川越いも

     
■サツマイモの由来■

サツマイモは、江戸時代の初めにルソン島から中国、さらに琉球(沖縄県)を経て 薩摩(鹿児島県)に伝わったのでその名がある。薩摩では琉球から伝わったので 琉球イモといった。沖縄では唐イモと呼ぶようです。

当初は、九州でしか栽培されなかったが、1735年(享保20年)、青木昆陽が 飢饉の際の代用食としてカンショ(甘藷)栽培の励行を幕府に進言したため各地に 広まった。

こうして栽培が普及したサツマイモは、江戸庶民の間で焼きいもとして親しまれた。 焼きいも屋の誕生は江戸時代後期の寛永年間(1789〜1800年),神田甚平衛橋の たもとで『原の焼芋』といって売り出されたのがはじめと言われている。

やがて明治・大正と学生などのおやつとなり、大学いもの名も現れ、太平洋戦争中の 食料難を救うことにもなりました。 サツマイモは関東周辺と四国・九州が産地です。千葉県は、作付け面積では鹿児島県、 茨城県につぐ全国3位ですが、鹿児島県も茨城県もデンプン加工用が多いため、生産額 では、全国1位となります。関東地方の主要品種は甘みが強く、食味がよいベニアズマです。

   
■川越いも■

『栗より美味い十三里半』と言われ親しまれている川越のサツマイモは、江戸では これを川越いもと呼んでいましたが、もともとは飢饉対策として徳川吉宗の命により青木昆陽が関東に広めたものです。 当初関東での栽培は霜や寒気のため温暖な九州のようにはいかず、試行錯誤の苦労の末に「さつま床」が考え出されました。

川越地方で初めてサツマイモの栽培に成功したのは、南永井村(今の所沢市南永井)の名主・吉田弥衛門で 息子を志井津村(今の千葉県市原市)に送り詳しい栽培方法を伝授してもらい、サツマイモの導入と普及に 務めたことで近隣の村々にも伝わっていきました。 もっと干ばつや水不足に強くてお金になる作物を求めた約250年前のことでした。 サツマイモの栽培方法は川越地方の畑作地帯に広まり、やがて天明(1781〜1789)の 大飢饉に威力をふるったことから、ますます盛んになりました。

この頃の将軍は家冶でしたが、川越藩主がサツマイモを献上したところ、いもの鮮やかな赤味の 美しさと美味しさから、これを賞して『川越いも』と名づけたとも伝えられています。 やがて紅赤といわれる、ほくほくと美味しいいもが、川越いもの主流になりました。 現在の川越のサツマイモを更に有名にしたのは、今の皇太子が幼稚園のころ川越に サツマイモ堀りに来られたことから『いもほり観光』が盛んになったことによります。

『川越いも』といえど川越の周辺は水田であり、実際に栽培されているのは主に川越の南方向に あたる三芳町、大井町、所沢の三富地域や新座市の畑作地域です。これらの地域は武蔵野の雑木林と 重なります。関東ローム層と言われるサツマイモに適した土壌を雑木林の落ち葉である腐葉土が地力 をつけてきました。腐葉土は地力をつけるために使われていましたが、今流に言えば有機農業という 環境に優しい農業が行われていたのです。
『川越いも』の発祥地、所沢市の南永井には石碑が建っています。 落ち葉の腐葉土がサツマイモ栽培に使われており、写真下はサツマイモの苗床(「さつま床」)です。 5月に苗を畑に植えるために、2月の寒い時期から苗床作りが始まり、薩摩のように暖かくないこの地域 ならではの工夫で腐葉土の発酵による熱で苗を育てています。

現在ではサツマイモを使った様々な菓子や料理の材料として、果ては地ビールの原料にも 使われ川越の観光産業を担っています。また「美容食」,「健康食」,「宇宙食」として 見直され広く人々に愛されています。    
 

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