武蔵野の歴史

 
   
■一面の萱原の武蔵野■
武蔵野は月の入るべき山もなし
草よりいでて草にこそ入れ
と奈良時代の『万葉集』に詠まれているほど武蔵野は見渡すかぎり平坦で、 ススキの野原でおおわれ、視界を遮る山もなく月は草原から出て草原に沈んでゆく、そんな情景の原野でした。

また、武蔵野は関東ローム層という赤土におおわれた台地です。雨が降っても水はすぐ地面にしみ込んでしまいます。 広大な平地でありながら、古代、中世の武蔵野は、水が乏しく人が暮らしていくのは難しい場所でした。
江戸時代までは、川のそばや台地のふちの湧き水の出るところだけに、人が集まり集落ができ、その周辺にわずかな 畑が作られただけでした。

■野火止用水■
水の便が悪いうえに土地がやせていて作物が実らない武蔵野で作物をつくるには、まず水を引かねばなりません。 五代目川越城主となった松平信綱は新田を開発するために野火止用水を作ることを命じました。 さらに信綱は、今の川越の南方面にあたる中福、上松原、下松原、下赤坂、堀兼、中新田、水野といった新田を 開発事業を推し進めていきました。
   
■三富新田の開発■

入会地は水の乏しいこの地で生きている農民にとってはなくてはならない場所でした。しかし、武蔵野を 開拓していくには入会地の利権問題は避けられない問題でした。
五代将軍綱吉の元禄時代には入会地をめぐり大きな争いに発展し、川越藩は幕府に裁許を願いでます。 1694年、幕府により入会地は川越藩の領地と裁定が下り、武蔵野の開拓が促進されることになりました。 この年、五代将軍綱吉の側用人としても有名な柳沢吉保が川越藩主として着任します。 吉保の命により川越から南に約3里の地域に約1400haにも及ぶ広大な開拓が進められました。 後に『三富(さんとめ)』(写真上)と呼ばれる地域で、現在の三芳町上富地区、所沢市中富、下富地区にあたる場所です。 農民たちの菩提寺となる多福寺(写真右:多福寺の山門)、祈願所として毘沙門社も建てられ、 開拓地はやせた畑であったので、向こう5年間は開拓民の年貢は免除されました。

開拓で最も苦労したのは水の確保でした。野火止用水に見習い吉保は用水を引こうと考えましたが、 この計画は中断され、深井戸を掘ることを命じます。多福寺と多聞院に現在も残っている井戸は いづれも25mを超える深さです。当時の苦労が偲ばれます。 (地名に「堀兼」という所がありますが「堀兼ねる」の意味だそうです)

   
■屋敷林と耕地と平地林■

今の武蔵野を特徴つけているのは、短冊型の地割(右図)です。短冊型の区画には、道路に面した表側から屋敷、 次に耕地、そしていちばん後方に平地林が配置されました。屋敷には周囲に屋敷林として竹、ケヤキ、スギ、 ヒノキ、カシなどが植えられ、風から屋敷を守る役目を果しました。また、屋敷林は生活に欠かせない 役割をもっていました。

耕地は間口40間(約72m)、奥行375間(約375m)で一戸当り5町歩(約5ha)の土地が 与えられました。現在、日本の農家の平均的な耕地が1.5haですから、かなり広い面積が与えられました。

短冊型に区画された地割の中で、最も重要な役割を果たしていたのが、ヤマと呼ばれた平地林(写真右)でした。 開拓当時、入植者一戸につき3本づつ楢の苗を配付されました。苗木を植えて人工林を育てていったのです。 こうした木々は強い風から畑を守る防風林として、また、日々の暮らしに欠かせないたきぎの供給源として なくてはならないものになりました。また、その落ち葉も大切な堆肥の材料として利用されていたのです。 大きな川のないこの一帯では、毎年作物をつくり続けるには、人間が栄養成分を入れていかなければならず、 落ち葉を使った落ち葉堆肥が必要だったのです。冬になると葉を落とすクヌギ、コナラは特に重要でした。

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このようにしてできた屋敷林と平地林(雑木林)に特徴がある豊かな武蔵野の耕地ですが、水のないやせた土地が ここに至ったのは多くの人々の努力と永年の積重ねによる落ち葉堆肥による地力創りの賜物なのです。
しかし、現在、農家の高齢化、農家離れ、相続税等により平地林が放置されたり、売られたりし 多くの平地林が存続の危機に瀕しています。特に耕地より平地林の相続税が高いため平地林を手放す農家が増えています。
武蔵野の平地林はそのできた経緯から耕地と切っても切れない関係にあります。 平地林を後世に残し、手入れをしつつ利用することが環境的な問題とともに武蔵野の農業を維持するために是非とも 必要なことです。
武蔵野の平地林は人が手を入れて守る自然であり、恵みの源なのです。

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三富新田は、川越藩主・柳沢吉保が江戸から流れてきた多くの人たちを食べさせるために、 水もない不毛の地を独特の手法で開き、「森造りと土造り」で貧困が解消できることを 300年以上も前に立証した歴史的な遺産と言える。
ノーベル平和賞を受賞したケニア副環境相のワンガリ・マータイさんが「木を植えることは、貧困や飢餓を解決することだ」と 繰り返し訴えていたが、柳沢吉保も同じ考えであった。 時代は変わっても人間は自然の恩恵で生きていられることに変わりはないことを教えてくれる。    
 

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