〔 蛍と音楽室 〕









「嵐くん、こっち。」
「おう。」

の後を追いかけるようにして、嵐はの隣の席に座った。
嵐がはば学の制服にネクタイを締めたのは、入学式以来だ。
席についたらネクタイがまた急に窮屈に感じられて、嵐はネクタイを少し緩めた。

その動作を見たが、くすくすと笑った。
「ネクタイしてる嵐くん、初めて見た。」
「入学式の日はしてた。」
すこしむすっとして嵐が答える。

「入学式なんて、顔と名前が一致してないよ。」
けれど逆に笑いながらにそう返されてしまって、嵐はそれ以上言えなくなってしまった。
嵐自身、入学式の日のを覚えているかと聞かれても困ってしまう。


「でも髪は伸びたよな。」
「ん?」
嵐が隣の席のの髪を触る。

「ちょ・・?!嵐くん!」
反射的には髪を押えて、半身ほど嵐から身を離した。
「どうした?」
嵐は指先からの髪の感触が消えて、少し寂しそうだ。

「・・・なんでもない。」
はカッと赤くなった顔を隠すようにうつむいた。
タイミングよく、そこで照明が落ちた。




「はじまるね。」
小さな声でが嵐に話しかけると、嵐は正面を見たままでうなずいた。





***





「設楽聖司さんの演奏です。」

その名前が呼ばれると、自分のことのようにどきん!との心臓が跳ねた。
久しぶりに見る設楽は、なおいっそう堂々とした風貌でステージに立っていた。


嵐は設楽がピアノの前に座ったとき、となりのが小さくひとつ息をはく音を聞いた。
そしてまるで合わせたように、ピアノの旋律が続く。




それは、設楽が在学中、音楽室から絶えず聴こえてきていた曲。

けれど、シロウトでもわかる。


音が違う。
強さが違う。


まるで別の曲のようだ。



やがて最後の音が奏でられ、会場全体が同じ静寂に包まれた。
と思ったら、割れんばかりの拍手と、スタンディングオベーション。
つられるように、嵐も立ちあがり、拍手を送った。
それなのに、隣にいるは立ちあがっていなかった。

「おい・・・・。」
こんなときは一番に飛びあがって、
「聖司せんぱい、すごーい!」と言ってそうなものなのに。
何かあったのかと心配して、の顔をのぞきこむ。


「うっ・・・ひっ・・・っく・・!」
「・・・・。」

無邪気に喜んでいるはずのが、泣いていた。
まだ会場では、設楽が残した熱が冷めない。
その熱の中で、嵐はすとん、との隣に座った。

「ごめ・・・っ、嵐く・・・・。」
「うん。」
が両手で顔を覆った。
嵐はの頭の上に、ぽん、と手を置いた。


「大丈夫だ。その気持ち、すげぇわかる。」
「んっ・・・・うん・・・・!」


設楽が、どれほどの想いでピアノにむかっているのか。
どれほどの決意で、そこに立っているのか。

それを知っている人は、ほとんどいないだろう。
設楽がピアノと離れていた数年間を、気まぐれだと評する人もいるだろう。

それでも、ここにいる二人は知っている。
設楽が、どれほどの強い決意でその鍵盤と向かい合っているのか。


嵐との、二人は知っている。



「捨てらんねぇんだ。本当に好きなもんは。」







柔道と、ピアノ。

対照的な二つのものは、二人の男に捨てられようとしていた。

その二人がそれを捨てる場所に選んだのは、幸か不幸か。
同じはばたき学園だった。

けれどそこには、大好きなそれを捨てさせないための運命があった。


二人は、に出会った。


そして、二人とも捨てられなかった。
が、二人から捨てさせなかった。


柔道を。

ピアノを。





全日本大学ピアノコンクール。
その頂点に今日、設楽は立っていた。






***





「次は俺の番だ。」
を家に送る途中で嵐が言った。

「次は俺が、全日本高校柔道大会で優勝する。」
「うん。嵐くんならできるよ。」
がいつもの笑顔で答えた。

「そしたらお前、泣くか?」
「え?」
「設楽先輩ん時みたく、泣くんか?」

嵐が足を止めた。
も同じところで止まって、真面目な顔をした嵐を見あげた。

きょとんとした顔を見せて、それでも想像してみているのだろう。
少し困った顔をしたに、嵐はふっと笑うと言った。

「笑え。俺のときは。」
「笑うの?」
聞き返してくるに、嵐は迷わず答える。
「あぁ、笑え。の一番の笑顔で、俺を待ってろ。」
はまたうーん、と考えてから、言った。

「笑いながら泣いててもいい?」

その答えに嵐は吹き出して笑った。
「あぁ、いい。笑ってりゃ、それでいい。」


泣かれるのはたまらない。
それでは本当に失ってしまっていたみたいだ、柔道を。
そんなのは嫌だ。


「わかった。じゃあ私、笑うね!」





***





を家まで送りとどけて自分の家に帰る道で、嵐の携帯電話が鳴った。
表示されている名前はさっきまで、ひとつのコンサートホールを自分の熱で満たした人だった。


「もしもし。嵐っす。」
「わかってるよ。お前にかけたんだから。」
いつもの設楽の憎まれ口も、なんだかほほ笑ましく感じた。

「ちゃんと目指しているからな、約束。次はお前だ。」
「わかってるっす。設楽先輩もちゃんと観にくるっすよね?」
「あぁ、行くよ。今度は俺がの隣にいて観てやる。」
「・・・・っす。」

少し空気が張り詰める。
設楽が電話の向こうでそれを察して笑った。

「相変わらず。ものすごい独占欲だな、不二山。」
「そんなこと・・・あるっす。」
嵐の答えに、設楽はこらえきれずに笑い出した。
案外、笑い上戸なところがあるのだ。


「お前といると、この俺ですら大人に思えるよ。」
「・・・・・。」
「怒るなよ。誉めてるんだ。」
「そうなんすか?」
「そうなんだ。」


そのあとは、それぞれの近況を話し合って、電話を切った。
こんなに長く設楽と話をしたのは久しぶりかもしれない。
本気でピアノをやるってことは、思った以上に大変そうだ。





「俺も、負けてらんねー。」

嵐はぐっと地面を蹴った。
さっきまできっちり締めていたネクタイをはずす。


見る未来は、もっともっと先だ。











設楽が高校を卒業する日。
泣きじゃくるに内緒で、二人で交わした約束がある。




設楽聖司は、ショパン国際コンクールの優勝。
不二山嵐は、オリンピックの金メダル。

それぞれがそれぞれの夢をかなえたときに、選んでもらうのだ。





「俺を選べ。
 
 俺を選ばせてやる。絶対だ。」





そのために、勝ち続ける。


柔道にも。
ピアノにも。




その自信を嵐に与えてくれたのも、だから。





   END