ノルマン征服と英語の後退

理解のための用語について

エセルレッド(無策王)

エドワード証聖王

ゴドウィン

二人のハロルド

ウィリアム征服王、ノルマンディー公 (Guillaumeギョーム)(1027-87)

ヘンリー一世(1068-1135;在1100-35) ウィリアム征服王の三男。

ヘンリー二世

1:ノルマン征服がなかったとしたら、英語は現在ある形とどのように異なったものとなったであろうか。

2:ノルマンディーという土地名は何に由来するのであろうか。またその住民は いつからフランスに住むようになったのであろうか。

3:ウィリアムはなぜイングランド王の資格があると考えたのであろうか。

4:ノルマン人とイングランド人との間の決定的な戦いをなんと呼ぶか。またど のようにしてノルマン人は勝利を得たのであろうか。

5:ウィリアムがイングランド王として戴冠したのはいつか。イングランド征服 を完了するまでどのくらいの期間を費やしたのか。またイングランド王として認めら れるまでどのくらいの期間を要したのか。イングランドのどの地方で抵抗にあったの か。

6:ウィリアムの治世下にあってイングランド人の教会に於ける地位、また世俗 的地位はどのようになったであろうか。

7:ノルマン征服の後、どのくらいの期間、イングランドの上流階級でフランス 語は主要な言語としてとどまったのか。

8:ウィリアムは自分の死に際して、領地をどのように分けたのか。またヘンリ ー二世とエレアノール・ダキテーヌが支配した地域はどれほどの広がりを見せたの か。

9:フランス系の王や上流階級の人々は英語に対して一般的にどのような態度を 示したのであろうか。

10:イングランド宮廷をパトロンとして書かれた文学は、この時代のイングラン ドに於けるフランス語およびフランス文学の影響をどのように示したのであろうか。

11:イングランドにおいてはフランス人とイングランド人はどの程度の融合を見 せたのであろうか。>Points to learn

12:一般的に、国民の中で英語を話したのはどのような人々か。またフランス語 を話したのはどのような人々か。

13:上流階級の人々はどの程度英語を学んだのか。ヘンリー二世の英語能力から なにが推測することができるのであろうか。

14:フランス語についての知識は、社会の中でどれほどの一般的に浸透したので あろうか。

1. 以下はすべて仮定の話ですが、恐らくは、もっとゲルマン語としての要素や特徴を備えていたのではないでしょうか。恐らく、他のゲルマン系の言語のように、屈折形を多く残し、ゲルマン系の語彙が主要な部分をなし、ゲルマン語本来が持つ語形成を保ち続けたことでしょう。

2:ノルマン Nord-mannから。すなわち「北(欧)の人々」である、バイキングたちのこと。912年に、当時、ブリタニー、トゥーレーヌ、オーヴェルジュ、ブルゴーニュを荒らし回っていたヴァイキングたちの首領ロロ(Rollo: ?-931)が、フランス国王シャルル3世(単純王)(879-929;在893-923)から、エプト(Epte)川以西での公爵領を認められるかわりに封臣としての誓いを立てさせられた。以後、ロロの子孫がノルマンディー公爵となる。その後、ノルマン人はキリスト教化し、自分たちの母語である北欧語を捨て、フランス語話者となる。彼らの話すフランス語はパリを中心(イル・ド・フランス)に使われる方言に対し、ノルマン・フレンチと呼ばれる地方方言としての地位を持つ。彼らの元々の言語である北欧語に基づく単語などもあった。

3:ここで、系図を出してみよう。

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エセルレッド無策王 = エマ = カヌート(クヌート)大王       ノルマンディー公リシャール二世(1026没)

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         |   ハルザクヌート(1018-42)                   |

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  エドワード証聖王=イーディス  |                 ノルマンディー公ロベール一世(1014-35)

             イーディスの弟ハロルド一世                  |

                                    ノルマンディー公ギョーム(ウィリアム征服王)

 このように、世継ぎなく没したエドワード証聖王の母の兄の孫がウィリアム征服王である。う〜む。これで王位継承権があると言えるのかは、はなはだ疑問ではあるが、どうやら、エドワード証聖王の治世に、ギョームはイングランドを訪れ、「次はお前だ」というようなことをほのめかされたらしい。しかも、ハロルド一世(?1022-66;在1066)がまだ王位につく前、ある時難破をして、ノルマンディーに身を拘束されたことがあるらしいのだ。自由にしてほしくば、次の王位を俺によこせ、とばかりに、ハロルドに王位を諦める誓いをさせたらしい。その時は命が惜しくてハロルドはしぶしぶ誓ったらしいが、イングランドの貴族たちに推され、王位に着く時には、ついたもん勝ち、とばかりにそんな誓いなど反古にしてしまったようだ。まあ、当然と言えば当然である。なにせ、王位継承の順位から言えば、ノルマンディー公ギョームなどよりずっと近いし、イングランド国内にいれば、ノルマンディー公恐るるに足らず、といったところか。もちろん、誓いを反古にした以上、ギョームからの攻撃があるやもしれぬ、ということは、はっきりハロルドは意識していたようだ。彼はすぐに、対ノルマン人の戦いの準備に着手する。もし、相手がギョーム一人だったら、もしかしたら彼は自分の王位を守り切れたかも知れない。しかし、ここで、思わぬ(?)第三の王位を主張する者が現れる。この人物のおかげで、英語の歴史は大きな転換を迎えてしまうのである。

彼の名はHaraldrハラルドル。ノルウェー王である。より正しくはHaraldr 'Harðráði' Sigurðarson (10015-1066;ノルウェー王、在ハラルドル三世1046-66)というわけで、「厳しい統治者」の異名がある。シグルズルの息子というのも、北欧伝説の英雄「竜殺しのシグルズル」を連想させて面白い。この男が、どうしてイングランド王になる資格があるのか、ということになると、当時の北欧社会の説明からしなくてはならない。クヌート(?994-1035)すなわちデンマーク=イングランド帝国を支配した王(在1028-35)には、エマとの間にハルザクヌートという息子(1018-42)がいた。デンマークに長く留まっていたが、彼には義兄弟の誓いを交わしたノルウェー王マグヌス(善王とあだ名される)がいた。マグヌスとは、どちらかが先に死んだ場合、残った方がノルウェーとデンマークの両方の王権を受け継ぐという誓いを交わしていたのである。ハルザクヌートは、1042年に急逝する。マグヌス・ノルウェー王は、今やデンマークをも治める国王である。しかし、ここでハラルドルという男が登場する。彼はノルウェーを最初に統一しようとしたハラルドル美髪王(858-934)のひ孫にあたるという噂がある。ハラルドルはノルウェー王の座をめぐってマグヌス(善王)と覇権を争うが、1046年に共同統治という形をとるのである。つまり、ハルザクヌートの義兄弟と共同統治をしたわけだ。北イングランドからハロルドの弟であるトスティー(Tostig)とともに、イングランドに攻め込むのである。ハロルドは当然、迎え撃たなければならない。せっかくギョームへの防御として集めていた兵を、別の敵に回さねばならなくなってしまったのだ。確かにノルウェーの軍は倒すことができた。しかし、兵は疲弊し、かつまた、ギョームがいる南からはだいぶ離れてしまっている。勝利の美酒に酔おうとしていたハロルドに、南からギョームが侵略してきたという知らせが入る。ハロルドに勝機はあるのだろうか????

8:長男Robert(ロベール)には、ノルマンディーを受け継がせ、イングランドは次男William(1056-1100;在William II 1187-1100)に譲る。このことから、やはりウィリアム征服王の関心は、ノルマンディーが一番で、イングランドは副次的な位置に留まっていたことがわかる。

9:フランスから渡ってきた人々がフランス語を好んで用いた理由を、英語に対 する軽蔑の念から発したものだと考えるのは理不尽でしょう。確かに英語は下層の人 々の言語というような状況にはなりました。ウルフスタンのような優れた司教でもノ ルマン人の侮辱の対象になったのも、「フランス語」という上流階級の間に通じる 「特殊な合い言葉」を知らなかったからに他ならないでしょう。しかし、両言語話者 の間に敬意や平和的な協力関係がなかったわけでもないのです。特にノルマン人とイ ングランド人との間の結婚についてはオルデリック・ヴィタリスは年代記者ですが、 彼の父親はノルマン人貴族、母親はイングランド人です。

けれども、どの程度フランスが話され、あるいは英語が話されていたか、それが問題になるでしょう

しかしこの時代、やって来たノルマン人たちが英語という言葉に敵意や憎悪を抱いていたというのはいい加減な憶測でしょう。国民全員がフランス語をしゃべれば同じ一つの言語をしゃべることになる、などとウィリアム征服王が考えていたとは思えないのです。

ウィリアム征服王は、上のオルデリクス・ヴィタリスによれば、43歳にして英語を学ぼうと努力をしたそうです。実務に追われ、必ずしもこれに成功したとは言えませんが、彼自身、イングランドの正当な王位継承者だとみなしていたし、また周りからもそう見られるように願っていたのです。事実、王の特許状にラテン語と並んで使われた言語は、彼の本来のフランス語ではなく、英語だったのです。そして、彼の息子であるヘンリー一世は、特許状に書いてあるラテン語を英語に訳した、などという伝説すらあるのです。とはいえ、その息子ヘンリー二世は英語はしゃべれなかったのは当然で、当時最も大きな領土を持つ王として、フランスに広大な土地を持っていたからなのです。一年の半分は大陸にいて、時に3、4ヶ月もイングランドには帰らないということもあったのです。しかしこのヘンリー二世についてはまた後に触れます。

10:現在と異なり、娯楽のヴァラエティーの少なかった時代に於いて、文学作品は最高の娯楽でした。いわば、現代の映画、演劇、はたまた、RPGのゲームソフトのように見なされて・・・(?)。12世紀のはじめより、イングランドではフランス語で文学作品が作られました。パトロンはイングランド人。そしてそのパトロンの嗜好に合わせて作品は書かれていました。ウィリアム征服王の娘アデラ(Adela)は、詩人たちのパトロンとして知られ、ウィリアムの次男ヘンリー一世の結婚した妻(彼は二回結婚していてもう一人の妻はMatilda)たちも、詩人たちの有名な擁護者でした。二度目の妻ルーヴァン出身のアデレード(Adelaide of Louvain)にあてて、デーヴィッド(David)という詩人が詩作をしたことが知られています。ジェフリー・ガイマー(Geoffrey Gaimar)は、自分こそずっとよい詩人だと、Davidを非難していますが・・・。ガイマー自身はクスタンス(Custance 'li Gentil')という名の貴婦人にあてて『イングランド史』をフランス語の韻文でしたためております。アデレードには、また、フィリップ・ド・タウン(Phillip de Thaun)が『動物譚』(Bestiary)を書いています。

重要なのは、ヘンリー二世の治世です。ワースの『ブリュ物語』(Roman de Brut)は后のエレノア・ダキテーヌに捧げられました。これは、イングランドの伝説的歴史物語であり、アーサー王物語やリア王の物語など、後世の文学の素材となった物語が鏤められています。ワースはまた、ノルマンディー王家の高祖であるロロの物語『ルー物語』(Roman de Rou)も著しました。この時代には多くの聖人伝、アレゴリー(寓意物語)、年代記がフランスで書かれ、その他、ホーン王、ハヴェロック、トリスタンなどを主人公にしたロマンスも残されました。

これらによって、フランス語が如何に当時の上流階級の人々にとって身近なものであったかがわかるとともに、詩人たちもパトロンの満足のゆく作品を書き上げるのに腐心したことが分かります。

11:ノルマン人とアングロ・サクソン人は1100年以前からすでに早くも融合を始めていた、ということは驚くには値しませんね。結局、二つの民族が一つの土地にいて、まったく混交がないなどということのほうが想像できないからです。ラテン語で『教会史』(Historia Ecclesiastica) を書いた Ordelicus Vitalis (1075-1143?) は、父親はノルマン人、母親はイングランド人でしたが、自分がイングランドに生まれたことを誇りにし、10歳以降はノルマンディで暮らしたにもかかわらず、自らのことをイングランド人として名乗っていたと言います。(Baugh & Cable, 、87) また、有名な『イギリス列王史』(Historia Regum Anglorum) を書いた William of Malmesbury (1190?-11431) という人物も、自分には二つの民族の血が流れている、と第三巻の序文で言っています。(厨川 101)

お互いに戦い合っていた国民同士が、その闘いを忘れ、手を取り合うというのは二十世紀に生きる我々にとっても非常に分かり易いものではないでしょうか。第二次世界大戦が終わってからまだ10年しか経たない内に、日本はアメリカと非常に密接に手を取り合うようになりましたからね。

13: 英語はイングランドに於ける大多数の人々の話す言語であったため、上流階級の多くの人々も英語への親しみが或る程度はあったことは当然と考えられます。ノルマン人の子女であるHelewisia de Morvilleも、自分の夫が危険に瀕した際、英語で叫んで警告したとWilliam of Canterburyによって記録されています(1175年頃)。夫が普段しゃべる言語が英仏どちらであったにせよ、少なくとも英語が話された時、それを理解したと言うことがそこから伺えるのです。ヘンリー二世自身、ウェールズ人から英語で話しかけられて、それがわかったと、宮廷司祭であったギラルドゥス・カンブレンシス(1146-1223)によって記されています。ウォルター・マップ(1140-1209)も、ヘンリー二世がビスケー湾からヨルダンに至る全ての言語についての知識を持っていた、と言っております。。とはいえ、王妃は英語については通訳を介さねばならなかったけれども。結論としては、12世紀の終わりには、普段フランス語をしゃべる人々も、英語についての知識は持ってたこと。また、上流階級とも下層階級とも交流をもった、下層貴族階級などは、英仏ともに話すことができた、と考える根拠もあると言えます。

ゲルマン語本来の語形成とは、接頭辞や接尾辞を加えることによって、微妙な意味の幅を持たせることのできるものです。また、合成語を作ることも含まれます。例えば、古英語で、「心」「想い」を表す単語mod(現代英語 mood)は、「精神」をも表し、「勇敢さ」すら意味することもできました。これに形容詞を作る接尾辞-igを付けることで、modigとなり、「勇敢である」というようなことを表す語となります。それにさらに名詞を作る接尾辞-nes(現代英語 -ness )を加えると、modignesとなり、「肝の太い度合い」を言い表すことができました。modigに、弱変化動詞の不定形を作る -ian という接尾辞を付けると、「尊大にふるまう」という意味の modigian という単語が作れます。一方、接頭辞として ofer- (現代語の over- )を附加すると、ofermodとなり、「尊大さ」という意味になります。