dB's

Biography (渡辺睦夫)


▼1967年

・ ノース・カロライナ州ウィンストン・セイラムのレイノルズ・ハイ・スクール。全てはここから始まった。この年、幼なじみだったクリス・ステイミーとミッチ・イースターの2人にピーター・ホルサップルが出会い、ウィル・リグビー、ジーン・ホルダーを誘って、“オズ・モノリス”なるバンドが結成される。音源が残っていないため、どんなバンドかは不明だが、後に分裂・融合を繰り返しながら現在に至る彼らの原点がこのバンドにあったと思われる。


▼1972年

・ ミッチ、クリス、ピーターの3人は続いて“ Rittenhouse Square ”というバンドを結成し、6曲入りのミニ・アルバムを出す。ピーター曰く「聴かなかったからといって何の損もない」し、「ソングライティングも未熟」だった作品。クリスは「スニーカーズよりはまし」と言っている。


▼1976年

・ クリスはミッチ・イースターと“スニーカーズ”を結成。メンバーにはウィル・リグビー、ロバート・キーリイ、ロブ・スレイターの3人もいた。シングル“Sneakers”、ミニ・アルバム「In The Red 」(リリースは78年)と2枚の作品を残したが、3枚目の「Wig Cleaner 」は結局未完成に終わる。ただし、この「Wig Cleaner」は後に大幅なリミックスを施され、初期の作品とともにコンピレーション盤「Racket」(92年)に収録された。


▼1977年

・ この時代の彼らを語るのに忘れてはならないのが、ニューヨーク・パンクの動向だ。75年から78年にかけてパティ・スミス、テレヴィジョン、リチャード・ヘルらが次々と優れた作品を発表し、ニューヨーク・パンクはその全盛期を迎えていた。77年2月にはテレヴィジョンが名作「マーキー・ムーン」を、9月にはリチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズが「ブランク・ジェネレーション」を発売している。

・ 当時テレヴィジョンに心酔していたクリスは、当然のごとくニューヨークへとその活動場所を移し、春にはアレックス・チルトンのバンドでベースを担当するようになる。その縁もあってか、6月にアレックス・チルトンのプロデュースにより、初のソロ・シングル“Summer Sun ”をオークから発表する。オークはテレヴィジョンのマネージャー、テリー・オークが彼らのレコードを出すために作ったレーベル。当然その中心はパンクだったのだが、他のジャンルにも理解があり、クリスのこの作品はビッグ・スターを意識した、後のdB's よりもポップなものだった。

・ 一方ノース・カロライナではピーターがミッチやロバート・キーリイなどの元スニーカーズ組と合流し、“Peter Holsapple & The H-boms ”を結成していた。


▼1978年

・ “Peter Holsapple & The H-boms ”はクリスの始めたニューヨークのCar Records (クリス・ベルの“ I'm The Cosmos ”を発掘したことでも有名。)からシングル“ Big Black Truck ”をリリースするが、結局このシングル1枚を残してすぐ解散してしまう。

・ クリスは、かつての仲間であるウィル、ジーンをニューヨークに呼び寄せ、3人で“Chris Stamey & The dB's ”を結成。本拠地をホボーケンに移し、同じく Car Records でシングル“(I Thought )You Wanted Know ”(リチャード・ロイド作)を製作(リリースは12月)する。ここからわかるようにdB's はその初期において完全にクリスのバンドであった。

・  H-Bombs 解散後、ピーターは単身メンフィスに向かい、サン・レコードのサム・フィリップスとレコーディングを行うが、このときの作品が日の目を見たかどうかは不明。

・ 一方 dB's の方は順調に活動を続け、秋にはニューヨークへ出て来たピーターが合流し、ピーター、クリスの2人がそろった“ The dB's ”の本格的な活動が、ここに始まったのである。ピーターが参加して初めてのギグは、この年のハロウィーンにアーヴィング・プラザで敢行された。しかしその出来は思わしくなく、彼らは冬中リハーサルに専念することになる。


▼1979年

・ その成果もあって演奏に自信をつけた彼らは、Harrah、TR3、CBGB、Max's Kansas City などNYの有名なライブ・ハウスの常連となる。

・ また、この頃彼らのもう一つの拠点となったのが、アラン・ベトロックの主宰する「New York Rocker 」誌のオフィスだった。アランは彼らに相当入れこんでいたようで、練習場所を提供するだけでなく、1st では自らプロデューサーを買って出ているほどだ。自転車やバック・ナンバーに埋もれた屋根裏で、彼らは他のバンドと一緒に練習に明け暮れていたという。後にピーターは「その頃レコーディングした作品が『Basement Tapes 』だったとしたら、『New York Rocker 』のオフィスは僕らの“Big Pink ”だった」と回想している。


▼1980年

・ 前年「New York Rocker 」のオフィスでレコーディングされた作品は、アランの運営するShake Records から「Ride The Wild Tom Tom 」としてリリースされる予定だったのだが、どういうわけか発表されず、代わりに彼らはアランの紹介でイギリスのレーベル Albion と契約する。結局 Shake からはシングル“ Black & White ”だけがリリースされ、これが“ The dB's ”としての正式なデビューになった。


▼1981年

・ Albion からの第1弾シングル“ Dynamite”、そして結成から3年を経て、待望の1st アルバム「Stands for Decibels 」が発表される。2月にはロンドンでライブを行い、しばらくイギリスをツアーして回る。ミッチ・イースターも同行したらしい。

・ ツアーの終わり頃、ソフトボーイズの元メンバーキンバリー・ルーとセッションをする。しかし、この頃からクリスと他のメンバーとの関係が悪化。クリスの単独行動が目立つようになる。


▼1982年

・ 2nd アルバム「Repercussion 」リリース。レコーディングはレーベルの意向でイギリスで行われ、メンバーの仲は最悪に。クリスが脱退してしまう。

・ ピーターはソロでアコースティック・ライブを始め、ピーター・バックからの電話が縁で、REMのツアーにも参加する。

・ また、ピーターはこの時幻のソロ・アルバム「No Nebraska 」の製作にも取りかかっていた。結局完成はしなかったが、5、6曲がレコーディングされ、その内の1曲“ Elvis,What Happened? ”のみがコヨーテのコンピレーションで聞ける。

・ 脱退したクリスは、アトランタの DB レーベルから1st 「It's A Wonderful Life 」を発表し、ソロ活動に乗り出した。


▼1983年

・ 3人になったdB's は新たにベアズヴィルと契約。「Like This 」の準備を始める。


▼1984年

・ 3rd アルバム「Like This 」リリース。しかし、当時のベアズヴィルはちょうどレコード会社から、レストランの経営、ビデオ、オーディオの販売などを含めた総合会社への転身を図っているところで、ろくにプロモートをしてもらえなかった。それに加えて社長のアルバート・グリスマンが十分な資産を残さずに死んでしまうという不運も重なり、彼らにとっては決して居心地のよい会社ではなかったようだ。バンドとしての活動は自然と停滞していく。


▼1985年

・ この頃からクリス、ピーター共にセッション、プロデュースなどの課外活動が目立つようになってくる。中でも特筆すべきはアントン・フィアのプロジェクト、ゴールデン・パロミノスへの参加だろう。クリスはこの年「 Visions Of Excess 」でギター、ピアノなどを担当し、翌年の「 Blast Of Silence 」にはピーターも曲を提供している。その結果、このプロジェクトで知り合ったマシュー・スウィート、シド・ストロー、ピーター・ブレグヴァドらのソロ・アルバムにやがて彼らは関わっていくことになる。

・ また、そうした活動がピーターとクリスの関係を一時的に修復したのだろうか。年末にリリースされたクリスの2nd ミニ・アルバム「Christmas Time」にdB'sが友情参加。久しぶりにオリジナル・メンバー4人でタイトル曲を演奏している。

・ なお、ウィル・リグビーのソロ・アルバム「 Sidekick Phenomenon 」もこの年に発表されており、ピーターがプロデュースを担当した。


▼1986年

・ 新メンバー、ジェフ・ベニネイトを加えてIRSと契約。一時は解散寸前だったが、心機一転し、ニュー・アルバムの製作に入る。


▼1987年

・ レコーディング自体はスムーズに進行したが、終わり頃に“ワイガルズ”加入のためジーン・ホルダーが脱退、オリジナル・メンバーはピーターとウィルの2人になってしまう。そんなごたごたの中で、4th アルバム「 The Sound Of Music 」リリース。

・ REM の「ドキュメント」ツアーの前座をするために急遽ハロルド・ケルトを新メンバーとして補充する。その後すぐにハロルドは脱退し、後任にエリック・ピーターソンが決まる。メンバーの入れ替わりが激しい年だった。

・ クリスの方は順調に3rd アルバム「It's Alright 」をリリースしている。


▼1988年

・ ホームレスのためのベネフィット・コンサートがノース・カロライナ州シャーロットで開かれ、そのコンサートのために、オリジナル・メンバーによる dB's が一時的に再結成された。これがきっかけとなり、クリスとピーターの交友が復活し、2人は一緒にライブ活動を始める。

・ その一方、ピーター、ウィル、ジェフ、エリックによる dB's もギグをやり、デモ・テープを作るなどの活動を続けていたが、最終的にピーターは解散を決意する。ラスト・アルバムの企画を練るものの、レーベルに反対され、あえなく挫折。10年間続いたグループは自然消滅する。


▼1989年

・ 1月の日本を皮切りに始まった REM の「グリーン」ワールド・ツアーにピーターがキーボードで参加する。最終日の映像は「ツアー・フィルム」としてソフト化されており、ピーターの姿も見ることができる。

・ また、そのツアーでオーストラリアに寄った際、地元のラジオ番組「Fast Fictions 」に出演したピーターは、3時間に渡るインタビューを受けた。この時スタジオ・ライブも行われており、そのライブはカセット「Melbourne 1989」として発売されている。

・ クリスはこの頃ソロ・アルバム「Work Book 」を出したボブ・モウルドのバンドに参加、一緒にツアーをした。


▼1990年

・ ピーター・ブレグヴァドのソロ・アルバム「King Strut & Other Stories 」にクリスとピーターの2人が参加。中でもクリスはアンディー・パートリッジと共にプロデュースを担当し、大きな役割を果たす。


▼1991年

・ RNA からホルサップル&ステイミー名義で「Marvericks 」を発表する。マーシャル・クレンショウの前座を始め、ツアーも活発に行われた模様。

・ また、リリースはそれより後になったが、以前録音されていたクリスの4th アルバム「Fireworks 」も同じ RNA から発売される。


▼1992年

・ クリスの1st のリミックスとシングル、未発表曲まで含んだ「It's A Wonderful Life Contains Instant Excitement And More 」が ESD よりリリースされる。ESD はさらに、スニーカーズの初期作品と幻の3枚目「Wig Cleaner 」のリミックスを収録した「 Racket 」を発売、翌93年にはクリスの2nd から1曲カットし、11曲プラスした「 Christmas Time 」を再発するなど、クリス関係の発掘に力を入れている。

・ ピーターはこの年、新グループ“ The Continental Drifters ”に参加。他のメンバーは Gary Eaton ,Ray Ganucheau ,Carlo Nuccio ,Mark Walton 。最近サイコ・シスターズとしてあちこちに顔を出しているスーザン・カウシルとヴィッキー・ピーターソンの2人も協力している模様。ニュー・オリンズを中心にライブ活動を始めた。


▼1993年

・ 79年の「New York Rocker 」テープを含むコンピレーション「Ride The Wild Tom Tom 」がライノよりリリースされ、dB's 再評価の気運が高まる。

・ 彼らの最近の活動としてはまず、ピーター・ホルサップルが前年からの“ The Continental Drifters ”名義でシングルを SOL から発表する他、活発なサポート活動を展開していることが挙げられる。目立つのはスペインのレーベル“ Munster ”への急接近とスーザン・カウシルとの共同活動だろう。前者としては Los Valendas のアルバムに全面参加したり、Privata Idaho のシングルでギターを弾くなどしているし、後者では The Continental Drifters 以外にも、グラム・パーソンズのトリビュート盤、カウシルズのクリスマス・シングルなどで共演している。前者の経緯はよくわからないが、後者には実はわけがあり、ピーターはいつの間にか前妻アイリーンと別れて、スーザン・カウシルと結婚していたのだ。秋には彼女との間に子供まで生まれたという。

・ 一方クリス・ステイミーはSOLからのシングル“ Alive ”で健在を印象づけた後は、ニューヨークのバンド She Never Blinks をプロデュースするなど今のところ裏方の作業に徹しているようだ。

・ ウィル・リグビーはやはり SOL から2枚のシングルを発表するかたわら、元ビートのポール・コリンズ・バンドの最新アルバムやマシュー・スウィートのツアーなどに参加。

・ ジーン・ホルダーは演奏業よりプロデューサー業に精を出しており、フリーディ・ジョンストン、カウボーイ・マウスらのプロデュースを手掛けるなど、それぞれの活動が続けられている。


・ 4人の活動をこうしてばらばらに追っていくのもそれなりに楽しいものだが、そういった重箱の隅をつつくような作業が dB's に感じる充足感に如くものでないことは明らかだ。dB's 再結成は無理としても、いずれ近いうちにホルサップル&ステイミーのような形での共同作業がまた見られるのを、僕は内心ひそかに期待している。といってもピーターにその気があまりないので期待薄だが、それがもし彼のソロ・アルバムとして実現されたとしたら……。僕にとってこれ以上の幸福はないといえるだろう。(W)


参考資料

「 New York Rocker 」 クリス・ステイミー・インタビュー

「 Bucketful Of Brains 」#24、33、38(以上資料提供:五十嵐康史)

「マーヴェリックス」ライナーノート (伊藤英嗣)

「 Ride The Wild Tom Tom 」ライナーノート(ホルサップル)