質問26 「春に」に関する2つの疑問

 『地平線のかなたへ』第一曲「春に」について質問があります。ひとつはテキストの省略や追加についてです。最後の方の「大声でだれかを呼びたい/そのくせ黙っていたい」という2行が省略されているのに、その場所に、もともと原詩にはない「声にならないさけびとなってこみあげる」という一行が追加されているのは何故でしょうか。音楽の最後の盛り上がりを整える意味ではないかとも思うのですが、よくわかりません。

 もう一つは「春に」の出だしのコラレーションです。混声三部版では、出だし「この気持ちはなんだろう」の所を全員で歌い出すのに、混声四部版ではバスだけが休みです。これにはどういう意図があるのでしょうか。

富山県 メレア

解答 
 詩の反複や省略、置き換えというのは、詩人からすれば許し難いことかもしれませんが作曲の構成上どうしても原詩のままではうまくいかない場合もあるのです。言葉やフレーズの繰り返しは作曲者の判断でやってしまうことが
多いですが、省略、言葉の置き換えなどを行うときは原則として詩人に許可を取り、原詩は全文掲載したうえで、曲のテキストとしてどこを省略したかきちんと注釈をつけることにしています。詩人によっては変更を一切認めない人もいるようでが、そういう人はもともと詩に曲をつけること自体を認めない場合が多いようです。その一方で、JASRACにさえ届け出れば、いちいち断りを入れなくても自由にテキストとして使ってよい、という太っ腹な詩人も大勢おられます。

 さて本題の「春に」ですが、最後から2〜3行目「大声でだれかを呼びたい/そのくせ黙っていたい」を省略しながら、そこにわざわざ原詩にはない「声にならないさけびとなって」を入れたのは、メレアさんもお察しのとおり、曲の構成上のバランスを取るためです。この曲の主題提示部は第1行「この気もちはなんだろう」から第7行「この気もちはなんだろう」までで、そのうち6〜7行「声にならないさけびとなってこみあげる/この気もちはなんだろう」が提示部の山場です。再現部でも当然この音型は効果的に繰り返したいところですが、原詩では結びが「この気もちはなんだろう」一行しかありません。作曲者としては「声にならないさけびとなってこみあげる」の挿入は再現部の山場として欠かせないわけです(もっとも再現部では提示部より音楽をさらに印象付けるために、同じ音型ながらメロディラインを微妙に変化させています)。

 「大声でだれかを呼びたい/そのくせ黙っていたい」を省略した理由は再現部の山に向かって音楽を高めていく上で言葉がやや多すぎるのが理由です。この詩には「この気もちはなんだろう」というフレーズが第1、7、14行と最終行の合計4回出てきます。ですから私はこのフレーズで音楽をくくり、1〜7までを提示部、14行目から最後までを再現部として扱ったのですが、全24行中、再現部が10行もあるのはバランス的にやや長いわけです。それを承知の上で、言葉をどんどん畳みかけストレットしていく手法を用いて、力技で音楽を盛り上げていったのですが、それでもなお言葉が多すぎるため2行割愛しました。

 念のためお断りしておきますが、詩が長すぎるだの言葉が多すぎるだのいうのは、あくまでも付曲する都合で言っているにすぎません。お間違えなく。私は本当に好きな詩しかテキストに選ばないのですが、どんなに惚れ込んだテキストであろうと、一旦曲を書き初めてしまったら、音楽の流れを最優先するのが作曲家という人種です。ですから練習に入る前の真っ白な状態で、まず最初に原詩をきちんと鑑賞なさることをお勧めします。

 2番目のご質問「混三版では出だしを全員で歌うのに、混四版だけバス・パートがお休みになるのは何故か」について。混三版を歌うのは普通中・高校生で、まだ声が発育途上ですから、本当のバスの音色を出せる人は少なく、男声全員で歌ったときにもテノールに近い音色になるわけです。でも混四版を歌う成人合唱団のバス・パートは音域が低いだけでなく、いわゆるバスの深い音色を持つため、あきらかにテノールより重めの印象になります。そのため、柔らかく爽やかな雰囲気が欲しい出だしのメロディでは、混四版のみ、あえてバスを除外しました。

2002.6.6