2018.09.30
フルートフェスティバルが、西条(東広島市)の「くらら」であった。台風24号でJRも止まるだろうと言われる中、前夜の合奏練習で実行するかどうかを問われて、大多数の挙手によって実行が決まり、マイクロバスを出すことになった。広島駅から1時間位かかる。「くらら」は横幅より奥行きが深くて、天井が高く、客席も側面が4階まである。天井は通常吸音性なのだが、大きな反射板が全面にあって反射するようになっている。だから音が細長い部屋の遠くまで届くのだろう。側面は通常反射気味なのだが、全体に拡散気味に設計してあるようである。大オケ(アマチュア)の曲(『峠の我が家』『想い出は銀の笛・第2,5楽章』)は、世話役チームの趣味だろうが、凝った和声が多かったので難しかった。指揮者の もりてつや さんに絞られた甲斐があって、何とか出来たように思う。全体の中では小オケ(プロ)の4人の技巧的なソロをフィーチャーした「日本民謡集」と全員の「ウェストサイドストーリー」が圧巻だった。

・・・台風とタイミングが一致したので、お客さんは予定の半分以下であった。帰りにはJRが止まってしまって、家内は帰れなくなり、駅前のホテルに泊まった。高速道路も閉鎖され、マイクロバスは2号線を通ったのだが、1時間ちょっとで広島駅に着いた。そこから広電で延々と1時間近く乗ってやっと家にだどり着いた。この年だと体力の限界である。それにしても、中国フルート友の会の組織力には感嘆・感謝である!

・・・今回のフルートフェスティバルでは  もりてつや  さんが随分熱心に指導して下さったので、とても勉強になった。僕は、一見気紛れに見えるタクトの振り方ばかり気にしていたので、合奏練習では音を間違えることもしばしばあった。指揮者に「飼い馴らされている」という感じさえした。リズムというのは単なる一定周期の繰り返しではなく、フレーズの区切りであり、その「意味」を伝えるための手段である。テーマを演奏したり、歌っている場合、これは無意識の内にも実現してしまうものだが、合奏の一声部としてそれを支えている場合には意識しないとできない。大合奏の場合はテーマのパートがよく聞こえない場合や遠く離れていて遅れて聞こえる場合もあり、指揮者を見ないとタイミングが掴めない。多分、西洋音楽では複雑なリズムパターンよりも和声を重視するからこそ、アナログ的にタイミングを見計らってうまく合わせることが重要なのだろう。(勿論、全員が同じ気持ちになるまで練習すれば、これは無意識化するのだと思うが。)音楽は1人ではできない。独奏の曲であってもその中に複数声部が陰に陽に含まれているし、和声の起伏に同期してリズムも変化する。だから、絶えず他声部を意識してそれに合わせる、という緊張感が必要であり、その姿勢が音に表れる。(機械的な漫然とした演奏は聞く人の心に訴えない。)作曲された多声部のフレーズを組み合わせて、その場限り、一回性の「意味」を提示する、というのは、社会的に意味を規定された言葉が、文法構造を意識した組合せと階層構造によって別次元の「意味」を提示する事に類似している。

・・・アンコール曲はモーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』で、これはフルート合奏で良く演奏される美しい曲であるが、皆良く知っているということか、合奏練習ではあまり解説も無く時間も取らないので、調べてみた。「ようこそ真実の肉体よ」という意味で、イエス・キリストの事である。歌詞にはキリスト教のエッセンスが詰め込まれている。処女マリアから産まれたこと。人間の罪を贖うために十字架にかかった事。ここから音楽が暗転して、そのとき、脇腹を刺され血が流れた事が歌われる。この血という言葉で音楽が絶望的な響きになる。最後に、音楽が少しづつ盛り上がって、我等人間に死における試練を先だって味あわせてください、と信者の願望を歌っている。この死という言葉が引き延ばされてクライマックスを作っている。37年位前、フランスの友人を訪ねてコールマールの美術館で血の流れている絵を見てちょっとショックを受けた事を思い出した。
 
<目次へ>  <一つ前へ>    <次へ>