優しき修羅の腕の中で
真下マヒロ・作
起稿:1996年8月

 *  *  *

 その御堂の中には既に本尊などは無く、狭い堂内の天井に一匹のコウモリだけが住み着いていた。開け放たれたままの格子の扉からは風が剛々と吹いてくる。その風は御堂の中で巻いて行き場を失い断末魔のような唸りを残したまま立ち去って行く。
 御堂に入った人間は先ず間違いなく目の前の壁にある節穴のような隙間に気付くに違いない。さっしのいい人間は風の唸りがその節穴によって引き起こされることにも気付くかもしれない。行き場を失った風はその節穴から御堂の外に向かって吹き出されるのだ。そして殆どの人間がその節穴を覗く。覗いて驚愕する。それは眼球の向こう、壁の向こうに怒れる修羅の形相を見出すからである。
 御堂の裏手に聳え立つ樹齢数百年の桜の樹には青々と風に揺れる葉が茂っている。 
 その幹の最も太い部分にあるいくつもの瘤を御堂を背にして見つめると修羅の憤怒の形相が見えるのだ。いや、それは一概に憤怒とは呼べないかもしれない。人によってはその怒りの中に悲哀や狂気、或は喜悦や優しさを見るであろう。
 何故その二抱えもあるような太い幹の瘤がそのような形相をしているのだろうか。それを見たすべての人間が自然の偶然でそうなったと言うであろう。いや、何か霊的な物の降臨と言う人間もいるかもしれない。しかし本当の理由は誰も分からない。
 今も修羅は壁の節穴から吹き出してくる風をただ睨んでいるだけである。


 *  *  *

 吹き込んでくる風が御堂の壁を一斉に鳴らします。誰かはその音を「蛆虫が声をそろえて鳴いている様だ。」とおっしゃられました。実際にこの御堂には蛆虫が沢山おります。何故こんなにも蛆虫がおるのかは分かりませんが、この御堂には死の匂いがするというのも確かな事でございます。先日もこんな事がございました。

 あれはよく晴れた、茹だるように暑い日のことでございました。時も既に午後にさしかかろうとしていて、木々も嫋やかな響きを以て葉を鳴らしております。
 御堂の外で何やら話し声がいたします。二人連れの話し声で一人の声は野太い大きな声で、もう一人はか細い小さな女の声でございました。その声は段々この御堂に近づいて参ります。そして御堂の扉が開け放たれました。この時の私の驚きは言い様がございません。何故なら女の声だと思っていたのが、若く美しい武者姿の青年だったからでございます。
 その若武者は傷を負っておりました。私の目にももはや助かるまいと感じられる程の深い傷でございます。野太い声の主はその若武者の御家来でありましょうか。浅黒い皮膚に鋭い眼と厳つい髭を持ったその御家来はその若武者のことを敬い、頻りと若武者を励ましておりました。
 若武者が水を欲しがっております。御家来は若武者の鎧を脱がせ傷の処置を手早くいたし出て行かれました。若武者は足を投げ出し壁に背を持たせ息も深く喘いでおられます。白い顔が一層白くなり長く黒いまつげが微妙に震えております。堂内に吹き込んでくる静かな風が若武者の頬を撫でます。若武者は汗と血に塗れた美しい顔を外に向けられました。日の光が差し込んでまいります。若武者は息を引き取られました。
 一時経って竹筒に水を入れて帰って来られました御家来は若武者の変わり果てた姿を見てその竹筒を落とされました。その中から冷たそうな水が広がり御堂の床を濡らします。棒立ちに立ち尽くしていた御家来はふと我に返ると御堂に入られました。そして脇差を取り出し若武者の首に宛がい一気に切り落とされました。首から血がゆっくりと流れ落ち若武者の身体を赤く染めます。御家来はその首を取り上げると御堂を出て行かれました。
 暫くして御堂の裏の方からざくざくと土を掘る音が聞こえます。聞こえてくる場所は丁度桜の樹のある辺りでございます。どのくらいの時間がたったことでございましょう。静かに、そして次第に大きな声で御家来の泣く声が聞こえてまいります。私はこのような男の泣き声を終ぞ聞いた事がございません。何と申しましょうか、それは恨めしいほどに哀しい声でございました。
 はたとその声が無くなりました。御家来が再び御堂に入って来られました。御家来の顔には既に涙の跡も悲しみの色もございません。御家来は甲胄を脱ぎ、若武者の首を切り落とした脇差を手に取るとそれを自分の腹に宛がって一つ息をつき、まさに腹を切ろうという時でごさいます。
 御堂にどやどやと近づいてくる者がございます。それはどうやら落ち武者狩りの一行のようでございました。御家来は脇差を御堂の床板に突き立て、太刀を掴むとそれを手に御堂から出ていかれました。
 御堂の外でどのようなことがあったのか。私は存じ上げません。しかし一時後に御家来が満身創痍、全身に矢や太刀を突き立てられて御堂内に戻ってこられた折には、私はその御家来の運命を唯々悲哀に感じたのでございます。御家来は御堂の入り口で立ったまま太刀で自分の首を貫かれました。
 落ち武者狩りの一行は御堂内に入り込んでくると特に首の無い若武者を念入りに改めました。一行は鎧、刀剣、衣服の類を剥ぎ取ると御家来の首を取って去りました。あとには首の無い、身ぐるみを剥がされた二つの屍だけが残されました。
 蝉の鳴声が御堂を包んでいる暑い日のことでございました。


 *  *  *

 ぽつぽつぽつと雨が降り始めると堂内に住み着いたコウモリが骨の軋む様な声で小さく鳴いた。大きく明け放たれた格子の扉から雨粒混じりの風が吹き込み御堂の床を黒く濡らす。
 コウモリは黒い眼球を鈍く輝かせ大きな耳を動かした。その刹那、風が強く吹き込みそれを合図にしたかの様にコウモリは御堂の外に飛び去った。すでに御堂とその周辺は雨に静かに包み込まれている。コウモリは御堂の裏手にある桜の樹にとまった。
 空気の様に透明な雨水が桜の赤黒い幹を一層赤黒くして樹皮の形に沿って流れていく。

 雨水に濡れた幹の修羅は今もやや悲しげに御堂から吹き出してくる風を睨んでいるだけである。・・・


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