2025.02.15
昨日、図書館からの帰りに本屋に寄ったら、坂本龍一のコーナーがあって、『音楽は自由にする(Musik macht Frei)』(新潮文庫)が目について買ってきた。僕が会社を辞めた年に出版された本で、読もうかなあ、と迷ったのを思い出したのだが、文庫本になっていた。自伝である。僕は随分と勝手な想像で彼を批評してしまったので、後ろめたさがあって、少しは知っておきたかったのであるが、面白くて一気に読んでしまった。彼の残したソロアルバムはその時その時での彼の素直な気持ちを表現していて味わい深い。やはり一流の音楽家である。僕より5歳年下で早生まれなので、中島みゆきと同じ、学年でいうと僕の4学年下である。僕がいろいろと世の中の事を知ったのは一浪した後の大学時代だったが、彼は高校時代で、しかも彼は東京に居たということで、同じころに殆ど僕と同じことに興味を持ち同じような経験をしていたのが驚きであった。勿論彼の重心は音楽であり、僕の重心は自然科学であったので、人生という意味では全く違う。
バッハへの好み、ビートルズとローリング・ストーンズの対比的な好み、ドビュッシーへの憧れ。澁澤龍彦の本。大島渚。ジャズ(コルトレーン、ドルフィー、山下洋輔)。小泉文夫(民族音楽)。学生運動。吉本隆明、埴谷雄高、ゴダール。この辺までは共通しているけど、高校生活後半で現代音楽に目覚めていくところが僕とは違う。彼は西洋音楽で出来上がった耳を解体しなくてはならない、と思ったのだが、僕は物理学は理論の整合性を求めて素粒子や宇宙に向かうべきではなくて、日常的な化学のいわゆる複雑系に向かうべきだと思っていた。共通するところは近代批判である。彼の東京芸大時代は、本来の所属である音楽学部には殆ど居なくて、専ら美術学部で前衛的な活動に参加していたということである。国費の無駄だから早く卒業してくれと頼まれてやっと卒業制作をした。その中で僕が面白いと思ったのはフォーク歌手の友部正人との出会いである。知らないので、聴いてみようかと思う。「日本のフォークの歌詞にはうんざりしていた」とは言うものの彼の詩は評価したらしい。
1977年にやっと芸大を出てからは、豊富な人脈で様々な仕事が舞い込んできた。学生結婚の破綻で養育費負担があったという事情もあった。中島みゆきのスタジオ録音にピアニストとして参加したのもこの頃である。山下達郎とは音楽の深い話ができたということで、その伝手から大瀧詠一、細野晴臣、矢野顕子と知り合う。彼らは正規の音楽教育を受けてもいないのに、感覚的に坂本龍一と同じレベルの音楽知識を身につけていた、ということで、いよいよ彼もポップスに興味を持ち始める。
1960年代の『夜と霧』から70年代への変化(高度成長)に取り残された人々が亡くなる。阿部薫、間章。その波に乗った人たちが細野晴臣や高橋幸宏で、彼らの煌びやかな生活には坂本龍一も戸惑っていた。その中で、何となく頼まれるがままに引きずり込まれたのが YMO で、アメリカツァーが成功して、それを巧みに記録して宣伝したために、日本でのブームが巻き起こり、坂本龍一は戸惑ってしまい、YMO に反抗して作ったのが、B-2ユニッツ というアルバムらしい。そのライブの放送録音が YouTube にあった。この頃の僕は学位論文を仕上げてカナダでポスドク生活をしていた。(ユーミンが売り出したのもその頃である。)僕にはどこが良いのか未だに判らない。今ではゲーム音楽にしか聞こえない。
YMO 時代にメンバーそれぞれが音楽家として自立するための基盤を固めた。解散後、坂本龍一は大島渚の『戦場のメリークリスマス』に誘われて成功し、カンヌ映画祭でベルトリッチに出会った。その後1982年に矢野顕子と結婚した。いろいろな知識人に出会っている。現代哲学の課題と現代音楽の課題に共通項があった。これもまた近代批判である。彼なりの解答が『音楽図鑑』というアルバムということである。無意識の世界、人類の集合意識。これも YouTube で聴ける。舞踊音楽『エスペラント』。これは確かに面白い。
1986年にはベルトリッチから『ラストエンペラー』の満州工作員甘粕正彦役を務めた。俳優ではないのでプロ意識に欠けていて、いろいろと苦労したらしい。北京、大連、長春と巡って、日中戦争という歴史を考える機会になった。突然、溥儀が満州国皇帝に即位するときの戴冠式の音楽を作れと言われて、何とかこなした。その後イタリアで撮影が終わった後になって、突然映画全体の音楽を作れと依頼された。これには大変参ってしまって、何とかこなしたが、過労から倒れてしまった。更に驚いたことに、完成した映画では自分の作曲した音楽がズタズタにされて編集されていた。しかし、アカデミー賞を受賞してしまう。自分としては自由にやれるよりも、制約を受けた方が上手くいくという感じを持った。アルバムとしては、民族音楽を意識した『ネオ・ジオ』を出している。個人ではなく、共同体としてその来歴の中で出来ている音楽の強さ。1990年、海外の仕事が増えてきて、一番便利なニューヨークに引っ越した。翌年湾岸戦争。ブッシュは戦争後「新世界秩序」と言った。ヒトラーと同じ。アルバム『ハートビート』(Break the code and read the message)。もはや心臓の鼓動しか頼れないという思いは、中島みゆきの『体温』に相当する。
レコード会社が変わって、いろいろと試みている。「自分ができてしまうことと、ほんとにやりたいことというのが、どうも一致しない、出来てしまうから作っているのか、それとも本当に作りたいから作っているのか、その境目がよく判らない」と言う。才能に流されて、利用されて、自分が判らなくなっている感じだろう。(僕も会社でそういうことをよく考えていた。)「自分は何を為すべきか?」その跡が彼のアルバムに伺える。2001年、9.11のテロを経験している。核攻撃も想定されていて、相当な恐怖だった。しばらくは街が無音。生存者の見つかる可能性がなくなってきて初めて音楽が使われる。皆情報に敏感になる。坂本龍一は友人たちとメールをやり取りして冷静になり、日本で『非戦』という論集(幻冬舎)を出している。事件を生み出した元凶はアメリカの覇権主義だ。しかし、音楽的にも文化的にも彼はアメリカに負っているし、西洋音楽そのものはヨーロッパであるとしても、その植民地主義の恩恵である。だから、それを否定したいのだけれども自分の言語になっているからそれを言語化することができない。人類の生まれた地アフリカを描いた『エレファンティズム』という DVDブックを出した。
2004年、父の死。アルバム『キャズム(裂け目)』は世界の裂け目を意識した。これもなかなか良い。「コモンズ」という新しいレーベル(プロジェクト)を立ち上げて、『にほんのうた』『音楽全集』を出した。2009年にアルバム『アウト・オブ・ノイズ』。生け花のようにいろいろな素材を置いて眺めている感じ。近代は音楽を論理的に制御しようとしてきてピークに達した1950年頃、ブーレージュやケージが出てきて、偶然性を持ち込み始めた。その流れ。グリーンランドに行ってみて、自然は人間がどうこうしたところで敵うものではないという実感を持った。人間が考え出したものから出来る限り遠ざかりたい、という願望。まあ、判らないでもないが、やはり誤解の元かもしれない。
<目次へ> <一つ前へ> <次へ>