幸福論

以前『筑紫哲也のNEWS23』で、『幸福論』をテーマにしていたことがあります。私も自分の幸福論を書いて番組宛にメールで送ったりしたのですが、今読み返してみても、実に映画ファンらしい幸福論になっていると思いますので、ここにも記載しておきます。


■■幸福論■■

■幸福の分類
・意識的な幸福
 自分が幸福であることを意識できる幸福。
・無意識的な幸福
 自分が幸福であり、尚且つ自分が幸福であることを意識しない幸福。

■幸福の条件
・意識的な幸福の条件
 常に絶望を感じていること。絶望を感じているからこそ、幸福を意識することができる。また、幸福を意識している間も、絶望は心の底から離れない。幸福と相対するものとして、絶望は常に感じ続けている。
・無意識的な幸福の条件
 常に幸福で有り続けること。一旦絶望を感じたら、無意識的な幸福は終わる。何故なら、幸福を意識してしまうようになるから。尚、無意識的な幸福の状態を保ちつつ絶望を感じる場合、それは本当の絶望ではない。また、子供は本来、無意識的な幸福の条件を満たしているべきである。

■意識的な幸福の更なる分類

●「世界」についての幸福
・世界に包まれていると感じる幸福
 世界に受け入れられ、認められ、許されていると感じる幸福。世界の中で自分を肯定できる。
 この幸福に近い不幸:怠惰、無責任
・世界を包み込んでいると感じる幸福
 世界を受け入れ、認め、許すことができると感じる幸福。自分に対して世界を肯定できる。
 この幸福に近い不幸:孤立感、孤独感
・世界に満足し、世界を信頼できると感じる幸福
 何か物凄い芸術作品、偉大な人物、美しいシステム等に触れた場合に感じる幸福。世界を大切に思い、「世の中捨てたもんじゃない」と感じることができる(ごめんなさい、もっといい言葉があるはずです(^ ^))。
 この幸福に近い不幸:絶望感、諦め

●「自分」についての幸福
・自分が生きていると実感できる幸福
 何かを成し遂げた場合、または何かを成し遂げようと努力している場合に感じる幸福。達成感、充実感を得られる。また、特に「何か」という対象を設けなくても、生きていること自体に充実感を感じる場合もある。身体的感覚を伴う場合も多い。「風呂上がりの一杯のビール」も、「来し方行く末を思い万感胸に迫る」場合の幸福もこれに当たる。
 この幸福に近い不幸:挫折感、焦燥感
・自分が生きようとしていると実感できる幸福
 自分が積極的に生きようとしていると思える場合に感じる幸福。誰も知らない小さな秘密を持つ、冒険を犯す、未知のモノに挑戦する、等の場合に感じる。ワクワクできる(^ ^)。
 この幸福に近い不幸:やり過ぎ、はみ出し、生き急ぎ
・自分に満足し、自分を信頼できる幸福
 自分の規律、規範、価値観に照らし、自分自身を認められると思う場合に感じる幸福。自立感、自律感、あるいは自分が成長したという実感を得られ、自分を大切に思える。
 この幸福に近い不幸:傲慢、自惚れ

●「誰か」「何か」についての幸福
・誰か、何かを大切にする幸福
 家族、恋人、友人知人、ペット、隣人、雑誌やネットで知った人、そしてまだ見ぬ人、あるいは何かを大切に思う場合に感じる幸福。
 この幸福に近い不幸:独占欲、支配欲(ストーカーなど?)
・誰か、何かに大切にされる幸福
 自分を大切に思ってくれる人がいると思う場合に感じる幸福。連帯感、安心感が得られる。
 この幸福に近い不幸:寄り掛かり、甘え
・小さな幸福
 美しい夕焼け、小さな親切の現場、可愛い赤ちゃん、美味しい殻付きピーナツ、そんな事どもから得られる幸福。これは世界についての幸福に近い。
 この幸福に近い不幸:小さな不幸(小さな不親切の現場を見る、心無い言葉で誰かを傷つけてしまったと後で気付く、お醤油の瓶を倒す、等)

■無意識的な幸福の更なる分類
 なし。子供が「一様に」可愛いのと同様、無意識的な幸福に分類はない。
 この幸福に近い不幸:無意識的な不幸(?)

■意識的な幸福の更なる条件
・世界についての幸福を得られる条件
 常に世界を知ろうとすること。常に世界に対して意見を持ち、批判的であろうとすること。常に世界を疑おうとすること。常に世界を大切に思うための準備をしておくこと。
・自分についての幸福を得られる条件
 常に生き続けようとすること。常に自分の価値観を持とうとすること。常に自分を眺め、信じ、また疑おうとすること。
・誰か、何かについての幸福を得られる条件
 常に誰か、何かに対して関わりを持とうとすること。常に誰か、何かを認めようとすること。

■無意識的な幸福の更なる条件
 無意識的に生と死を受け入れること。


■幸福についてその他に考えねばならぬこと

●絶望の問題
キルケゴール「死に至る病」など参照。

●特殊(?)な幸福の問題
 幸福の中には、良い意味でそれぞれに適した精神、あるいは非常に純粋な精神を持っていないと本当の幸福にはなり得ないものもある。例を示す。
・欲望が満たされた場合の幸福
 金銭欲、名誉欲、食欲、等の欲望が満たされた場合の幸福。「運動靴と赤い金魚」の物欲(?)など参照(単に参考として)。この幸福について考えることは、非常に宗教的である。
 この幸福に近い不幸:貧困、嫉妬、無力感、空腹、自己嫌悪、等
・自由についての幸福
 世界、自分、誰か、何か、という対象を客観的に眺め、それらから自由であることを実感し、楽しめる幸福。これらは、幸福であると認識すること自体が重要である。何故なら、幸福だと認識できない場合、以下に示す不幸に陥ってしまうから。
 この幸福に近い不幸:透明な存在、倦怠、自分を見失う、過剰な自意識、軽蔑、優越感、等
・意図的に得られた無意識的な幸福
 絶望を知った後、意図的に無意識的な幸福を得ようと試み、成功して得られる幸福。ただし成功するのは極めて希で、大抵は失敗してイヤな大人に成り下がる(?)。
 この幸福に近い不幸:イヤな大人

●幸福の基幹の問題
 これは明かに、幸福を感じる主体、つまり私たち一人一人の心にある。それ以外のものに、私たちの幸福の基幹を求めてはならない。

●幸福の度合の問題
 一般的に幸福は、その幸福を意識する度合が強いほど、またはその背景にある絶望の度合が強いほど、強まると思われ勝ちだ。だが、それは明かに間違っている。ほとんど意識しない幸福が大きな幸福になる場合も、充分に有り得る。
 また、幸福と不幸の関係も単純ではない。1つの不幸が他の全ての幸福と相殺してしまう場合もあるし、1つの幸福が他の全ての不幸を払拭してしまう場合もある。
 要は気の持ちようだ(^ ^)。

●幸福の別の分類方法の問題
 幸福は、視点によって様々な分類の方法がある。例を示す。
・自ら欲して得る幸福/自然に得る幸福
・創り出された幸福/既にある幸福
・大人の幸福/子供の幸福
・絶望の対としての幸福/幸福それ自体の幸福

●幸福論の問題
幸福は、本来形のないものであり、論理的に割り切れるものではない。従って幸福論は、幸福を規定するものではなく、幸福を考える一助となるに過ぎない。

――以上。

如何でしょう? そこそこ面白いドキュメントになったと思うのですが……(^ ^)。

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