2025.04.16

原田マハ原作ドラマ「まぐだら屋のマリア」の前編を観た。友人を裏切って自殺させてしまった料理人(紫紋)が人生に絶望して自殺しかけて再生する、という物語のようである。北海道の海辺の海岸にある「まぐだら屋」という食堂を舞台にする。ここには「マリア」と呼ばれる女性が地元の漁師に支えられて一人で運営している。かの絶望した料理人紫紋はマリアの料理で癒されて生きる気になり、まぐだら屋を手伝う。ただ、まぐだら屋の経営者は病床に臥せっていて、マリアを悪魔のような女だという。最後に中島みゆきの新曲「一樹」がある。なかなかに深淵そうな歌詞。

    「まぐだら屋のマリア」の後編。引きこもりでSNSをやっていて、「うざい」母の殺しを依頼してしまった男の子がやってくる。地名が「尽果(つきはて)」というだけあって、罪を犯して生きる意欲がなくなった人が何故か集まってくる。かの料理人と同様に自殺しかけたところを救われる。マリアは「お母さんはあなたをこうして引きこもりから外に出すために自らを犠牲にしたんだよ、無償の愛なんだよ、だから生きなさい」と諭す。その後、お母さんは死んでいなかったということが判り、帰っていく。ここでも一品料理が彼の心を慰める。美味しく食べることで生きる気になる、というところが共通している。

    さて、いよいよ「マリア」の話になる。突然また人生に絶望した男がやってきて、たまたま「マリア」に出会うのであるが、二人は因縁で結ばれていた。マリアは綽名で本名は有馬理亜。父親は居ない。母親は男を作り、その男が理亜を犯す。理亜の学校の先生(与羽)が理亜を心配して通う内に理亜は先生が好きになってしまう(ドラマ『高校教師』と同じ状況)。先生の妻にそれが知られて、痴情話になる。妻の方は飛び降り自殺、理亜は自ら首を切るが助けられる。その現場に居たのが妻の母であり、彼女(桐江)が実はまぐだら屋を経営運営していたのである。何年か後、マリアは病床の桐江に謝罪をするためにやってくるが、許されない。漁師たちは気を利かせて、閉鎖していたマグダラ屋の運営をマリアに任せて、桐江の面倒も見させることにしたということである。

    さて、突然来た男というのはかの先生(与羽)である。再開した二人は一緒に近くの町に隠れて1ヵ月を過ごして、マリアは与羽を生きる気にさせる。そこでも手料理が切っ掛けとなっている。その間に桐江は死期が近づき、マリアが帰ってきて、最後に和解する。全てを見守っていた料理人紫紋は尽果を去って母の元へと帰る。

    重要な場面で手作りの料理が使われていることとか、登場人物の名前が聖書を模擬しているところとか、それなりに、しゃれたところがあるが、基本的には、どんなことがあっても生きなさい、生きることで世界(自分の過去)を引き受けなさい、というメッセージがある。そこで、中島みゆきの主題歌『一樹』ということになるのだろう。まぐだら屋とそれを支える漁師たちは絶望した人に生きることを選ばせる、そのことを「一樹」として歌ったということだろう。

    ひび割れだらけの幹を見上げれば
    空へ空へと まるで道です
    あんなに探して探した道が
    説明も無く ただ此処に有る
    羨まずして咲く花のように
    妬むこともなく舞う風のように
    身に付けてきた鎧も刃も
    総て要らない国へゆきたい
    一樹 その根元へと辿り着き
    疲れ果てた腕を巻きつければ
    一樹 その幹に耳を澄まして
    歌のように脈を聴こう
    
    笑えるものあらば笑ってみよと
    試すが如く 冬は降り積む
    許せるものなら許してみよと
    憎むが如く 嘘は降り積む
    さまよってゆく 羊を呼ぶ声
    風に飛ばされて散り散りになって
    だまされてゆく心を呼ぶ声
    百億光年の先から
    一樹 教えてよ人の行く先
    生まれ変わる先の続きのこと
    一樹 私は一粒の水に
    いつかなりうるだろうか
    
    一樹 教えてよ人の行く先
    生まれ変わる先の続きのこと
    一樹 私は一粒の水に
    いつかなりうるだろうか
    いつかなりうるだろうか

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