1916年1月4日デトロイト産まれ(1916年1月1日キューバ産まれと言う説もある)
15歳の頃、商船員だった父について、ギリシャのクレタ島に渡り、半年(または、かなりの年数)残留する。
デトロイトの家に戻ってから、ボクサー、ドライバー等の職業に就く。ミシガンのライトヘビー級チャンピオンにもなったことがあるらしい。
ドライバーの仕事は、ギャングの手先でカナダに酒を運んでいたとか...
最初におぼえた楽器は、ヴァイブラフォン。それからピアノ、ギターと移り変わっていった。
彼の音楽のキャリアは、タップダンスとギターで始まる。ギターを弾きながらタップダンスを踊っていた、らしい。
彼は音楽的な影響を受けたミュージシャンとして、ピアノのスタイルは、ファッツ・ワーラーの影響を認めている。また、30年代初期にフレッチャー・ヘンダーソン楽団にいたクラレンス・ホリデイの名前をあげている。ホリデイは、後にジャズ・ヴォーカリストとして有名になるビリー・ホリデイの父である。
1937年 ニューヨークに移る。
Major Bowes's amateur talent contests に出場。その後、彼はこのラジオ番組のレギュラーの仕事を得る。名前を変えて別人のふりをして何度も出演した。ちなみにこのコンテストで、若き日のシナトラが所属していた、ヴォーカル・カルテット「ホボーケン・フォー」が注目されたりもした。
そこで、ベーシスト、リロイ・エリオット・スチュワートと運命的な出会いをする。
最初の共演で二人は意気投合した。しかもその演奏を聴いた、ディスクジョッキーのマーティン・ブロックが、このコンビを気に入り、すぐに契約することになった。
二人は、コンビの名前を決めることにした。
スチュワートが、ベースの弓を置いたときに名前が決まった。
「スラム(Slam)」は、バタンと閉める:ばたりと置く等の意味で、スリムとスラムで語呂がいいってんで、この名前にしたというわけだ。
1937年の秋から冬にかけて、スリム&スラムは、52番街あたりではちょっとした有名人になった。
それに先立つ1937年4月15日に、スリムは初レコーディングを経験している。フランキー・ニュートンのバンドにヴォーカリストとして参加したのだ。ここでのスリムは、オーソドックスなヴォーカリストとしての役に徹している。
翌年1938年に、スリム&スラムとしてのレコーディングの機会が訪れた。彼らの代表曲「フラット・フット・フルージー」である。
当初この曲のタイトルは、Flat Fleet Floosie だった。しかし出版社が、それじゃまずいってんで、Flat Foot Floogie に変更された。ちなみに「Floosie」は、「だらしない女」と言う意味である。
最初1月にデッカレーベルに吹き込まれたが、コロンビアの傍系レーベル、ヴォキャリオンからの誘いがあって、マネージャーの判断でくら替えすることになった。結局、デッカでの録音は日の目を見ることなく、一月後に同じメンバーで、ヴォキャリオンで再録音された。
この曲が大ヒットした。ヒット・パレードで8週間1位をキープ。5月には、ベニー・グッドマンが「Big John special」のバックで、録音し、自身のラジオ番組「キャメル・キャラバン」でスリム&スラムを紹介した。その年のニューヨーク万国博覧会でタイムカプセルに納められることになった。ちなみにこのタイムカプセルが開かれるのは、西暦5000年。SPレコードを再生する装置は、まだ存在してるのだろうか?
40年、オーケー・レーベルに移る。
41年、映画「ヘルザポッピン」に出演。
スリム&スラムのコンビは1942年まで続いたが、スラムの徴兵で解散することになった。
約2年間、兵役を務め44年に除隊。カリフォルニアに移動する。
45年は、かなりの録音が残されてはいるが、カデット、フォースター、ビービーといった、マイナーレーベルが続く。かつての人気ミュージシャンも、2年のブランクはかなり大きかったようだ。
しかし、クラブなどでの活動は順調で、ハリウッド「ビリーバーグス」、ニューヨークの「バードランド」等で演奏を続けていた。
新しい相棒は、ベーシスト、バム・ブラウン。彼の参加によってスリム&スラム時代よりも、一層過激でクレージーな世界を作り出していった。ぜひ、彼らの残されたライブ録音を聴いて欲しい。会場が、爆笑に包まれて、異様な興奮状態にあるのがわかるはず。
そして、このコンビでも、「セメント・ミキサー」「ポピティー・ポップ」といったヒット曲を出している。
45年12月、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー等をフューチャーしてベルトーン・レーベルに録音を行なう。その一部が、のちにサヴォイに買い取られ、パーカー名義で発売された。
46年4月22日、ノーマン・グランツ主催のJATPコンサートに出演。このときの録音が、「オペラ・イン・ヴァウト」としてレコード化された。
1946年7月 ロサンゼルスのジェファーソン通りにレコードショップを開く。店の名前は「ヴァウトヴィル(Voutville)」
1948年は、ミュージシャン・ストライキの年で、録音は残されていない。
49年には1回きり、50年には録音の機会はなかった。
1951、52年は、ノーマン・グランツのヴァーブ・レーベルへ録音をしている。
録音の機会は減ったが、51年の「バードランド」でのライブ録音を聴くかぎり、クラブでの人気はまだそれほど衰えているようには、思えない。
しかし、52年12月の吹き込みの後、次のレコーディングの機会は6年後の1958年まで待たねばならなかった。
1958年、ドット・レーベルへの録音は、「スリム・ゲイラード・ライズ・アゲイン」と言うタイトルで、発売された。しかし、ふたたび表舞台から姿を消すことになる。
1968年6月27日の「ダウンビート」に、サンホセの小さなクラブで演奏していたスリム・ゲイラードが再発見されたという記事が掲載される。
1970年には、スラム&スチュワートと組んでモンタレージャズフェスティバルに出演。
その後、再び音楽の世界から遠ざかる。
その間に、映画やテレビの仕事をしていた。「ルーツ2」「マーカス・ウェルビー」「メディカル・センター」「ウィリー・ダイナマイト」等の作品に出演していた、らしい。
74年に、おそらくプライベートに録音されたものがあるが、83年にスリム自身の手で発売されるまで、日の目を見なかった。
80年代に入ると、ヨーロッパのコレクター・レーベルがスリムの録音をリイシューしはじめた。
1982年の夏には、クール・ジャズ・フェスティバル、ノース・シー・ジャズ・フェスティバル、ニース・ジャズ・パレード等に出演。
同年10月、正式な録音としては24年ぶりのレコーディングを行なった。彼の熱心なリイシューを行なっていた、ヘップ・レコードが、彼をイギリスに招いて、録音したのだ。
その後、彼はイギリスの住むようになる。
1985年12月録音の録音とされている、ラテン・アルバム「シボネイ」は、エルネスト・レクォーナの曲をフューチャーしたもの。
1986年には、映画「アブソルートリー・ビギナーズ」で1曲歌っている。
1987年4月、ファッションショーのゲストとして来日。ブルースハウス「次郎吉」で、ないしょのライブ決行。
1988年3月23日、再来日。芝浦インクスティックで公演を行なう。
来日時のエピソードは、吾妻光良著「ブルース飲むバカ歌うバカ」を読むべし。
1988年、アメリカのテレビ番組「ナイト・ミュージック」の出演。デビッド・サンボーン、マーカス・ミラーといった、若いミュージシャンと共演した。
1991年2月27日ロンドンで死亡
参考文献