23 きっかけ

 6歳からピアノ一筋だった私は、高校入学時、典型的なピアノ科気質であった。ピアノ科気質とは、独断と偏見で言い切ってしまうと、一に「勘が鋭い」二に「批判精神が旺盛」三に「保守的」。都立芸高は、一学年に美術クラスと音楽クラスの2クラスしかなくて、その一クラスしかない音楽専攻の大多数がピアノ専攻者だったから、勘が鋭く、批判精神が旺盛な人間ばかり集まって、なかなかエクサイティングな状況だった。あまりに一人一人個性豊かだったため、突出したボスの存在もなく、いじめもなく、意外に居心地のよい環境だったともいえる。
 しかしそういうクラスに教えに来る先生方は、さぞ大変だっただろう。高校生とはいえ皆プロの卵、専門分野には真剣に取り組むかわり、普通教科やソルフェージュのような授業はもろに息抜きタイム、おまけにみんな保守的ときているから、意欲的な授業なんて誰ひとり歓迎しなかった。

 そんな中へ、東京芸大作曲科の大学院を出たばかりの若手講師Y氏がソルフェージュを教えにやってきた。彼は、回りの白い目も気にせず、「ピアノ科だってオーケストラのスコアをよみ、ピアノ・コンチェルトのカデンツくらい書けなくてどうする!」と、よりにもよって意欲的な授業を展開し始めたのである。シューベルトの未完成交響曲のスコアを写譜させたり(これは予想外に勉強になった)、ピアノでいろいろなオーケストラ曲をスコア・リーディングさせたり。そしてついにある日、彼はモーツアルトのピアノ・コンチェルト(何番だったか記憶喪失)のカデンツを書いてくるようにとの宿題を出したのである。
 クラスはブーイングの嵐となったが、どういうわけか私はこの宿題にわくわくするほどの興味を覚え、家に帰るとスコアを見ながらその楽章だけ何度も何度も聞き返して主要モチーフの特徴を掴み、その特徴をちりばめつつ、転調を重ねて山場を作り、なんとかモーツアルトっぽいカデンツを作り上げることに成功した。パズルを解くような面白さだった。

 翌週の授業にその宿題を仕上げていったのは私一人。教室にあった2台のピアノの一台で先生がオーケストラ・パートを弾いてくれ、私はもう一台でピアノ・パートを弾き自作カデンツを披露した。ちょっと経験したことない大きな快感が走った。弾き終わると、Y講師は私のカデンツの出来を恥ずかしいくらい褒めちぎって下さり、「おまえは絶対作曲にすすむべきだ」とも言って下さったっけ。高校時代の友人は今会っても「牧ちゃんが作曲家になったきっかけは絶対あれだね。」などといっている。よく考えればカデンツはアレンジの一種で、創作の才能とはまた違ったものだし、絶賛はクラスで一人だけカデンツを仕上げていったことへのご褒美程度だったに違いないが、それでもこの一件は、恥をかくことばかり恐れていた私に人前で自作を発表する強烈な喜びを教えてくれたのだった。

2001.9.12