透明な恋人
           薄井ゆうじ

 あたしが彼にはじめて会ったのは、長雨がつづいて束の間の晴れ間が見えた、ある日の午後だった。ドアを開けると彼が、シャリンという音を立てながら、そこに立っていた。
「やあ」と彼は言った。「キクタキクコさんですね」
「あなたは……」
「お届けに来ました。よろしくお願いします」
 注文しておいた『彼』が届いたのだった。あたしはどきどきしながら玄関から彼を招き入れた。あたしが希望した通りの素敵な彼だった。でも……。
「きれいなお部屋ですね」
 快活に言いながらお部屋に入ってくるとき、彼はまた、シャリンという音を立てた。彼は、ガラスでできているのだった。
 それでもあたしの恋人。彼は透明な笑顔を見せながら、あたしの向かい側で紅茶を飲んでいる。透き通る細い指でカップをつまんで口元へ持っていくのを、あたしはうっとりと眺めている。紅茶の液体が彼のガラスの口から入って、喉を流れ落ちていくのが透けて見える。紅茶は胃のあたりまでくると無色透明になった。
「素敵」と、あたしは言った。
「キクコさんのほうが素敵です」
 シャリン、と髪の毛を掻き上げながら彼は吸いこまれそうな透明な視線であたしを見つめる。どきどきして、あたしは何も言えない。  その日から彼と暮らしはじめた。彼はあたしが仕事から帰ってくると、いつもお部屋をきれいに掃除して、お料理をつくって待っていてくれた。彼がつくるビーフ・ストロガノフは本当においしかった。そしてベッドのなかでも、彼はとても素敵だった。
「僕って、冷たくないかな」
「ううん、そんなことない。ちょっとひんやりするけど気持いい」
「激しくしないでね」と彼は言った。「僕、壊れやすいから」
 雨の季節はずっとつづいて、あたしはとっても幸せだった。彼の透き通る体と雨の音はあたしをうっとりさせた。彼がときどき唄ってくれる不思議な歌は物悲しくて、遠い記憶のように心地良かった。
「ねえキクコ、あなた恋人ができたんじゃない」
 ハルミがそう言ったのは、彼が来て十日くらい過ぎたときだった。
「どうしてわかったの」
「最近あたしとぜんぜん一緒に遊ばないから、いい人ができたんじゃないかと思って。どんな彼氏なの」
「それが」あたしは、言っていいのかどうか迷った。「彼は、ガラスでできているの」
「そう」サチコは驚いた様子もなく首を傾けた。「ガラスねえ」
「本気にしてないんでしょう」
「ううん、違う。最近多いのよね、そういう男の人って」
「比喩じゃないの。本当に全身が、本物の透き通ったクリスタルガラスでできてるんだってば」
「だから、多いのよ、そういう人。ガラスの彼を持つのが流行っているみたいなんだけど、あなたも気をつけてね」
「どうして。壊れやすいから?」
「よくわかんないけど、本気で付き合っちゃ駄目よ」
 サチコはきっと、あたしに素敵な彼ができたから嫉妬しているんじゃないかと思う。
 あたしは彼を愛しつづけて、彼もあたしを愛してくれた。最初のころは抱き締めるとひんやりしたけれど、このごろはとても暖かい。
「好きになりすぎないでね」ある夜、彼は言いにくそうにそう言った。「愛し合いすぎると、会えなくなってしまうから」
「なぜ」男のひとがそんなことを言い出すときは、愛が冷めかかったときだ。「あたしを嫌いになったの?」
「そうじゃないんだ。ずっときみと会っていたいから、そう言ってるんだよ。すこしだけ好きになっていて欲しい」
「そんなのいや」あたしは彼を抱きしめた。「離さない」
「駄目だよ」彼はそれでも強く抱き返してくれた。「そんなに強く愛したら……」
 ぐにゃり、と彼が溶けた。あたしたちの熱で彼の体温が上昇して、ガラスの体が溶けていくのだった。待ってよ、あたしを置いていかないで。叫んだけれど彼はベッドの上に小さな透明のひとかたまりを残して消え失せてしまった。愛しすぎたのだ、とあたしは思った。だけど彼はもう、戻っては来ない。
 まだ長雨はつづいている。雨の音を聞いていると、彼が腕や足を動かすときの、シャリンという音が聞こえたような気がして、あたしは外の景色にふと目をやる。でもそこには、窓ガラスが雨に濡れているだけ。

             (了)