屋根の上登頂記
真下マヒロ・作


「泣くな、おっちゃんが取ってやるから。」
 と言ってから二時間が経った。この世の終わりみたいなすさまじい泣き声をあげていた甥っこはとうの昔に泣きつかれて座敷で眠り込んでしまっている。オレはタバコに火を点けると二階の窓から煙を吐き出した。
 屋根にのってしまったゴムボールはここからは見えない。窓の外に身を乗り出してもせいぜい屋根のひさしが見えるだけだ。この家の設計者は住んでいる人間が屋根の上に登るということまで考えなかったらしい。オレが屋根の上に登る為にやった一番始めの事は道路に面した東側からはしごを立てかけて屋根に登るということであったが、はしごが短すぎて駄目だった。頭にきたオレははしごを蹴飛ばしたが単に自分のつま先をすりむくという結果を生んだだけで終わった。オレが二番目にやった方法は家の二階にあるベランダからはしごを立てかけて登るというやり方であったがこれも屋根の長すぎるひさしに阻まれて無理であった。まったく、見た目を重視してこんな役立たずのひさしを付けてしまったのがそもそもの間違いなのだ。その二つの方法を試すだけで二時間が経ってしまった。
 オレと甥っこがTVアニメか何かのキャラクターが書かれたゴムボールでトスバッティングの真似事を始めたのは昼食が終わってすぐであった。そのボールは甥っこの祖父、つまりオレの親父が祭りの露店で買ってやった物で甥っこはそれを非常に気に入っていたのだ。オレは二階の窓から顔を出して上を見上げた。雨樋が屋根に向かって延びている。あの直径10センチくらいの雨樋をよじ昇れば屋根に昇れるのではないか。オレはタバコを窓枠でもみ消すと傍らに置いてある植木鉢に差し込んだ。
 オレはまず窓枠に足をかけ、外に身を乗り出した。窓枠の上に立って手を伸ばしたら雨樋に触ることが出来た。しかし手をまわす事ができない。あの雨樋をよじ昇るにはこの窓枠からジャンプして飛びつかなければならないようだ。オレにそんな事が出来るのだろうか。この窓から落ちたらまず大怪我は間違いない。運が良くて骨折。もし地面にたたきつけられたら・・・。やはりやめておこうか。少し悩んだ末にオレは窓枠から降りた。よく考えたらそんな危険を侵すまでもない。隣の家のベランダから梯子をかけて昇ればたやすい事ではないか。幸い隣の家族とは常々親密な付き合いをしている。勝手知ったる他人の家とはまさにこの事だ。オレはすぐに梯子を持って隣の家までいった。もうこの問題は片づいたも同然である。
 ピンポン。昨日も聞いたチャイムであるが今日は新鮮に聞こえる。まるで今日初めて鳴らすみたいだ。
「はーい。」
 隣の奥さんの明るい返事が聞こえて来た。オレは玄関のドアを開けた。
「あっどうも。ご主人大丈夫ですか。昨日けっこう飲んだから。」
「はい。ベッドで頭が痛いといっております。」
「あの、突然なんですけど。二階のベランダ貸していただけないですかね。家の屋根に昇りたいんですよ。」
「ああ。あの部屋のベランダのことですか。」
「ええ。すいませんね。」
 少し間があった。
「・・・貴方様をあの部屋に入れるわけにはいかないのです。」
「えっ何故。」
 予想外の返答にオレは素っ頓狂な声を出してしまった。まさか、断られるとは思っていなかったのだ。オレの驚きに気がついた隣の奥さんは目に涙を浮かべて玄関に座り込んだ。
「これには深い訳が、シクシク。」
 いつまでたっても屋根に昇れないことに苛立ちをおぼていたオレは隣の奥さんに厳しく詰め寄ってしまった。
「訳ってなんです。何故あの部屋に入れないんですか。昨日あの部屋でお宅のご主人と一杯飲んだばかりだ。」
「貴方様をあの部屋には入れてはならぬという啓示がございまして。」
「啓示。なんですか、それは。何か宗教にでも。」
「いえ、いえ。もっと、こう、大きな力と申しますか。この世界の存在に関わる圧力と申しますか。」
「この世界・・・。いままでの貴方はそんな事をいうような人ではなかった。相当なことがあったんですね。」
「そうなのでございます。貴方様の考えているとおりなのでございます。貴方様をあの部屋に入れてしまうとこの世界は終焉を迎えると・・・。」
「世界の終焉ですか。私があの部屋に入ると核兵器でも落ちてくるんですか。」
「違うのです。この際、端的に申しあげましょう。貴方様が屋根に昇ってしまうと、この世界・・・つまり、この小説が終わってしまうのですっ!!」
 この人は何を言い出すのだろう。オレはしばらくの間、声も出なかった。
「何を突然。小説?何を馬鹿な。」
「貴方様のセリフで始まったこの小説はどう考えても貴方様が屋根に昇ってゴムボールを取ってしまえばフィナーレを迎えてしまう。たぶんそれはハッピーエンドでしょう。しかし、作者はそれを望んではいない。そして私も。この小説が終わってしまえば私たちの存在も消し飛んでしまう。私はまだ消えたくないのです。」
「何を訳のわからない事を。いいから入れてください。あのベランダから昇るしか方法が残されていないんだ。わかりました。勝手にあがらせていただきます。お宅とは昨日今日の付き合いじゃない。こんなことで関係を終わらせたくありません。ベランダにさえ上がらせていただければそれでいいんです。もしあの部屋に見せたくないものがおありでしたら、わかりました。ベランダには梯子で昇りましょう。それならいいでしょ。そうしましょう。お宅には入らない。ベランダだけ。ね。それでいいでしょ。」
「あああ。貴方様は何も解ってらっしゃらない。」
「じゃあベランダ借りますんで。」
「あああ。もう知りません。」
 とうとう隣の奥さんは泣き崩れた。オレは多少興奮気味に玄関を出た。裏にまわってベランダに昇るためだ。

 隣の家の裏庭には何度か入った事があるし、自分の家からも見下ろす事ができる。隣の奥さんがよく花に水をやっているそこそこ広い庭だ。オレの家はこの家の右隣にあり、この家のベランダはおあつらえ向きにオレの家に近い。オレはベランダの下まで行こうとした。しかしバラの枝が行く手を遮っていて進む事ができない。この庭にはいつからこんなにバラが咲き乱れるようになったのであろう。今はバラの咲く季節なのであろうか。いや、そんなことよりもこの庭にこんなにもバラが植えられているということを今初めて知った。ほとんど毎日見ているはずなのにまるで憶えがない。とにかくオレはこのバラの刺の中を進まなければならないのだ。オレは梯子を横にしてバラの枝をかき分ける様に進んだ。途中何度も腕や顔にバラの刺が刺さり身体のあちらこちらに無数の引っ掻き傷が出来たがかまってはいられない。オレはベランダに昇らなければならないのだ。そして屋根へ。
 ベランダの下にようやく到着した。服もすでにぼろぼろになっていた。そんなことはどうでもいい。オレはさっそくベランダに梯子を立てかけた。梯子はがっちり土に食い込み、ベランダまでの道を築き上げた。オレは確かめるように梯子の第一段に足を掛けると大きく息を吐いた。そして、これこそがオレの目指す屋根への最適登頂ルートだと確信する。もう一方の足を宙に浮かせ両手をより高い所に滑らせる。もう一歩、もう一歩。
 梯子五段目からの眺望は最高であった。見渡すかぎりに雲海が拡がりこれこそ神の峰という実感でオレの胸はいっぱいになった。オレは確実に足を進め、梯子の最高登頂部にまでたどり着いた。オレはベランダの方を仰ぎ見る。そこには昨日の深夜までさんざん飲んで二日酔いで頭が痛いはずの隣のご主人が立っていた。
「おええええええっ。」
 山の天気とヨッパライの吐く時期だけはわからない。オレの頭にスコールならぬアルコールの匂いがするシャワーが降り注いだ。オレはそのまま梯子から転げ落ちる。仰向けに落ちて目を回したオレの横に隣の奥さんが立っていた。スカートの中が見えるがそれどころではない。
「だから言ったでしょう。貴方様は屋根に昇ることはできないのです。」
 オレは気を失った。

 いつのまにか自分の家に運ばれていたオレはベッドの上で天井の茶色い滲みを見ながら考え込んでいた。
 オレはもしかしたら隣の奥さんの言う様に屋根に昇る事は出来ないのではないか。何かの大きな力が働いていてオレを屋根に昇らせないようにしているのではないか。
 寝室のドアをノックする音が聞こえた。ドアを開けて顔を出したのは弟であった。つまりゴムボールの持ち主の父親である。
「兄さん。そろそろ僕ら帰るから。」
「ちょっとまて。次の手段を考えているんだ。」
「何のための手段だい?」
「屋根に昇るためさ。」
「何故。」
「ボールが乗っちまっただろ。あれを取るまで帰らないでくれ。約束したんだ。「おっちゃんが取ってやる。」って。」
「ああ。ボールのことかい。息子はもう忘れているよ。だからもういいんだ。父さんが新しいボールを買ってやったし。」
「そうか。しかしな。オレは昇らなくてはならない。」
「なぜ。」
「そこに屋根があるからさ。」
「・・・。」
「お前と話している間に新しいルートを見つけたよ。あの天井の滲み。どこから出来てくると思う。天井裏さ。天井裏には屋根に昇る入り口があるんだ。今の今まで忘れていたよ。オレは最後の挑戦として天井裏ルートを提唱したい。」
「・・・分かったよ、兄さん。待とう。それまで、兄さんが屋根に昇るまで、僕らは待つ事にするよ。」
 オレは最後の挑戦の準備に取りかかる。

 靴は去年富士登山で使用した物を用意した。ウールの下着に赤いチェックのセーター。ハイソックスは長年愛用した厚手のものだ。そして登山帽を冠る。家族全員が私の準備を見守っている。その中には事の発端である甥っ子もいる。彼はほとんど無表情でオレを見ている。その前のちゃぶ台にはこの家の設計図が拡げられている。オレはこの部屋、つまり一階の居間をベースキャンプと定めた。第二キャンプは階段の踊り場。第三キャンプは二階の廊下の突き当たり。第四はオレの寝室で第五は寝室の押入れの中。ここから一気に屋根を目指す。比較的なだらかな第四キャンプまでのルートに比べ第五キャンプ以降はかなりの困難が予想される。気を引き締めて行かなければならない。
 オレはベースキャンプ長に弟を指名し、トランシーバーを持たせた。

 第二キャンプまでにある階段は十一段である。一段が約十八糎、厳しいルートではない。オレは一歩一歩上っていく。一段一段、希望と言う名の足跡を残してオレ登る。現に階段には白い靴跡が付いている。オレはトランシーバーを取り出していった。
「−−−こちら登頂隊。−−現在第二キャンプまであと三歩の所まで来ている。視界は良い。すぐに第三キャンプに向かえそうだ。どうぞ。」
 トランシーバーをしまい改めて前方を見る。さっきまであんなに遠くにあった第二キャンプがすぐ間近にある。このまま一気に第三キャンプ、第四キャンプまでいってしまおう。 順調に歩みを進めていたオレの前に突然の難関が現れた。それは第四キャンプの直前、通称「寝室のドア」と呼ばれる壁であった。その「寝室のドア」はオレの目の前を遮り、オレを容易に第四キャンプまでいかせない。つまりドアに鍵がかかっているのだ。オレは鍵をかけた憶えはない。憶えはないが鍵がかかっているという事実がここにある。オレは戸惑った。最悪の場合ここでビバーク(露営のこと)しなければならない。このドアに鍵をかけたのは誰か。オレ以外にこの部屋の鍵を持っている人間はいないはずだ。そのオレにしてもこのドアに鍵などかけた事は学生時代以来ないから鍵そのものもどこにいったか分からないぐらいだ。オレは決断を迫られた。行くべきか、行かざるべきか。戻るべきか、戻らざるべきか。ドアを蹴破るべきか、蹴破らざるべきか。云々。
 オレは渾身の力を込めてドアに体当たりした。二度、三度。繰り返すたびにドアは軋んだ音をたてる。何度か繰り返す。開かない。
 オレは考えた。このドアを通らずに第四キャンプに到達するルートが他にあるはずだ。オレはすがる思いでトランシーバーからベースキャンプの弟を呼び出した。
「−−−こちら登頂隊。トラブルが発生した。急きょ第四キャンプまでのルートを変更したい。現在第四キャンプ直前、「寝室のドア」前。別のルートを探してくれ。どうぞ。」
 オレはトランシーバーを切る直前に一つのルートに気づいた。それは二階の部屋の窓からオレの寝室の窓に飛び移るというルートだ。オレはトランシーバーの返答を待たずに行動に移った。
 その窓の横には植木鉢があってタバコの吸殻が刺さっている。つまりオレが雨樋に飛び移ろうとして窓枠に乗ったあの場所だ。窓から顔を出せばオレの寝室の窓が見える。オレは何のためらいもなく窓枠に立ち上がる。そしてそろそろと足を伸ばしてオレの寝室の窓に足をかけた。どうやらうまくいきそうだ。オレは体重を寝室の方に移動させて外壁に張り付いている。後は足で寝室の窓を開けるだけだ。と、その時下の方で声が聞こえた。
「あああ。貴方様は行ってしまわれるのですね。もうこの小説は終焉に近づいているのですね。そうですか。私はもうあきらめました。どうぞ、屋根に登ってください。私はここから貴方様が屋根の上に登場するのを待ちます。あああ。それから・・・私は言っておかなければならない。私は、私は貴方様をお慕い申し上げておりました。ずっとずっと。あああ。この小説が終わる前にこれだけは言っておきたかったのです。よかった。これで悔いはありません。どうぞ、思う存分登ってください。世界が終わっても、この小説が終わっても私はここで貴方様を見守り続けていますから。」
 ちらっと下の方を見ると隣の奥さんがオレの方を見上げて泣いている。オレは寝室の窓を開け部屋の中に入った。

 第四キャンプを通過し第五キャンプに到着した。押入れの中をかき分け、天井裏に通じる入り口を発見したオレは両手でその木板を押し上げた。埃っぽい空気にむせ返りとっさに口を押さえる。左手で木板を天井裏の奥に押しやるとオレは天井裏の中を覗いた。オレは自分の身体を天井裏に潜り込ませ屋根への出入り口を探す。バックパックから懐中電灯を取り出しスイッチを入れる。途端に天井裏が明るく照らしだされる。遠くの方に屋根への出入り口が見える。オレは匍匐前進でそこに向かって進み始めた。途中に蜘蛛の巣やネズミの糞などがあったが構いはしない。目指すのは屋根への出入り口。その向こうは屋根の上。オレはゆっくりと出入り口に近づいた。それはもう目の前にある。手を伸ばせばもう届く位置だ。匍匐前進の肘が擦れて痛い。とうとうオレは出入り口の小さな枠の前まできた。オレはトランシーバーで弟を呼び出す。
「こちら登頂隊。屋根への出入り口まできた。屋根はもう、すぐそこだ。−−−−」
 オレは懐中電灯のライトを消した。両手を出入り口の取手にかける。ゆっくりとノブを回して出入り口の小さな扉をそっと開ける。
 真っ白い光が差し込んできて眩しくオレを包みこんだ。

終わり

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