Jules Shear

Biography


●ジュールズ・シアーは1952年3月7日、ペンシルヴァニア州ピッツバーグに生まれた。ハイスクール卒業後地元のピッツバーグ大学に進むが、途中でドロップ・アウトして、73年にロスアンゼルスへと向かう。最初のころは小さなフォーク・クラブを中心に活動していたらしいが、やがて左利きであることからネーミングした「サウスポー」というグループを結成する。これがどんなバンドだったのかはよくわからない。その頃は全く無名なジュールズの名が世に出たのは、次に参加した「ファンキー・キングス」によってである。これは6人編成のバンドで、ジャック・テンプチン(イーグルスの「Peaceful Easy Feeling」、「Already Gone」やグレン・フライの名曲「I Found Somebody」、「The One You Love」の作者)、リチャード・ステコール、そしてジュールズの3人が曲を書き、76年に最初で最後のアルバム「Funky Kings」を出している。イーグルス風のバンドとして結構話題になったらしい。ジュールズは美しいバラード「So Easy To Begin」(後にアート・ガーファンクル、オリヴィア・ニュートン・ジョンらがカヴァー)他2曲を提供し高い評価を受けたが、バンド自体は大きな成功を収められず、アルバム1枚を残して解散してしまう。

「ファンキー・キングス解散のあと、僕は狂ったように曲を書いていた。それでこの曲を演奏するグループが必要だって気づいたんだ。」(「Unplug This」解説)

●そんなわけで、ジュールズは、初めて自分の名前を冠したグループを結成した。それが「ジュールズ&ポーラー・ベアーズ」である。メンバーはジュールズの他、スティーヴン・ヘイグ(Key)、リチャード・ブレディス(G)、デヴィッド・ビービ(Dr)の3人。コロンビアから1st「Got No Breeding」(78年)、2nd「fenetiks」(79年)と2枚のアルバム、1枚のミニ・アルバムを発表。78年と言えばバンク/ニューウェイヴの勃興期であり、ここでのジュールズはその影響からか、タイトでスピード感あふれる演奏を聞かせてくれた。しかし、3枚目のアルバム「Bad For Business」がお蔵人りし、結局レーベル側の理解が得られずに解散することになる。

●その後はパル・シェイザーの在籍していたニュー・ウェイヴ・バンド「スロー・チルドレン」にギタリストとして参加。メンバーはパル、ジュールズの他、アンドリュー・チニチ(Vo/G)、スティーヴン・ヘイグ(B/Key)、デヴィッド・ビービ(Dr)と5人中3人までがポーラー・ペアーズと重なっていた。アルバム2枚(82年の「Slow Children」と「Mad About Town」)をエンサインから発表。スティーヴンと共にプロデュースも担当するが、曲は全てバルともう一人の中心人物アンドリュー・チニチの共作で、ジュールズはサポートに徹していたようだ。

●このように才能の割には不遇だったLA時代に別れを告げ、ジュールズはボストンへと向かう。初のソロ・アルバムを製作するためだった。当時サイケデリック・ファーズやチープ・トリックなどを手掛け、乗りに乗っていたトッド・ラングレンのプロデュースにより83年にEMIから充表された「Watch Dog」は(例のごとく)商業的な成功は収められなかったものの、それまで培ってきたウェストコースト風の甘いメロディと東海岸の乾いたギター・サウンドが結合した見事な傑作として、世に出ることとなった。ただし、ジュールズ本人はレコーディングに不満があったようで、後にこんな風に語っている。

「トッドは好きだけどこのレコードには十分な時間をかけなかったと思う。ミキシングも入れてレコーディングすべてに2週間半、あまりにも速すぎた。」(サウンド&レコーディング・マガジン89年6月号)

●参加メンバーはリック・マロッタ、トニー・レヴィンら東港岸の一流セッション・マンに加えて、スティーヴン・ヘイグ、エリオット・イーストンなど。彼にとって幸運でもあり不幸でもあったのは、このアルバムの中から、シンディ・ローバーが「All Through The Night」をカヴァーし、翌84年にヒットさせてしまったことだろう。有名になったのはよかったのだが、これ以降彼の紹介文には決まって「シンディ・ローバーの…」という但し書きがついてまわるようになり、アーティストとしてよりもソングライター的なイメージが強くなってしまったからである。

●「Watch Dog」完成後、ジュールズはボストンからウッドストックに移住。ミニ・アルバム「Jules」(84年)に続いて、ビル・ドレッシャーのプロデュースにより2ndソロ「The Eternal Return」(85年)を製作。前回の教訓を生かし、今度はレコーディングには時間をかけたと語る。

「とにかくいいサウンドで、自分が納得のいくレコードを作りたかった。だから優秀なエンジニア、ピル・ドレッシャーを見つけ、一緒にレコードを作ったというわけ。‥‥サウンドは正に僕の望んだ通りで、あらゆる今風のソニック・エレメントを使って、よりモダンな仕上がりになったよ。」(同)

旧友リチャ−ド・ステコール(ファンキーキングス)、リチャード・ブレディス(ボーラー・ペアーズ)、パル(スロー・チルドレン)の他、トニー・レヴィン、ジェフ・シルヴァーマン、ロブ・フィッシャーらが参加したこのアルバムは、1st以上の完成度を示したが、シングル「Steady」は不発。かわりに、ここからバングルズがカヴァーした「If She What She Wants」が86年にヒットし、ソングライターとしての知名度はますます上がる一方、アルバムの存在は忘れられていった。つくづく、ついていない人である。

●さて80年代前半はこのように充実した活動を展開したジュールズだったが、その後はどうもぱっとしないリリースが続く。86年にはマネージャーの提案によりデモ・テイクを集めた「Demo-Itis」、88年にはこューヨークヘ移って組んだバンド「レックレス・スリーバーズ」−−メンバーはスティーヴ・ホリー(Dr)、ブライアン・スタンレー(B)、ジミー・ヴィヴィノ(G/Key)−−で「Big Boss Sound」、89年にはチャーチのギタリスト、マーティ・ウイルソン・パイパーと組んでアコースティック・アルバム「The Third Party」をそれぞれ発表するが、いずれも1st、2ndと比べるともう一つの出来で、はがゆい思いをしていたファンも多かったという。

●しかし、92年にポリドールから発売されたソロ・アルバム「The Great Puzzle」は、そんなもやもやを一気に吹き飛ばす痛快の1枚だった。参加メンバーもデヴィッド・ビービ(Dr)、トニー・レヴィン(B)、リチャード・ステコール(G)と過去の交友を集約したようなメンバーで、ひさぴさにジュールズらしさを堪能できる快作である。

●ニューヨークとウッドストックを往復しながら、現在も曲を書き続けているというジュールズ。93年に入ってからも、カナダのパースートゥ・オブ・ハピネスやニュー・ヨークに渡って久々にロックに戻ったウォーターボーイズの新作などに参加した他、ヴィクトリア・ウィリアムズの支援コンサートにマーシャル・クレンショウ、パル・シェイザーらと出演する(ただしアルバムには不参加。ビデオ発売は現在検討中とのこと。是非出してほしい!)など、相変わらずの活躍だが、人のアルバムに参加ばかりしてしていないで、また「Watch Dog」並のソロを出してはしいというのがファンの偽らざる気持ちだろう。今年はベスト盤も出たことだし、一区切りつけたところで、来年当たりは新作を期待したいものだ。(渡辺)

参考資料

「サウンド&レコーディング・マガジン」89年6月号

「ポップ・インズ」Vol.6 No.5(91年)

「Unplug This」解説

(注) 本文は93年に書かれたものであり、いささかデータが古いことをお断りしておく。付け足しておくと、翌年待望の新作「Healing Bones」が発表され好評を博し、国内盤も発売された。その後何故か日本では急激に彼の人気が高まり、「Watch Dog」「The Eternal Return」「Funky Kings」 などの旧作が続々とCD化されている。おまけに95年には来日までしてしまい、心温まるステージを披露してくれた。ライブについての詳細は5号のレポートを参照のこと。

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