「作り手の顔が見るクルマ」

日本の職人気質

先日、外国人客数人を連れて、両国の江戸東京博物館に行ってきた。この博物館は、江戸・東京の歴史の流れに沿って展示が行われ、この巨大都市がどのように成長してきたかを俯瞰することができる。ちょっと見物人が少ないのが心細いところだが、見る側にとってはゆっくり見られるので、それはそれで良いことかもしれない。

日本に来た外国人をあちこちに案内する時、何が大変かというと、古い日本の歴史や物事を英語で説明することに尽きる。こっちにとっては慣れ親しんだ内容が、意外に英語で説明しにくかったりするわけだ。この点、この博物館にはボランティアで外国語ガイドをやってくれる奇特な方々がたくさんいて、本当に助かる。(最近こういうボランティアが増えてきたことは、日本もなかなか捨てたもんじゃないなと思ったりする)

もう一つ、英語で説明する時に感じることがある。それは、自分の住んでいる日本の歴史についての知識が、意外に不足していると言うことである。これでも日本史を熱心に勉強した方なのだが、それでも何の種本もなくソラで説明しようとすると、ハタと困ってしまうのである。むしろガイドで勉強してきた外国人の方が詳しかったりして、何とも情けない状態になるわけだ。

一方外国人に説明することによって、何が日本の特徴なのかが見えてくることがある。その一つに今日取り上げる日本人の職人気質というものがある。以前日本は何でも「道」にしてしまうと書いたことがあるが、ことモノ作りに関しての日本人のこだわりは大したものである。

たとえば、東京江戸博物館で一番驚いたのは浮世絵の作成手順である。多色刷りの浮世絵ができるまでには、何回も色を重ねて刷り込んでいく必要があり、版がずれたり、色が混じったりしないように随分工夫もされている。

この時代の浮世絵とは言ってみれば町人文化・大衆芸術であり、現代ポップ・アートをさらに大衆化したようなもので、当時は芸術品としては日本でそれほど評価されていなかったらしい。現に、江戸末期から明治時代にかけて高級陶磁器の保護材として丸めた浮世絵を詰め込んで、ヨーロッパに輸出していたくらいである。

何も浮世絵に限ったことではなく、日本の職人は頼まれもしないのに好きこのんで業を極める。それがかれらの「粋」だった。だから普段使う鍋釜や、陶磁器、ありとあらゆる大衆消費財が、きめ細やかな工夫が施され、それがある種芸術品のレベルまで達してしまうのである。

そして、彼らは新しいことにどんどんチャレンジして、良いものがあれば外来のものでも何でも躊躇せずに取り込み、新しい次元のものに昇華させていった。食べ物なんかでは、こういう類のものは枚挙にいとま無く、「あんパン」「天ぷらそば」なんか良い例である。

安土桃山時代や鎖国後に日本にやってきた宣教師や外国人は、それらの職人芸の所産を見るにつけ、この国のレベルがただものでないことを知り、本国に報告している。

数多くの未開地を渡り歩いたバテレン宣教師などは、驚くべき文化を持つ国としてその中でたった二つの国を取り上げているが、そのうちの一つは日本であった。鎖国後にやってきた外国人は、職人芸の業の細かさ・精緻さを見て、日本がやがて優れた工業国家になると予言したらしい。

西欧でも、確かに芸術的とも言うほどの職人芸が見て取れる。しかし、その大半は一部の特権階級の人が所有すべき特注品のようなものに限られるのだ。日本古来の職人のスゴイところは、大衆レベルで使うモノにも「職人気質」の筋を通すことにある。

職人の国はクルマ作りがうまい

さて話をクルマの方に戻そう。クルマ社会は元来西欧起源のものであり、文化的には欧米に帰属されるべきものだと思う。実際、日本でもエンスー好みの輸入車は、ドイツ・フランス・イタリヤ・イギリス・スウェーデン車と言うところだろう。

こういう国はまた、独自の職人文化を持っており、それらの職人はマスターとかマエストロとか呼ばれて、大変尊敬される存在だ。

クルマという製品は部品点数が大変多く、しかも各部品の成熟度が高くないとろくなものにならないと聞いたことがある。したがって、一朝一夕では良い車を作ることはできない。

これらの欧米諸国は、みな職人芸のバックグラウンドを持っていたので、クルマ作りに適していたのだろう。確かにこれらの国のクルマは、どこか職人の息づかいが聞こえてくるようなこだわりが入っている。

こう書くと、自動車産業で一翼を担うアメリカが抜けてませんか、と言う人が出てくると思うが、私の個人的感想ではアメリカにはこういう職人気質は無いわけではないが、それほど強くないのではないかと思う。

アメリカのクルマ作りはむしろ、フォードに始まる大量生産・低コスト化と言う路線であり、職人が寝食忘れてディテールにこだわると言う感じが薄い(勿論例外もあるが)。

作り手の意気」が買い手をそそる

ヨーロッパ車が値段が高いにも関わらず、ステータスが高く、また多くの人が喜んで買う一つの理由に、私はこの職人芸の雰囲気があるのではないかと思う。

消費者は豊かになってくると、ただ走るだけでなくて、そこに何か特別な特質のあるクルマが欲しくなってくる。特に職人がこだわって作っている雰囲気を持つクルマは、ドライブすることによって作り手と対話しているような感じがするのではなかろうか?「ああ、こんな所まで考えて作ってあるんだな」とか、「おっ、こう言う状態ではこんな応答をするように味付けがしてあるのか」と言うような感じである。

それに対し、大量生産でコストのことばかり考えて作ってある車は、やっぱり「道具」の域を出ない。だからかの国ではクルマがどんなにボコボコで薄汚れていても、あんまり気にならないのではないか。

現在の自動車産業は大変激しい再編の波の中にあり、ほとんどのクルマメーカーは、コストをカットしてできるだけ利潤がとれるクルマをより多く売ることに血道を上げている。しかし、これが進みすぎると、どれも同じようなクルマで、そこそこ性能があって安けりゃいい、と言う「ユニクロの服」みたいな状態になってしまう可能性が大である。

そういうクルマは一時はよく売れても、いずれ飽きられる日が来る。その日になって、個性も大事だと判っても、付け刃の個性しか出せないのではないか。なぜなら個性は大変時間のかかる職人気質の熟成によるところが大であるからだ。

したがって、大勢は低コスト大量販売であっても、一部でこの職人気質を残す努力を自動車会社はするべきである。

大量生産品にも職人芸は活かせる

大量生産と職人芸は共存できないのだろうか?その答えは日本古来の職人が出してくれている。彼らは別に特別なものでなくても、一生懸命こだわり、彼らの英知を絞って良いものを作り、またそれを改良してきた。

日本人はこういう素晴らしいバックグラウンドを持っているのだから、ぜひこの厳しい再編の中でも職人精神を活かして欲しい。

プリウスを開発した内山田氏は、ファルクスワーゲン・旧ビートルにあこがれていたそうである。あのクルマこそ、大衆向けの大量生産なのに、何とも言えない職人の意地が見られたクルマなのではないだろうか?

私はプリウスにも開発者達の精神や意気込みを見ることができる。トヨタやホンダには是非頑張ってもらって、こういう現代の「職人気質」を残し、育んでいってもらいたい。なぜならそれが日本の大きなアドバンテージだからである。


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