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A Note on Sir Edward Burne-Jones's Norse Gods(19th/March/2003, revised 14/April/2003)

 

サー・エドワード・バーン=ジョーンズは、1883年に北欧神話の神々三人を描いた素描を残している。この素描は、ステンドグラスの為のデザインで、オージン、フレイル、ソールを描いている。現在、バーミンガムの美術館に収められているその三つの素描が描かれるに至った経緯についての覚え書きを記します。

この覚え書きは「オーディンの森」を主催のeika-kさんの励ましと御協力によって書かれました。厚く御礼申し上げます。

1895年、ウィリアム・モリスがケルムスコット・プレスのために『ヴォルスング族のシルグド』のフォリオ版を新しく計画していた時、バーン=ジョーンズは30枚もの挿絵を描く頼りにされていたのだが、バーン=ジョーンズ自身はもはや「生魚と氷」の世界への興味を失っていたのであった。バーン=ジョーンズにとって、北欧の神話や伝説は好みの主題ではなくなっていたのである。

バーン=ジョーンズとウィリアム・モリスとの友情は、常に変わらず、というものではなかったようである。いや、バーン=ジョーンズ自身はモリスのことを敬愛し続けていたはずだが、モリスの信条とか考え方については、少なからぬ反発を抱いていたのである。モリスの社会主義への傾倒は、バーン=ジョーンズにとって必ずしも好ましいものではなかったのである。一方、モリスはバーン=ジョーンズの芸術を広めるために様々な努力を行っていたとも思われる。モリス商会は、米国にも顧客を抱え、バーン=ジョーンズのデザインになるステンドグラスなどを売り込んでいた。1883年には、ボストンでモリスとバーン=ジョーンズの作ったステンドグラスの展示までなされた。そのような中に、北欧神話イラストレーションの中でも類いなき美しさとイメージを持ったものが作られた。それがバーン=ジョーンズのオージン、フレイル、ソールであって、中でもオージンの絵は傑作中の傑作と言えよう。

1883年、ロセッティの死という大きな事件の翌年の一月、モリスはバーン=ジョーンズを連れてオクスフォードに行った。それはしばらく続いた二人の友情の危機的状況を打開するためであったかもしれない。エクセター大学での二人への学位授与、ラスキン教授との交流などが続き、モリスとバーン=ジョーンズの友情にとって「素晴らしき日々」であった。

この深い親交の時期(1883年)に、モリスはキャサリン・ロリラード・ウルフ(Catarine Lorillard Wolfe: 1828-1887;後にメトロポリタン美術館の寄贈者ともなっている)の注文を受けたのである。この女性の夏の避暑のための別邸を設計したのはロバート・S・ピーボディであったが、その別邸の名前は「ヴィンランド」といった。ヴィンランドといえば、もちろん、アイスランド人でグリーンランドに移住した赤毛のエーリクルの息子であるレイヴルがたどり着いた土地の名前である。現在北米大陸の一部とされ(厳密には島だったかも知れないが)、アメリカ大陸の発見者と言われるコロンブスよりも500年も早くに、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に渡っていたとされるのである(詳しくは「グリーンランド人のサガ」や「赤毛のエーリクルのサガ」を参照)。

ヴィンランドという別邸(ロード・アイランド州、ニューポート)のためにステンドグラスを作って欲しいと頼まれたモリスは、デザインを担当するバーン=ジョーンズとの打ち合わせの中で、「古北欧人のアメリカ(すなわち当時の人々がヴィンランドと呼んだ地)へ航海した人々を主題にしてはどうか、さらに、ヴィンランドへの冒険者たちの上に、オーディン、ソール、フレイの三主神を描いてはどうか」と提案した。モリスは北欧サガに関する広範な知識からソルフィンヌル・カールスエフニ、その妻グズリーズル、そして、赤毛のエーリクルの息子「幸運な」レイヴルをテーマにするように勧めた。これら六つのポートレイトは、階段に二つの層をなして並べられることになった。さらにその上に三つの小さなパネルがあり、ヴァイキング船が真ん中で、左右に巻物に書かれた文字が置かれるようになった。モリスの北欧神話への興味は非常に強いもので、彼自身、アイスランド人エイリークル・マグヌスソンの手ほどきでアイスランド・サガを英訳しているほどである。そのモリスの影響から、バーン=ジョーンズも北欧神話の物語と図像学に興味を持ち始めたわけである。バーン=ジョーンズの常として、詳細まで正しいように或る程度自分の知識を深めるのであったが、ここでも適切な雰囲気と関連性を、自分の素晴らしい素描に活かしている。オーディンは、「全ての父、ワーグナーのニーベルンゲン[ママ]伝説体系に現れる放浪者、ゲリとフレキの二頭の狼を足下に従え、フギンとムニンの二羽の鴉を肩に乗せ、黒い帽子を目深にかぶって、片方のない方の目を隠し、手には、ジークフリートが粉々にする魔法の槍を持っている」姿として描かれている。これは窓の真ん中に据えられるパネルで、槌と雷を従えたソールがその左、豊饒の神フレイが右に来る。三人の後ろにそびえるアースガルズルは、むしろキャメロットのように見える。

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この素晴らしい仕事への評価は、もちろん大喝采・・・というわけにはいかなかったようで(涙)。というのも、この仕事の出来映えについて、バーン=ジョーンズ自身による辛口のコメントが、モリス商会の会計簿に残されているからです。それを引用してみましょう:

「1884年、1月「六人の北欧人、すなわち神々と英雄たち、は、いくらになるかは当初は定めなかったのだが、名誉という不安定な原理に乗っ取って決められることとなった。すなわち突然、所有財産という社会的な見地と結び合わされ、この契約は、私が現在好ましく思えぬものとなってしまった。私にとって苦痛に思える状況を経て、それぞれ25ポンド、合計150ポンドと値段が決められた。同じ契約によって小さなデザインのヴァイキング船の値段も決められ[三つのパネルで30ポンド]、海を渡る北欧の英雄も、他人の所有権に寄与することになった(15ポンド)。」(Wildman 288-89)

解説者に依れば、この覚え書きはモリスが社会主義に傾倒していた時期に書かれていて、その鷹揚さ故に、バーン=ジョーンズの意図に反した値段の付け方がされたことがわかります。恐らく所有権をめぐって、モリスとバーン=ジョーンズとの間に合意が見られなかったのかもしれません。この取り決めによって、ステンドグラスのセットは、バラバラにして売却することが可能にされてしまったのです。今となっては、その値段も、あってなきがごとし、という程のものにしかすぎません。残念なことですが、同じような処理の仕方を、これ以前の作品にもしていたこともあって、格別粗雑な扱いをしたとは、モリスは思わなかったのかも知れません。

いずれにしても、現在、このオージンたち三神のステンドグラスは行方知れずとなってしまったのです。いつの日か、また世の人の目に触れることもあって欲しいと願わずにはいられません。

素描は、上にも書いたように、現在バーミンガム美術館にあって、常設展示ではないため、閲覧には予約申し込みが必要です。

ヴァイキング船の素描は、カーライル美術館の所蔵。ヴァイキング船のステンドグラスは、ヴィンランド屋敷より1934年に取り外され、現在はデラウェア州の都市ウィルミントンにあるデラウェア美術館の所蔵になっています。

レイヴル・エーリクスソンのステンドグラスは、1975年にはアメリカの個人蔵になっていることが確認されています。

残る5枚のステンドグラスがどこにあるか、今のところわからないのが実情です。

 

参考文献:

Burne-Jones: The Paintings, Graphic and Decorative Work of Sir Edward Burne-Jones 1933-98. Hayward Gallery, London 5 November 1975-4 January 1976, Southampton Art Gallery 24 January-22 February 1976, City Museum and Art Gallery, Birmingham 10 March-11 April 1976. N.p.: The Arts Council of Great Britain, 1975.

・Fitzgerald, Penelope. Edward Burne-Jones: A Biography. London: Michael Joseph, 1975.

・Wildman, Stephen and John Christina. With essays by Alan Crawford and Laurence des Cars. Edward Burne-Jones, Victorian Artist-dreamer. New York: The Metropolitan Musuem of Art, 1998.

 

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