昨日は昼から街へ出て、橋本陽子エコール・ド・バレーの創立30年記念公演を見に行った。白装束の二人で踊る創作バレー・ウインタービジョンがなかなか面白かった。体の急激な大きな動きで、冬の厳しさを表わしているように見えた。大作ドンキホーテは半分くらいに縮めてあって、筋が分かりにくかったが、久しぶりに見るバレーは新鮮に感じた。

    バレーというのは基本的ないくつかの形の組み合わせであり、まるで楽譜を演奏するように、ソロであったり多人数であったりして、ともかくいくつか符牒のような仕草を混じえて、物語りが進行するわけであるが、こういった体系的な芸術というのは、やはり西欧文化の得意とするところである。それに反逆するようにアメリカで生まれたモダンダンスをもその中に組み込んでしまった。いずれにせよ、クラシック音楽と同様、第一義的には作曲家振付け家が表現の主体である。日本の舞踊や舞踏が、あくまで自然な振り付けであるのに対して、バレーは何しろ美しい優美な形の為に、人体を不自然なまでに伸ばしたり曲げたりする。こういった目的意識を持った、人体の楽器化こそ西欧文化の特徴である。勿論自然科学やコンピューターの世界にも共通する。貴族の遊びの為にここまで体系化する必要があるのかと日本人なら考えるであろう。自然に即して生きるのではなく、自然を人間の為に征服するという思想に通じる。まあいずれにせよ、バレーを見て感じる事は、そういった体の動きや線の面白さであり、それが繰り返され、体験として自分の中に蓄積されてきた時に発見する何かである。生活という物がある種の非常に首尾一貫した世界観から見直されるような不思議な感じである。やはりそういう事なのだろう。自分の中に世界のモデルを持つ事。そういう形での世界との調和。これはその場その場での感覚的な人間関係の馴れ合いとは少し異なる。厳然と敷かれたルールに基づいた関係である。

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