質問15 詩の解釈に重点を置くのは、合唱指導において有効なアプローチか?

 わたしは中学、高校と6年間ブラスバンドを経験し、大学に入って初めて合唱を始めたのですが、合唱団での曲に対するアプローチに関してとても疑問を感じています。
すべての練習が詩の意味を中心にして行われているのです。たとえば難解な部分があると指揮者はそのイメージを数人に絵にして描かせ、それを思いながら歌いましょう、と言う感じの指導をしています。しかし合唱は詩の朗読ではなく曲の演奏なのだから、もっと詩からではなく、譜面から土台を読みとっていくべきではないかとおもうのです。抽象的に詩の内容を悩むより、具体的に楽譜を分析したほうがよいように思えます。それとも合唱は言葉があるのだからそのように練習するものなのでしょうか。       

広島県 P.P.

解答
 本当におっしゃるとおりです(深くうなずく私)。P.P.さんの疑問はそのまま、私が常々、日本の平均的合唱指導に対して感じている疑問でもあります。実はこの問題に類似したコメントを、以前、音楽之友社の「合唱指導」という本に書いたことがあります。
このHPでも耳にタコができるほど繰り返している内容ですが、ご参考までに全文を以下に転載(してもいいのか?)しますので、ちょっと長いですが、ぜひお読み下さい。

2001.1.28

作曲家にとって、詩とは何か。

 百ページの論文が書けそうな、深く大きいテーマですね。作曲する立場から正直に申し上げると、器楽のみならず声楽作品でさえ、実は音楽だけで発想したほうが、思いのままに構成したりフレーズを歌える点で快感が大きいかもしれません。わざと古典や外国語や呪文をテキストにしたり、ヴォカリーズにしたりする場合の多くは、作曲家が言葉の意味より音楽そのものを、声という楽器を使って表現したいと考えているのです。これはある種、作曲家の共通した嗜好ではないかと思います。

 もちろん多くの合唱曲や歌曲のように、詩をテキストにすることで、規制を受けつつも素晴らしいインスピレーションを得て、思いがけずスケールの大きい音楽が書けたり、詩のストーリー性によって曲の魅力が倍加されることも多く、だから歌物は面白いともいえます。テキストのある作品の場合、私の基本姿勢は、本当に好きな詩を選び、その世界を深く味わい、またそこから多くの刺激を受けつつ、イントネーションなどには細心の注意を払いつつ、しかし書き始めてしまったらあくまで音楽中心、素晴らしい土台の上に自分の音楽をがしがし立ち上げていくというものです。詩人が読んだら怒りそうですが。

 今、合唱教育のありかたを見ていると、そういう作曲家の熱い思いとはうらはらに、詩こそが一番大切なもので、曲はグリコのおまけみたいな扱いですね。詩の分析や解釈にかなりの時間を費やす一方で、肝心の音楽面の指導といえば、音取り以外は「感情を込めて歌おう!」という、はなはだ具体性を欠いた言葉ひとつ。ちょっとそれはないだろう、という気がします。

 では、どうしたらいいか。やはり詩は大切ですから、最初にじっくり鑑賞、研究するのは必要ですが、これはあくまで下準備。頭で理解するのと、実際歌うのとはまったく別物です。次に詩の理解を踏まえた上で、音楽の組み立てを知るために歌詞なしで歌う。できれば母音唱法で。これは、生徒のためというより、指導者が全体の構造やフレージングを理解する上でとても大切です。合唱は大勢で歌うのをひとつにまとめなくてはならず、どうしてもタテに揃えがちです。でも音楽とは横に流れて行くものです。何小節をワン・フレーズとして緊張を持続させるのか。どこにむかってエネルギーを集約させていくのか。それを考えるのが指揮者の役目です。そしてフレージングを把握したあとで、音楽の流れを分断しないように、しかもはっきりと意味が客席の隅々まで届くように言葉を乗せていく。頭で詩を分析する以上に、実際に音楽に言葉を乗せた時の発声、発音法が大切です。

 表情豊かな演奏というのは、安易な感情論ではなく、フレージングや音色コントロールバランス配分やディクション、といった音楽表現技術の積み重ねによって生まれるものだと思うのです。

「合唱指導」(教育音楽小学版6月号別冊 2000.6.20発行)より転載