ヲ01年10月3〜10日
World Music Days
2001 in Yokohama

 会場 横浜みなとみらいホール 

 ISCM(国際現代音楽協会)加盟国が持ち回りで毎年開催している「世界音楽祭」だが今年は日本現代音楽協会が初開催(いまごろ初開催というのはちょっと意外な気もするけれど)。さすがに8日間全部聴くわけにはいかないので、2泊3日だけ横浜みなとみらいに出掛けてきた。例年ならわざわざ飛行機に乗って外国に聴きに行くべき音楽祭なので、そのくらいの出費は安いものである。現代音楽というのはとにかくお金と縁のないジャンルな上、この不況だから貧乏くさい音楽祭にならないか心配だったが(余計なお世話か)今回は横浜みなとみらいホールの全面的バックアップが得られたとかで、とても洒落た雰囲気のリッチな音楽祭となった。ホールは新しくきれいだし、ホテル(パンパシフィックホテル横浜)も機能的で広く、ホールに隣接しているから大変便利。日本ではとかく音楽の内容だけ考えて、それを聴きに来る人へのサービスを考えない事が多いが、この音楽祭はそうした配慮がとてもなされているのに感心したし、日本人としてちょっと誇らしい思いがした。平日開催でも予想以上に客席は埋まっていたし。

 この音楽祭の開催にあたっては日本現代音楽協会のエライ皆さんの大変なご苦労があったようだ。少し前に、合唱コンクールの審査で作曲家の松尾祐孝氏とごいっしょしたが、彼は日本現代音楽協会の事務局長で、今回の「世界音楽祭」横浜開催の実行委員長。その折いろんな苦労話を聞かせていただいた。各種会合やイベントや演奏会に積極的に顔をだしてどんどん人脈を広げ、その人脈をもとに今回の音楽祭を成功に導いた松尾氏のバイタリティーには大変感心した。彼のようなプロデュース能力と政治力を合わせ持った新しいタイプの作曲家は日本ではまだ少ないが、これからはそういう人間をみんなで盛り立てて、作曲家の主張をもっと大きい場で発表するべきなのかもしれない。

 さて演奏会の中身だが・・。世界音楽祭といっても、刺激的なものからそれなりの出来までいろいろ。自分の出品していない演奏会を立て続けに聴くのって慣れていないこともあって、意外なほど疲れて足はむくみ、欲求不満がたまるのであった。不思議なことに中に一曲でも気に入った作品が聴けると、それまでたまっていた疲労は一気に飛ぶのだけれど。今回はたった3日の間に面白い作品に2作も出会えたのはとても運が良かったと言えるだろう。

 一つは莱孝之氏の17絃とコンピュータのための「Mirage」、もう一つはユッカ・ティエンスー氏(フィンランド)の「Soma」。最近珍しく「新しい」面白さを感じた作品がどちらもコンピューター系音楽だったのは非常に象徴的だった。莱氏の作品は箏の生音にライブ・コンピュータ・システムによる音声信号処理を施していくもので、奏者の左手にはセンサーが装着され、その動きでコンピュータ・パートのパラメータを操作していく。見た目にも派手で、音の運動性や音色の変化は、アコースティック楽器による現代音楽と比べると圧倒的に新鮮で面白い。ティエンスー氏の作品は管弦楽を使用してはいたが音楽そのものはコンピュータで発想しそれをオケに置き換えた、と思われる作品で、それゆえとても新鮮な響きがしたのである。もっともコンピュータ音楽がみな面白い訳ではもちろんなく、2人の才能によるものなのは言うまでもないが。

 現代音楽では今まで、「新しい音」とか「新しい手法」とかいうのが勲章であったが、こうなってみるとアコースティック音楽の「新しい音」とは何なのだろう。いい音楽、魅力のある音楽ならたくさんあるが、「新しさ」だけを評価するなら無調もドデカフォニーも、その後めまぐるしく入れ替わった数々の流行りの書法も、すでに聴覚的には全然新しく聴こえず、明らかにコンピュータ音楽にはかなわない。

 19世紀に完成した楽器や編成を使って考え得る「新しい音楽」というのは、もう手法的に出尽くしているのだろうか。もしかして21世紀の今、残響たっぷりのコンサートホールで、オーケストラや、弦楽四重奏などという完成された編成、楽器を使うこと自体「クラシック」?どうせアコースティック音楽を書くなら、偏狭な「新しさ」に固執せずもっと実際聴いて楽しめる(けっして安易な意味ではなく)作品を書くべきだし、本当に新しいものを求めるなら、楽器もチューニングも真に新しいものを追求するべき?「生身の演奏家によるアコースティック音楽」と「コンピュータでデザインする音響建築」みたいなジャンルにはっきり分かれていく(もちろん私は「生身の演奏家によるアコースティック音楽」派だが)のがこれからのあり方なのだろうか。今回莱孝之氏の魅力的な作品を聴いて、いろいろ複雑な思いを抱いたのであった。