38 道を譲る

 新宿、池袋、渋谷、東京など、東京の都市部の駅地下は、どこもJR、私鉄、地下鉄が複雑に入り組んで、まるで巨大迷路のようになっている。そこを前後左右斜め、あらゆる角度からあらゆる方向へ人がすごいスピードで行き過ぎていく。みんな無表情な顔でまっすぐ前を見ながら、衝突もせず流されもせずスピードも弛めず、もくもく行き過ぎていくのは、何だかすごい光景だ。

 毎日出掛けていると、私もそういう状況に体が自然に順応するのだが、作曲で一週間ほど家に籠もったあと、久しぶりに駅にいったりすると、あきらかに雑踏を泳ぐ技術が落ちていて、前後左右からくる人を避けて通るのが大変だ。シューティング・ゲームで敵方から発射される弾丸の嵐をかいくぐっているような気にすらなる。弱気になって前から来る人に一度道を譲ってしまうと今度は歩くペースが乱れ、その後ずっと人を避けたり、道を譲ったりし続けなくてはならなくなる。ある日もそういう悪循環に陥って、避けたり、譲ったり、謝ったりし続けた揚げ句、だんだん腹は立ってきた。どうして私ひとりこんなに弱気にならなくてはいけないのか!

 それである実験をしてみた。私が道を譲るとみんな当たり前のように通り過ぎていくが、もしぶつかりそうになっても道を譲らず強引にまっすぐ歩いたらどうなるか。正面衝突してしまうのか。それで、視線をやや下向きにして、何があってもまっすぐ行きたい方向に歩き続けてみた。不思議なことに誰ともぶつからないのだ。どうやらみんな前から接近してくる相手が避けてくれそうか、自分が避けないといけないか瞬時に判断しているらしい。何も見ていないような表情の奥で脳コンピュータの運動神経というか、反射神経がフル回転しているようなのだ。だからことさらはっきり道を譲ることは感謝されるどころか、そういうあ・うんの呼吸を逆に乱してしまう原因となっていたのだ。ふーむ。そうだったか。

 一方私は町でもよく道を譲る。狭い坂道で先方は上り坂を自転車こいで上がってくる私は徒歩で下ってくるという場面では、まず私が横へ避ける。その場合べつに先方から「ありがとう」という言葉を期待するわけではないが、ちょっと会釈して通り過ぎるのが礼儀というものだろう。駅の場合とちがって、別に雑踏の流れに乗る必要もないことだし。だが近頃は、全く無視して通り過ぎていく人が驚くほど多い。狭い道路で対面してこちらがはっきり道を譲ったのをわかっているはずなのに、脇で待っている私の前を通り過ぎるとき、全くこちらを一瞥もしないのだ。まるで私が透明人間であるかのように・・。

 一度など、さして広くない道幅をベビー・カー三台が横一列に並んでくるのに遭遇した。若いお母さんたちがベビー・カーを押しながらおしゃべりしているのだが、例によって私は道の脇に身を避けてベビー・カー三台を通そうとした。ところがそれに対して三人が三人とも全く無反応だったのには心底驚いてしまった。ふつう三台で道を塞いでいることに気付いて一台が後ろへ下がるとかするだろうし、それをしないにしても、三人の母親の前で道を譲ったのだから、一人くらい気付くのがふつうでしょう。
 でも三人とも私が脇に避けて三台が通過するのを待っているのには一瞥もくれず、ゆーーっくりベビー・カーを押しながら談笑しつつ通り過ぎてゆくのだ。私は自分が透明でないか、おもわず両手を見つめてしまった。

 これは一体なんでしょう。家でも学校でも「譲られたら軽く会釈を返す」とかいった初歩的マナー教育すら全然やっていないのだろうか。もっとも・・私も学生時代くらいまでは、道は譲られて当然!とか思っていたような気もする。よく考えたら私が前後の状況を判断して道を譲るようになったのは、車を運転するようになってからだ。それまではきっと道を譲ってもらったことに気付きもせず、横柄な態度で道を歩いていたに違いない。

 できれば義務教育のうちに学校で交通ルールとマナーをしっかり教える時間を作ったらどうだろう。一昔前とは比べものにならないほど、道路事情も複雑になっていることだし。そうでないなら、18才を過ぎたら車に乗る乗らないは別として、だれもが一度教習所に通って交通ルールをきっちり学ぶ事をお勧めしたい。目からうろこの基本マナーや重要なルールをたくさん学べます。

2002.11.1