2010.10.06

      今日は「京都みなみ会館」に映画を見に行った。地下鉄の九条から西に歩いて、東寺の南門近くの裏寂れた昔からの映画館である。ストラスブールを舞台にして、6年前に会ったSylviaという女性を探して歩き回る青年の話、というか青年の見たり聞いたりした街の風景や音を辿っているだけである。喫茶店で見つけてストーカーのように追跡して電車の中で話しかけるのだが人違いだったという事である。そういうつまらない物語よりは、観ている人に街を感じさせることが主眼である。確かに見知らぬ街をうろついているような気分にはなった。僕の記憶ではサンフランシスコに出張で一人泊まって、暇に任せてうろつきまわったときの感覚である。

      音がやたらと強調されていて、確かに見知らぬ街では神経が過敏になるのか、聞きなれない音が気になるものであるが、これは大部分が石畳のせいである。確かにこれは都市であって、およそ土もなければ水も無い。食料は全て外からやってくるのである。都市と言うのは農耕を営んで自活している人々にとっては市であるのだが、人々を収奪する装置でもある。そこに集まった無為の人々が都会人ということになって、ストラスブールもまたそういうヨーロッパの都市なのである、というような事を考えてしまった。

      映像は美しいが、およそこんな所には安住できない、と感じてしまう。都市に住むストレスを解消するために、都会人はやたらとおしゃべりをする。カフェに集まってくるいろいろな人、カップルや女友達。その話の内容は知らされないのだが、表情や仕草をみていると、それぞれのテーブルで進行する人生の物語が見える。石畳の上で歩き回るのは身体障害者、乞食、そういう人たちの動きも断片的に且つ継続的に出現していて、街の風景を形作る。

      翻って、ここ京都もストラスブールほどではないが、都市である。学生の頃にはまだ小さな道の舗装は無くて、ちょっと歩けば田んぼや畑が沢山あったが、今では時折出会う田畑にほっとする。僕が京都で一番好きなのは川である。鴨川、高野川は勿論、小さな疎水でもあれば直ぐ近くに寄って川面を眺めてほっとする。その次が山。都市でありながら、土と水があちこちにある、というのが京都の良いところであろう。ストラスブールにも土や水はあるのだが、この映画では一切登場しない。あまりにも人間的且つ観念的な美意識がそこには感じられる。生身の人間の中だけは水が殆どであって、ぶよぶよとしているのだが、その対面する環境は全て石である。まるで対面する人間までもが石のように見えてくる。およそ関わる事が出来ない。そういう旅行者の目線が全てを覆いつくしている。青年はカフェで見る美女たちをスケッチする。Sylviaと思しき女性を同定する。そして後を追いかける。しかし、関わる事が出来ない。そういう意味で、この映画は極めて現代的なのかもしれない。

      そうそう、音楽は良かった。曲もそうだが、カフェで弾かれるキンキンしたヴァイオリンの音が生々しくて真近で聴いているようだった。

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