ヴェストマンランヅ、ヴェステロースの東にある「アーヌンドの墳墓」| To English Page!

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anundshog左は、アーヌンドの墳墓より眺めた風景です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

anundshog2アーヌンドとは、スウェーデンの伝説の王のことです。


ヴェステロースの東には墳墓群があり、ここには様々な中世初期の
遺物が残されています。「アーヌンドの墳墓」もその一つで、
最も規模の大きなものの一つです。
古墳の側には、巨石(二メートル級のもの)が、船の形に並べられたものが
二つも存在し、その側には巨大な墳墓が二つもあるのです。

アーヌンドは、古北欧語的にするならば、オーヌンドルとなるはずです。彼はユングヴァル王の息子でした。ユングヴァルが西暦600年頃死ぬと、オーヌンドルが王位を継ぎました。ユングヴァルが死んだとき、オーヌンドルはまだ若かったと思われます。 オーヌンドル(アーヌンド)王は、640年頃に死んだと推定されます。

彼は、ユングリング朝の最も重要な王であるアジル(アディル)王と同じくらい、権勢の強かった王とみなされていますが、彼のことはアイスランドの文献『ユングリンガ・サガ』と『ユングリンガ・タル』、またノルウェーの『ノルウェー史』のみに、名前が記されているだけなのです。

 

資料の中で最も古いのが『イングリンガ・タル(ユングリング王家の系譜)』ですが、解釈が最も難しいことでも知られています。確かなことは、アーヌンド王は「エストニア人の敵」と呼ばれていたことです。また、この資料の記述からすると、その死はどうやら石によってもたらされたと思われます。彼の義兄弟か、あるいは父の庶子にあたる男が、石でアーヌンド王を殺したということが記されています。また殺した場所はヒメンフョッル(ヒメンの山)と呼ばれる場所だということです。

一方、『ノルウェー史』が語るのはアーヌンド王が自分の兄弟であるシグヴァルドをヒメンヘド(ヒメンの荒野(あらの))という場所で殺した、ということです。シグヴァルドという名前は、母音で始まっておらず、ユングリング王家の名前とは思えません。北欧の王家は名前を頭韻を踏ませるようにするのが通例ですから、アーヌンドの実の兄弟とは思えません。きっと庶子か何かだったのでしょう。

スノッリの『イングリンガ・サガ』は、もっと多くのことを伝えてくれます。はじめに、アーヌンド王の時代はスウェーデンには平和の時代があって、土地も増え、豊かになったと語られます。スノッリが語る唯一の武勲は、アーヌンド王が自分の父の復讐をするためエストニアに行き、多くの財宝を持ち帰ったというものです。また彼の治世にはスウェーデンでは作物も多く採れたといいます。また彼は人々の間で最も評判も良く、彼の平和的な功績をスノッリは大いに称揚しています。多くの争いを鎮め、村を開拓し、スウェーデン中に道を築いたとされます。もちろん、歴史学者は、これはスノッリの誇張にすぎず、アーヌンド一代でそのような事業が行われたと信じてはおりません。が、スノッリによれば、それまで大きな森の土地であったスウェーデンに道を造ったことで、アーヌンドは「ブロート・アーヌンドル」すなわち「道造りのアーヌンド王」と渾名された、と言われております。

また、アーヌンド王は、各地方に小王を置いたと言われています。彼自身は、ウプサラを含む地方を治め、そこでスヴェーア人の集会を主催し、冬至の祭りには生け贄を捧げるお祭りをし、多くの人々がその祭りに集まったと言われています。

この墳墓の近くにはルーン石碑も立っていたりします。

このルーン碑文とアーヌンド王とは関係はないようです。

また、この墳墓が本当にアーヌンド王の墳墓であるということはなく、あくまでも、伝説の王と、この大規模な墳墓とが、伝承の中で一つになった、と考えるのがよいでしょう。

そういう学説は確かにありますが、人々は、この大きな墳墓を見ながら、伝説の王の力の大きさに想いを馳せ、だからこそ、今もその名で呼んでいるのかもしれませんね。誰が、ここをアーヌンド王の墳墓だと最初に呼んだかはわかりませんが、伝説をよく知っていて、自分に身近なものと感じていた人であったに違いありません。

研究者は、それに対して、夢を壊すのではなく、真実を見つけたいと願うのでしょう。伝説とは違う事実を発見したとしても、そこからさらに過去の世界に想いを馳せるのだと思います。そこにもきっと研究者ならではの浪漫があるのですね。

また、上に挙げた資料のうち、スノッリの『イングリンガ・サガ』は、歴史学者の間では、歴史的実証性が認められておりません。ただし、ノルウェーの歴史学者は、スノッリの記述を字義通りに歴史だと解釈しようとする方が多いのは事実です。

スノッリによるとアーヌンド王の最後は次のようだったと語られています。スノッリのヘイムスクリングラから引用しましょう「アーヌンド王は、自分の領地を回っていたとき、ヒミンヘイズル(ヒミンの荒野(あらの))と呼ばれるところへ来たが、そこは二つの山地にはさまれた狭い谷だった。山には雪が積もっていたが、そこに大雨が降ったという。そして、岩や石とともに雪崩が起こり、アーヌンド王とその従者たちを埋めてしまった。王も大勢の家臣たちはみなそこで死んだ。

ショーゾールヴル・ウール・フヴィーニは次のような詩を詠んだ:「ヨーナクル王の息子たちの災いによって アーヌンド王は殺され 広い空の下に倒れた--卑しい妾の子によって エストニア人の敵は 殺された--ホグニの血を流した者が 大地の骨によって 押しつぶされた」(『ヘイムスクリングラ』35章)

 

なお、このルーン碑文については、「Runes & Vikings」主催のWarhornさんのルーン碑文サイトに詳しい解説があります。どうぞご覧下さい。なお、このページを書くに際してWarhornさんには助けて戴いたところがあります。どうもありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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