新プリがやってきた〜評価ってなんだ?

もう随分古い話になってしまったが、新型プリウスは 日本カーオブザイヤー(COTY)で無冠に終わった。 その一方で、新型はグッドデザイン大賞と米国のカーオブザイヤーを受賞した。今回はこのことについて書いてみたいと思う。

常々筆者は、人間の判断のほとんどは「短期」では間違っており、判断に要する時間が長くなるにしたがって正当な評価になるという考え方をもっている。したがって、短期間のうちになされる判断(これが社会一般では圧倒的に多数)のすべてとは言わないが、かなりがおかしなものだと考えている。名画が絵描きが死んでから何十年もたって評価されたものが多いとか、成長企業の株が数十年たって100倍の価値を持つようになるなど実例に事欠くことはないだろう。筆者の専門分野でも、メンデルというブリュンの修道院の聖職者が、地道にエンドウ豆の掛け合わせをして得た結果から有名な「メンデルの遺伝の法則性」を発見して、1865年に論文にしたが、実際にこれが評価されたのは発表後35年もたった1900年であった。また、バーバラ・マクリントック女史が1951年頃トウモロコシの斑入り現象を調べて「動く遺伝子」という概念を発表した時も、誰も関心を持たなかったと言う。彼女はあまりにも自分の論文が学会に受け入れられないので、その後一般的な学術誌に投稿するのをあきらめ、研究所の所内報のようなものに発表するようになってしまったという。もっとも、この時期はまだDNAが遺伝子の正体であることもはっきりしておらず、一般的な才能しか持ち合わせていない凡人研究者にこの概念を理解しろと言うのが無理な相談だったのではあるが。彼女の研究が認められ、学会に認められるまでに実に30年ほどかかっている。幸い彼女は90才ぐらいまで生きたので、ノーベル賞を最終的に受賞している。まあ、人間の認識能力なんてこんなものなんである。多数の判断は常に間違い、少数の判断が正しい、と言うことがぬきん出て優れたものの評価にはつきまとう、と私は確信している。

そういう元々認識能力の限界がある人間というものが、他人の、特に天才的に先駆的な人間の仕事を評価するのはどだい無理な話である。筆者はなんの巡り合わせかよくわからないが、いろいろな予算の申請などを評価する立場に回ることがある。このような審査会でいつも何とかならないかと思うのが、複数のメンバーによる評価という実にくだらない方法で課題が選考されていることである。上記の通り、多数者の共通判断では「希有の逸品」を「短期」で見抜くことは出来ない。そういう逸材はどこか理解しがたい何かがあり、意味不明あるいは胡散臭く思えたりするので、委員の誰かが低い点を付ける。一段目の審査では一つの申請にそう多くの人間が評価に与らないので、一人でも低い点がつくともうヒヤリングなどの次の段階に行くことはなくなってしまうのである。このような原理的に大物を拾えない評価法で、政府などの大型の予算が配分されているわけである。残念ながら、世の中を変えるようなおもしろい話が出てくるわけがない。

良くカリスマ的な社長が経営する企業は諸々の問題があると言われるが、その反面そういう人物はいわゆる「天才肌」であることが多く、そのような「逸品」を本能的に見抜く力を持っているうえ決断が早い。したがって、その様なワンマン社長が元気な間は、その企業は他を圧倒して成長することが出来るであろう。ところが、政府や役所、財閥系の企業のように官僚化が進むと、誰も決断に責任を取りたくないから会議を開いて多数の合意意見を得ようとし(結果的に責任回避のシステムに他ならない)、結果的に逸材を逃すことになる。今の日本は戦後直後に活躍したオーナー企業がひと時代を終え、みな官僚的な大企業になってダイナミズムを失っているのではないか。もうそろそろ、卓越した洞察力を持った目利きにすべてを任す選考システムを作っても良いのではないか。

ここで、日本カーオブザイヤーの審査というのを考えてみよう。これは私がやっているような審査どころではないどえらい大人数が関与するシステムになっている。もう最優秀車の選考会と言うより、ちょっとクルマに詳しい人たちの人気投票みたいなもの、と考えた方がよい。さらに、その時々のクルマ・ソサエティーの意向をかなり反映する政治的なショーの色彩が強い。しかも場合によっては、接待攻勢や圧力、判官贔屓、個人的関係の有無、など実にストレートでない判断基準が入ってくるものと予想される。

実は筆者は個人的に今回プリウスがこの賞を受賞できないのではないかという予感がしていた。しょっちゅう審査されたり審査したりするので、なぜかそういう勘が働くのである。その理由をあげるとすると、1)すでにハイブリッドカーでの燃費の良さは前回の受賞で織り込んでいる、2)先代プリウスを押した人は心情的に2代目の評価がどうしても悪くなる、3)新型プリウスが「売れるクルマ」をめざしている、4)トヨタも日本のCOTYは最初からあまり重要視していなかった感じ(あくまで感じ)がする、などである。

上述のように多数の人間が判断する上、積極的に1位に推し難い上記の要因が加わり、もしかすると惜敗するのではないかと感じていたのである。実際、新型プリウスはかなりの審査員が最高点に推していたにもかかわらず、なんと無冠になってしまったわけだ。しかも、最優秀技術賞や最優秀コストパフォーマンス賞(正しい名称はなんだったか忘れた)にも選ばれていないのである。一番良いクルマが賞を取れないなんておかしいと思う方もいるかもしれないが、実際にいろいろ評価をしていると一番良いものが選ばれないことなんてざらにある。いろいろ雑念が入る立場の人間が短期間で判断すれば、大体間違うと言うのがむしろ本筋である。

したがって、このクルマを世に出したトヨタの開発者は全く落ち込む必要などはない。むしろ、「逸品」のお墨付きをもらったと喜ぶべき事である。実際、新型プリウスに変な思惑が入らないグッドデザイン大賞や米国カーオブザイヤーでは文句ない受賞である。新型プリウスのその後の売れ行き、特に米国のそれは前回以上に良いようである。ユーザーと歴史が、時間をかけて本当の評価を下してくれるであろう。

さて、これは他山の石である。筆者も己を虚しくして評価の立場に望むとしよう。

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