竹田青嗣『人間的自由の条件 
−ヘーゲルとポストモダン思想−』
(講談社)  Page.1
(済みません、まだ第一章しかありません)
第一章 資本主義・国家・倫理 ―― 『トランスクリティーク』のアポリア

1 資本主義というアポリア

○ 柄谷行人の『トランスクリティーク』における提起の概要を掴み、その問題の要点を指摘する。柄谷の「物自体」の解釈と、それを「他者」と置いた理由を次節以下で扱う。

 柄谷行人の仕事は、「資本主義」と「国家」に対する根本的な対抗原理として提出されている。ポストモダン思想の限界を見て、その先に一歩出ようという自覚的な試みがある。
 柄谷がカントと格闘し掴みだそうとしているのは、「倫理」の根拠という根本問題である。〈カントの「物自体」とは「他者」である・カントは認識論、形而上学に「他者」を導入した・なぜ「物自体」が認識を認識たらしめる根拠を指し示すのかというと、そこに「他者」が含まれているからである〉と柄谷は主張する。ただしこの柄谷の主張の論拠は、『純粋理性批判』に現れる認識論そのものよりは、『判断力批判』に描かれた「趣味判断の普遍性」に求められている。〈なぜならそれは異なった規則体系を所有する者の間でのコミュニケーションの問題だからである。認識の根拠は他者との関係という場面なしには考えることはできない〉。竹田によれば、この部分での柄谷の主張は、結果的には妥当であり納得できる。認識を認識たらしめている根拠は、認識と対象との厳密な一致(真理概念)ということにはなく、むしろ「他者相関的」な本質を持つからである。
 柄谷の「他者」はまた単に認識の根拠というだけでなく、「他者」=「物自体」が同時に倫理的対象としての「他者」として想定されている。これはマルクスの思想の柄谷的解釈と結びついて、現代的資本主義への対抗原理として用いられる。つまり〈カントの「物自体」は客観認識と主観主義の間、共同体や国家の間に立ってその枠組みを超えるような含意を持っていた〉というのが、柄谷の主張である。
 これは思想の動機としては理解できるが、カント論としては強引であり説得的でない。市民国家建設が急務であった時代に、ポストモダン的な反共同体論、反国家論はあり得ず、後代の考え方の素朴な投影でしかない。
 以下では、柄谷のカント解釈のプロブレマティークを二項にわけて提起する。
 第一に、「物自体」の解釈の意味。近代哲学における認識論の問題に関わる。
 第二に、「物自体」を「他者」とおいたその根拠と理由。認識の問題と倫理の本質に関わる。
  
2 カントの「物自体」について

○ 柄谷の「物自体」把握を批判するために、竹田の「物自体」の理解のアウトラインを出してみる。「物自体」はアンチノミー(客観論と主観論の矛盾)の本質的理由を解明するために出された。

 カントの「物自体」は、認識の本質を問うときかならず絶対客観論と主観論が出てくる、その本質的理由を解明するために出されたものだ。この問題はアンチノミーに集約されている。
 経験は感性形式に規定され、「世界それ自体」、その一切合切には及ばない。だが推論の能力である理性は、与えられている因果の系列をどこまでも遡って、ある完結性や全体性にまでゆかないととどまらないという本性をもつ。この理性の本性がアンチノミーを必然にする。アンチノミーへの答えはどちらも決定的解答にはならない。しかもこの二つの答えは単に等価というだけでなく、必ず対立的に分解する必然的な理由を持つ。
 両者の答えにはそれぞれの動機(=関心)があるからだ。独断論は概して常識的で、善と信頼、自由と道徳を信じている。世界についての調和と完結性を求めるから、自由や神の存在を要請する傾向がある。経験論のほうが哲学的思考としては優れている。独断論に対するヒュームなど経験論的懐疑論の異議は理論的には正しい。しかしそれは上述したような独断論の必然性と動機(=関心)を理解していない。また経験論は独断論に対して論理的に優位に立つとはいえ、この問題の「本質」を解明するわけではない。
 カントは「世界とは何か」について真なる答えを出したのではない。むしろそういう考えが背理であることの本質的理由を「物自体」の概念を補助線としてよく示したのである。というわけで、「物自体」の概念が指し示しているのは、「他者」といったことではなく、世界認識には、経験として(つまり現実的な人間間の共通了解として)理解できる領域と、理念としてのみ認識の要請をもつ領域とが必ず存在するという事情、すなわち認識地平の領域区分の本質的解明を果たしているという点にある。
 ちなみに柄谷の場合、「物自体」は経験的な「私」ではない「超越論的な統覚X」として貨幣の超越論的仮象性に重ね合わされているが、これには無理がある。


3 未来の他者とは誰か

○ 柄谷におけるカントの「物自体」解釈。これを「未来の他者」に結びつけた考えには哲学的直観がある。普遍認識における他者の異議の無限性という考えは、そのつどの合意の可能性を示す。

 柄谷は物自体が「他者」であるという理路を、『判断力批判』における美的な問題から取り出している。趣味判断は一方で主観的であるが一方で普遍性を要求する。ここから認識の普遍性の根拠を取り出そうとしている。柄谷が、美的判断のうちに「認識を認識たらしめているもの」の根拠を観てとろうとしたのには、きわめて優れた直観がある。対象が私にとって美しいということは、単に私にとって快いことではなく他者にとっても快いはずだという普遍性の要求があるからだ。しかし〈カントは単なる他者の合意を問題にしているのではない〉と柄谷は言う。〈普遍性を公共的合意によって基礎づけることはできない。合意はどんなに広くてもたかだか現在のひとつの共同体に妥当するものでしない〉からだ。むしろ「物自体」とは、〈われわれのそれとは違った規則体系の中からわれわれに反証してくる他者、「未来の他者」と考えるべきである〉。
 こういう柄谷の立論は積極的側面がある。一共同体(の個人)が自分の「世界認識」を、事実認識の問題としてではなく、「統制的理念」つまり「かくあれかしという要請」としての「世界了解」として自覚し相対化できた場合だけ、二つの絶対的な「世界認識」ははじめて相互了解の可能性の原理をもつからだ。つまり共同体どうしの「信念対立」を克服する可能性が生まれる。柄谷の「未来の他者」は、共同体どうしの信念対立の必然性を、空間的地平から時間的地平に転位した。このような他者の異議は、単に懐疑論的無限の反証可能性とは異なり、そのつどの相互了解を「要請」するものだから “普遍認識における他者の異議の無限性”という本質を示すと考えてよい。
 このように認識の「普遍性」という概念を置くと、必ず異なった世界了解と世界理念が参入し、そのつど新しい合意が要請され創出されるその意志と努力の可能性がある。柄谷の「未来の他者」はその可能性の原理をつかもうとしていると言ってよい。

哲学・思想書レジュメ1

       

            


レジメ目次


竹田青嗣『人間的自由の条件』

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特別寄稿

青柳徹也・トラベルエッセイ
『スコールの降る街から
−バックッパクビギナーが行く−』