黒点の部屋
真下マヒロ・作
起稿:1996年3月

 静かで真っ黒な朝であった。蒲団の中で自然と朝を感じた公人はぼんやりと天井を見つめていた。オレンジ色のランプに照らし出された天井には木の木目がおぼろげに照らし出されていた。公人の眼にはその木目が人間の顔や手に見えたりした。小さい時からこの部屋で寝ていた公人にとってその木目は見慣れた物であったが毎日違う表情を感じさせる。七枚の長い木板で構成されている天井を見て幼いころ公人はその中に七人の頭巾を被った行者を見ていた。公人はその天井を見るのが恐かった。天井の七人の行者が公人に向かって叫び声をあげるかのような幻覚を見るのである。公人の胸の上で公人を取り巻き呪文のような言葉をはきつづける彼等は時に早く時にゆっくりと彼の上を廻った。無限に絶間なく変形しつづける彼等の姿はもはや木の木目という本来の姿を脱して公人に最後の鐘を鳴らし始めた。彼等はその物憂げな表情と老人の様に曲がった背骨を静かに翻してそれでもぶつぶつと呟きながら元の木目に帰った。
 公人はただ天井を見つめていた。一本の木材を七枚にスライスして造ったと思われる天井はその中に悲哀と寂寥に満ちた人間の姿を包み込んでいた。
 夜が白けてきたのか薄ぼんやりと障子が水色に明るくなってきている。鳥も鳴かぬ朝は夏だというのにどこか冷たくて静かな町並みを浮かび上がらせる。このような静謐な風景の中に居ると自分だけがぽつんとどこかに忘れ去られてしまった、或はすべての人間が立ち去った後この世界に一人取り残されてしまったというような寂しさ、せつなさが全身を包み込む。
 公人は急に寒くなったような気がして再び蒲団にもぐりこんだ。

 朝から雨が降り始めた。
 公人はその雨音によって目が覚めた。そして起きるとすぐに家から出た。地上に叩き込まれる雨粒の音はいつもは静かな朝を騒々しく掻きたてる。辺りの木々は雨に濡れてその緑は深さを増している。公人の住んでいる家の横は小さな公園で、いつもなら朝の散歩の途中の老人などがベンチに座って空でも見ているのだがさすがに今日は一人もいない。公人は雨の降ってくる空を見上げた。真っ黒い雨雲はうねるように公人のもとに覆い被さってくる。    
 大きな黒い傘をさしている手が雨足が弱まってきたのを感じた。公人は傘をたたむと雨上がりの鮮やかな町並みに溶けこんだ。雨が辺り一面に水の膜をつくりそこに反射した光が公人の目を眩しく捕らえた。
 公人はいつも朝通る道を歩いていた。黒く濡れたアスファルトに引き立ての白線が映えている。広い通りにでた。前方から人の波がわっと押し寄せて来た。うつむき加減に視線を落としてゆっくり歩いた。渓流に浮かぶ木片のように漂う公人の歩みは気が付くとふっとその中に没し再び上がって来ることのないかのような危うさを滲ませていた。人々の歩く時のアスファルトと靴底の擦れあう音が公人の周りに低く重く渦巻き沸き立っていた。その生活の営みの足音は公人の耳に深く響いた。
 彼の横をさっと淡い匂いの風が通り過ぎた。公人は視線を上げた。人の奔流の中をかき分けるように進んで行く少女の姿があった。 
 少女の肩までの髪が風に騒いだ。
 少女は公人に気付くこともなく早足で歩きつづけた。少女が大きな水たまりを避けた。少女の脹ら脛が水たまりに白く踊った。公人は避けなかった。青い空を写した水たまりに足を踏み込むと水が靴に跳ねてじわっと染み込んできてそれが妙に冷たかった。
 公人はその交差点で少女と並んだ。少女は時間を気にしているらしく何度かポケットにしまってある腕時計を取り出しては時計と信号機を見比べている。
 少女は日差しに照らされ汗ばんだ額に黒い髪がまとわり付き、暑さに上気した頬で息をつくと公人をちらと一目見やった。公人は気付かないふりをして何気なく信号機を眺めていた。
 信号機が青に変わった。
 少女が駆け出した。
 公人が歩き出した。公人は人間の壁によって遂に見えなくなった少女が駅に向かって息せき切って走って行く様を想い描いた。
 駅はいつもの様に朝の通勤ラッシュに混雑している。その巨大な雑踏の中に身を宿していると自分という存在が宇宙の物質の中の一片にすぎないという揺るがしがたい事実を確認して失望すると同時に、それ以上に沸き上がる雑踏の物言わぬ孤独感と寂寥感に押し潰されそうになるのであった。
 彼は少女を探した。しかし少女もまた雑踏の中の一部となって彼の前から姿を消した。
 彼は改札口を足早に通ると連絡通路からホームへと降りる階段をゆっくり降りた。電車はまだ来ていなかった。ホームに立ち尽くした彼は目の前に黒い、まるで重心を失った紙飛行機のように飛来しているものを見つけた。それは頼りなく彼の頭上までくるとそこに静止した。コウモリか。
 そのコウモリは公人の視線に全く動くこともなく彼を見据えていた。公人はその闇に光る眼球を見た。構内にとぎれとぎれながら鮮明なアナウンスが響きわたった。クリーム色と水色のデザインの電車がホームに入って来た時、コウモリは半ば自分に向かって飛び込んで来るかのような鉄の塊に驚いてか、骨の軋むような鳴声をあげながら飛び去った。
 停まった電車の扉の周りに人が集まって来た。扉が開くまでの空白の時間が今日はとてつもなく長く感じた。
 電車の扉が開くとともに冷たい空気と降りる人達が流れ出した。公人はその流れが切れると冷たい車内に乗り込んだ。席に腰掛けた。閑散とした車内の床は黒く薄汚れている。そこの床の上に一匹の蜂を発見した。黒い染みの中で悶え足掻いている蜂は黄色と黒の腹部を床に擦り付けている。公人はふと顔をあげた。駅の階段を駆け降りてくる中年の男性がいる。男は公人から一番近い扉に駆け込んだ。肥満でぶくぶくに膨れ上がった頬をなでながら辺りを見回し、空いている席を探している。男は席を見つけたのかゆったりと歩き出した。公人は男の足元を見つめた。男の足が痙攣していた蜂を踏み潰した。男は気付かず公人から遠い席に座った。公人は琥珀色の体液の玉をつくっている蜂の潰れ破れた腹部をじっと見続けた。蜂は細い長い足を天に向かって高く突き上げた。扉が閉まり大きな揺れとともに電車が動き出す。

 道路の脇の排水溝に水が少しだけ流れている。いや、流れているというより留まっているといったほうが正解であろう。緑色に藻の付いたコンクリートの側面を這うように白いあぶくと七色に光る油膜が漂っている。公人は国道へ出た。車通りも激しくなっていて騒音と排気ガスが公人を取り囲んだ。
 夏の力強い日差しに髪を熱くしながら歩んでいると道が登りになったかのような錯覚をおぼえた。車道にどす黒い無数の点を発見した。蛙か。熱気に絶え絶えになって干からびている蛙達は車にひき潰されたのもいればそのままの形で干からびたのもいる。形はどうであれ殆ど総ての蛙達は茶色いミイラとなって国道のアスファルトにまとわり付いている。

 アスファルトの粘り気の中に点在する蛙のミイラを踏んだ時の乾いた感触は公人の心を憂鬱にした。立ち上る臭気の中、公人は立ち止まった。マンホールの黒い鉄の上に小さな蛙がこびりついている。まだのんびりと手足を動かしている所を見るとミイラになるまでもうちょっと時間がかかりそうだ。
 黒い瑞々しい目玉が時折痙攣する様に動く。既に緑色の手足は粘液質の物質の塊に変貌してしまった。
 ずっとそのまま見ていたがふと気付くと動かなくなっていた。

 夜、田圃にいた。周りには外灯もなくあるのは道路からもれて来る車のライトの光と、闇の中から巨大な目玉の様に地表を見下ろしている月だけである。ここに歩いて来る前から耳に付いて離れない蛙の鳴声がより一層その光の暗さを克明にした。
 蛙は向かいの田圃から国道を越えて林道の向こうに押し寄せる。国道には長距離トラックなどが深夜でも走っていたから此処ら辺は夜でもかなり騒音が凄い。しかしそれでもなおかき消されない蛙の鳴声は彼等の唯一の自分自身の確認と言えるのではなかろうか。まとまって鳴くことに異様なまでの執着をみせる彼らにとって車通りの激しい国道を渡る恐怖よりもその林道に来る事の方がよほど大切らしい。
 蛙を追って国道から細い砂利道の林道に入った。
 日も落ちてしんと静まり返った、暗闇の続く細長い林道を歩いているとそのまま林に取り込まれてしまうような錯覚に陥って身震いした。
 長く歩いていると大きな建造物が見えてきた。病院か。彼は病院の間近くまで来るとふと立ち止まった。病院の外壁の殆どが碧いツタの様な物で覆われていて、大病院の壁を暗闇の中に溶けこませていた。彼が一歩、病院の中へ入ると病院特有の臭気が彼を突いた。待合室には患者と思われる数人の老人がいた。そこに置いてある古ぼけたテレビではアナウンサーがいつも変わらぬ無気質な声音と調子でニュースの原稿を読んでいる。
 公人は冷たい廊下を歩いた。寂寞たる構内に澄んだ靴音が微かに響いた。異常に長く感じる廊下は公人が病院に入っていくのを拒んでいるかのようであった。明かりがおちて完全に暗くなった廊下を歩いていると自分かどこにいるのかさえも分からなくなってしまう。公人はただ闇雲に歩いた。公人にはその廊下が一本道に見えた。公人が地下へ続く階段を降りようとするとその階段を降りきった所に影がいる事に気が付いた。それは非常口の緑の光に押し出された公人自身の影であった。その影は公人が階段を降りていくと全くそれと同じ歩き方でその階段を登ってきた。階段の中腹で公人と重なった。
 地下の廊下には窓がなく月明りも差し込んでこない。公人はその光の存在しない空間の中から懐中電灯を探し出した。その頼りない光をもとにさまよう公人は標本室と書かれた表札を見つけた。闇の中に漂うその入り口は公人に不思議な誘いの引力を投げかけた。
 公人は標本室のドアをすり抜けた。
 そこは薄暗く一種異様な奇妙な空気が重く漂っていた。懐中電灯で一つづつ標本を照らした。闇の中にひっそりと確実に存在する数々の標本は薄黄色い光を浴びてその赤裸々な隠しようの無くなった精神を晒している。
 その人間の形をした未熟な塊は公人を見下ろす位置にあった。公人はそれを見つめ上げ、懐中電灯で「公人を見下ろす者」を照らし続けた。

「大きく開けられた口からは生命に成り得なかった者の叫びが聞こえるようだ。生命でなくして断末魔の咆哮をあげる胎児。その光を知る事もなく終わった眼球はすべての存在を押し潰すかのように瞑られている。その胎児は死ではなく生を、生命を弾劾しているのさ。」

 円筒形の硝子瓶に屈折した光が胎児の身体に黒と黄色の縞をつくり映していた。
 彼は棚の中段に無造作に置かれているシリコンに固められた脳の断片を手に取って眺めた。公人の掌の上にのっている銀杏の葉のような形をした脳の切り身は指に無機物の冷たさを感じさせた。公人はすでに生命では無い「只に存在しつづける物質」となったそれを棚に置くと手に持っていた懐中電灯の明かりを消した。

 夜の駅には誰もいなかった。公人は待合室の入り口の上を見上げた。
 誘蛾灯が吊り下げられていた。古めかしいデザインの誘蛾灯は青白く不安定に瞬いて静かな暗がりを照らしている。公人は立ち尽くしたままそれをずっと見ていた。するとどこからか青白く美しい光に惑わされた一匹の蛾がふらふらと近づいてきた。蛾はそのまま光の中に吸い込まれて行った。青白い光が短く音を立てた。燐粉が闇と光にはらはらと舞い落ちた。
 公人は待合室の小さな椅子に座り込んだ。グレーの鉄とビニールでできた安っぽい椅子が軋む音とともに伸び上がった公人は窓に映った自分の顔を見た。外の暗さのせいであろうか、自分の顔が青白く見えた。
 公人は窓を開けた。涼しげな風が即座に室内に入り込んだ。公人の髪が乱れた。その風はかび臭い待合室の中の空気を払拭し公人の足元に爽やかにとどまった。黒く広大な空間の中についたり消えたりしている外灯も公人には心地好く見えた。公人は静かに眼を瞑り闇の中に身体を置き足を前に伸ばした。電車の来る音がした。
 
 家に帰り着いた公人は真暗な家の中に入っていった。
 公人は最後に天井を見上げた。いつもと同じくそこには七人の行者が列を為してこちらを見据えていた。彼らは何時までもそこにへばり付いていた。

 その下にぶら下がっている公人の死体は彼らから産み落とされた胎児の姿に見えた。




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