鬼塞の島

起稿:1995年1月
真下マヒロ・作


 青年がその黒く暗い海に面したのは初めてではない。寒流に支配された死の淵のような海に若々しく瑞々しい理想化された彫像のような肉体を馴染ませながら、打ち返す波のかすか向こうに一つの島を見出していた。青年は拳ほどの大きさの石を手に取った。ごつごつと厳つい、海岸の破片の如くたたずむ石は青年の掌の上で水滴を滴らせ鈍く光った。青年は大きく深呼吸するとその石をじっと見つめた。青年はそれを島に向かって力一杯投げ付けた。それは島に届く訳も無く海に飲み込まれ二度と青年の手元には戻らなかった。
 青年は流木を拾い始めた。何本かの流木を拾った後、青年はその中に矢の残骸を発見した。青年はゆっくり顔をあげると島の方を眺めた。
 そこに居るのは何か。
 彼以外に一人の人間もその海岸にはいない。今朝その島に出発した兵士達も戻らない。それでも青年は周りを見渡し改めて人間がいないのを確認すると海岸から足早に立ち去った。
 青年は自分の住んでいる集落に向かった。村は海岸からは遠い山間にある。
青年の家はその貧しい村の中においても尤も貧しく、その日食う物にも困る有様であった。
 青年が朽ちた家に戻ってくると彼の父親とも呼べる翁は薪割りの手を休め青年を見つめ上げた。
「どこに行っておった。」
 青年はその問いに答えることもなく翁の手から手斧をとって薪割りを引き継いだ。使い込まれた手斧は、静かに暗い太陽を写し光り輝き、青年の緊張した筋肉と共に打ち下ろされ木片に新たな使命を生じさせる。
 翁は深い皺が入り泥の染み込んだ顔を緩めるでもなくもう一度同じ質問をした。
「どこに行っておった。海岸か。」
 村で行く所といえば海岸しかなかった。
 青年が黙っていると翁は何ともいぶかしげな顔をした。
「今朝行った兵士達も多分駄目だ。」翁は吐き捨てる。
 青年はその言葉に反応して薪を割る手を一瞬止めた。
 青年の手元が狂って薪が飛散した。翁がその薪を拾いながら言った。
「後でもう一度海岸に行け。」
 青年はその言葉にも答えることはなくただ黙々と薪を割り続けた。

 青年が見ていた島はその昔、罪人の流刑場としての役割をもっていた。そこに流されてくる罪人達は皆、方々で悪行の限りを尽くしていたような輩であったが死罪になることなく生命を長らえた悪運の強い者達でもあった。
 島は年月がたつにつれその役割を担うこともなくなり忘れ去られた。そして流刑となっていた罪人達はそのまま賊となり周辺に点在する村々を震憾させることとなった。
 賊はしばしば都までにも足を延ばし財や女子供を略奪したりもした。賊は日に日に力を蓄え、その広くもないが険しい島は何か城塞のような風采を兼ね備えた。
 時代の朝廷も何度か討伐隊を組織したこともあった。が、その度に冷たい海流のため島に上陸することもできず、そこを逃さぬ賊達に狙い撃ちにされ、隊の殆どの兵士が死体となって海岸に打ち上げられた。
 今朝も討伐隊が出発した。
 そしていつものようになった。
 青年は再び海岸に出た。海岸を忌み嫌っていた村人達は誰一人そこに居ない。その代わり多数の兵士の死体が横たわっていた。死体の多くは青年と同じくらいの年齢の若者である。一体の死体は足を切られて骨が見えている。その顔はカラスにでも啄ばまれたのか原形を留めていない。
 青年は打ち上げられた兵士の死体を数えた。数えている内に青年の認識する死への残虐性はろ過されていく。いつもより死体の数は多い。
 青年は死体の中に一刀の刀剣を見出した。刃こぼれもしていないその一振りの刀は人の生き血を吸ったのか吸わないのか青く怪しく輝き青年の魂を強く握り絞めた。青年は鞘を探し出しその刀を納めた。すると刀の怪しい輝きと猛々しい強さは消え失せ、なにも知らぬかのような静寂の物体に変わった。青年はそれを自分の物にすることを決めた。
 青年はいつものように死体から衣服や甲冑を剥ぎとった。青年の家はそれを売ることによって生計を立てていたのだった。
 突然青年は何者かに足首をつかまれた。青年がそのつかまれた足元を見やった。つかんだのは死体だとばかり思っていた一人の兵士であった。兵士はすがるような眼で青年に何かを言おうとした。しかしその口の動きは声にはならなかった。青年は見つめた。兵士は死んだ。
 ふと波の方を見るとなにか死体が動いているように見えた。
 それは透き通った、薄いガラスのように脆く壊れそうな少女の身体であった。その薄いガラスはあらわに透いた乳房を震える身体に覆い隠し崩れるように座り込み青年を見つめていた。その黒く澄んだ瞳はずっと青年を放さなかった。
 青年はその少女の眼差しに永久に凝結することを運命付けられた人形のように眼をそらさず見つめていた。
 少女の濡れた髪が風に揺れた時、青年は精神の呪縛を解かれた。
 その夜青年のもとに兵士の幻影が現れた。冷たい暗闇に兵士は終始何か言おうとするのかのように口を動かしていた。極めて無表情な眼は空間の一点を見つめ青年を見てはいなかった。青年は昼間手に入れた刀剣を探した。囲炉裏の火に赤く見える刀剣は青年の傍らにあった。静かに手元に引き寄せた。
 兵士の眼は相変わらず空に凝結していた。
 青年は刀を手に取ると鞘を抜き兵士に剣先を向けた。全身の躍動とともに振りおろした。初めて兵士が青年を見た。それは海岸の時とは違い冷たい眼、氷雨のような眼であった。青年はびっしりとふき出ている汗を拭おうともせず闇を見続けた。

 翁に介抱されどうやら一命をとりとめた少女は青年の朽ち家に居た。
 丁度青年が囲炉裏の火に薪を燃やしていた時であった。青年が土間の方を仰ぎ見た。少女はそこに立ち尽くしていた。少女の後ろから日の光が差し少女の表情を見えにくいものにしている。青年は薪を燃やし続けていた。青年が火箸で薪を起こした。囲炉裏の火に薪が音を立てた。
 少女が囲炉裏の向こう側に青年と相対するように立った。ゆっくりと腕をあげると青年の後ろの壁に立てかけてある刀を指差した。刀はひっそりと、そして正確にそこに存在した。少女の身体が火に赤く火照った。 
 空に雲が立ちこめたのか外がだんだん暗くなってきた。寄り一層炎の赤さが増した。青年は刀を見た。
 青年は刀を手にとって鞘を抜いた。夢魔の中で抜いた時より落ち着いていた。
 青年が立ち上がり無造作に刀を降りおろした。少女の着物の肩のあたりがじわりと赤くなった。着物の袖口から炎よりも鮮明な赤い血が滴れた。声も無く少女が囲炉裏の炎の前に伏せた。血が炎に焼かれ奇妙な音を発した。
 翁が入って来た。身体の前面を炎に赤く染め、炎の前に臥せっている少女の肢体を見下ろしている青年がそこに居た。翁はその情景を見ても何も言わず、少女の肢体を炎の前から抱き起こし、背負い、朽ち家から出ていった。翁が出ていった直後、静かに雨が降り始めた。朽ち家の屋根がこつこつと鳴りやがてそれは騒がしくなっていく。青年は黒く煤けた梁を眺め上げた。屋根を漏った雨粒が梁木に弾かれ白くきらめいた。それは囲炉裏の炎に煽られ地に戻る事なく天に昇華した。そして赤く輝く刀剣だけが青年の手に残った。

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