衆人尊崇の左の御佛足を乗せて踏 みたまえり。この時御佛足、光を放ちて、並みいる菩薩の眼に慈光を降りそそぎ、菩薩等 の心眼開け、乾闥婆の大腿部が、にわかに柔らかくなるを目撃したりき。  乾闥婆、たちまちにして長年月の坐禅によって生じていた腰痛が癒え、如来の御佛足よ り流れ入る聖なる力が、全身を駆けめぐるを覚って、涕涙下るを止め得ず。  佛曰く、我がいま踏みし大腿部の付け根の部位をば、羝羊と名付く。  身体の芯より足心に至る導管の筋なるべし。  ここを左右ともにゆるめて血流、体液さかんに流動しはじめ、迷いより醒めて、向上心 の湧きいずるところなりと。    次に佛、乾闥婆の足はそのままにして、上半身のみ上向きにさせたまいて、左足の羝羊 よりさらに内側の筋を踏みたまえり。乾闥婆、痛きこと火を近づけたるがごとし、と覚ゆ れど不思議に心地よく、神気身内に呼び戻されたるがごとし。  佛曰く、この部位を愚童と名付く。  これをゆるめれば、肝、腎の働きを盛んにして、婦人の生理を整え、心安けくなり、健や かな子宝を得るにいたり、自己の存在の意味に気付くなり。    次に佛、乾闥婆を上向きに寝かせ、鼠蹊部より膝までを、上から下へと踏みたまえり。  佛曰く、この部位を嬰童と名付く。  嬰童を踏みて、生まれきたりしみどり児が、初めてこの世を見るが如く、胃腸の働き活 然とし、視力も回復し素直な心が発動すと。  乾闥婆、老眼なりしが御佛足が離れるやいなや、如来の御尊顔、常にも増して輝き、明 らかに見ゆるを自覚して、いまここにわが不浄の身を横たえ、如来の御佛足を頂ける佛縁 の不思議、有り難さを噛みしめたり。    次に佛、乾闥婆の左の胸から腕の付け根を踏み、さらに指先まで御佛足にて踏み下りぬ。  佛曰く、この部位を唯蘊と名付く。  唯蘊をゆるめて見えていたもの、考えていたことが行為と結ぶなり。  心臓の病も、呼吸の病もかるく癒されるなりと。    次に佛、乾闥婆をうつぶせに寝かせたまいぬ。  右の御佛足を、左の臀部より膝裏のそばまで踏み下りぬ。  佛曰く、臀部は大乗と名付くなり。  大腿部から膝裏は抜業と呼ぶべし。  いずれの部位にも筋肉の付け根に潜脹あり。  潜脹とは硬く結ばれたる筋肉のふくらみにして、潜脹の硬結、肥大するにつれて、筋肉 は縮み、血流を妨げ、体液の流れも減少し、冷えを呼び、病を生ずる因となるべし。  病を癒すは管を通すことに如かず。  易行なり。  ことに臀部の潜脹は冷えを呼びこむなり。  潜脹をゆるめて、難治の宿痾も断ち切るに至るなり。  心して踏むべしと。    次に佛、乾闥婆の両足裏に御佛足にて乗りたまいて曰く、この部位をば覚心と名付くなり。  足裏は反対側の頭脳と知るべし。  足は実践を常に行ずる脳髄なり。  愛しむべし。  覚心は部分にして全体、全体にして部分なり。よく思案せよ。  覚心を貴び踏んで気をめぐらし、正精進に励むべしと。    次に佛、乾闥婆の腕の付け根に御佛足を踏み与えたまえり。  乾闥婆、痩せた背高き男なれば敷物に腕が密着せざるなり。  佛曰く、この部位を極無と名付くなり。  腕の敷物に着かざるは、胃の下垂あり。  いまだ身体硬く、なお修行の余地大なる証なり。  心して楽健法を行じ、心身一如の境地を体解すべし。と申されて、極無を御佛足にて軽く踏み, 光明真言の呪を唱えたまえれば、乾闥婆の腕たちまちゆるみ伸びて敷物と密着す。    菩薩等、開示悟入しつつ眺めるなか、次に佛、乾闥婆の頭上に廻り立ち、左肩の付け根 に左足を与えたまい、御佛足の踵が敷物に触れんばかりに踏み下げぬ。  佛曰く、この部位を秘密と名付くなり。  諸々の病の予兆の現ずるところなり。  肩凝りは未病の便り、便秘も未病の便りなり。あなどらず秘密を解くべしと。    次に佛、乾闥婆の背に跨りて、両手を合掌の形になし、背骨の左右の筋を上より下へと 押し下りぬ。  佛曰く、ここを一道と名付くべし。  ひとは背骨と筋肉とのつりあいを失って諸病を得るなり。  全ての部位の調整は、一道の調和をはからんが為なり。  一道を触掌して愛を感じ、天地に生かされてある感謝の念が湧きおこるなりと。    佛、立ちて座にもどり、菩薩等にその慈顔をほころばせり。  菩薩等一同、追体験によりて、如来の楽健法をわが身に施されたる如く、乾闥婆ととも に、浄福に包まれたり。  佛曰く、病気にて夭折するは治療の理法を得ざるが故なり。  治らざる病はあらずと心得うべし。  依るところの手段なによりも肝要なり。  まず、否定的な心を棄て、可能性を信ずべし。  信じて楽健法を行ぜよ。  楽健法は易行にして、理法深甚の理なり。  他力のヨーガなり。二人ヨーガなり。  心してこれを行じ衆生を済度せよ。  日々これを行ずれば足は光を放ち、東西南北へ軽々と歩を進め、ひとの世を共生浄土、 即身成佛の光の海と転ずること必定なり。  これを与えられる者は病癒え、平安を得るのみならず、与える者も足による布施の行に て、慈愛による佛の法を知り、血気を盛んにして倶に功徳を得べしと。 トップにもどる

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