profile

都立高校で英語を教えてほぼ30年。商業高校・農業高校・工業高校・普通科高校と、色んな学校を渡り歩いてきた。ろう学校も2校経験している。所謂有名校には行きたくもないし、声もかからない。英語のできない生徒が多い学校での教職歴から、ここに載せた「基礎英語の学習法」が生まれてきたが、このメソッドには自分なりの自負はある。現在は定時制高校に勤務。
インターネット歴は15年くらい、もっぱらロム専門で、情報をもらう一方だったが、近頃はそれにも負い目を感じてきてHPのUPに至った。
何事にも飽きっぽいのでいつまで続くかは本人にも分からないが、こういうHPがあっても害にはならないと思っている。
埼玉県越谷市在住。

email : kenji@saitama.email.ne.jp


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雑記帳(映画評論他)








                                              


   


   










スパイゾルゲ 2003.6..29
  
  監督 篠田正浩  主演 イアン・グレン/本木雅弘

  太平洋戦争末期の有名な事件を題材にした映画。中国に侵略した日本軍が南進するのか、北進するのか、ソビエトは自らの存亡に関わる政略として情報を得ようとしていた。情報を入手する目的で日本に派遣されたゾルゲは正しくその情報を伝えることができたが、その情報の入手先として朝日新聞記者、その後、近衛内閣嘱託になった尾崎秀実がいた。二人は国防保安法・軍機保護法・治安維持法違反で逮捕され、刑死した。
  ゾルゲは一人の怪傑、尾崎は優秀な知識人で、内閣という権力の中枢に入り込めた人物が関わったことで、スパイ事件としては特異なものである。木下順二が「オットーと呼ばれる日本人」で戯曲化したのもこの事件であり、密告者が誰であったか、尾崎が何を目指していたのか、当時の厳しい治安維持法下でゾルゲはなぜ成功しえたのか、またゾルゲとはいったいどういう人間であったのか・・・
  篠田監督もこの事件には前々から深い関心を持っていたそうで、篠田氏が関心を寄せる理由は無論僕らにも分かる。僕らも、文献は渉猟していないにせよ、この事件の背景には多大の関心があるから。
 という訳でこの映画を見に行ったのだが、正直、「皮相的」という印象を受けた。「題材負けした」という言い方でも構わないだろうが、映画で描かれた部分よりもっともっと深いものがあるという感じを観客に与えて終わる映画で、この映画を見て「新しい何か」は余り得られない。そう言う意味で、細部の情報に拘って全般的な情報を漏らさないようにしようとすればするほど、映像は平板化し、インパクトは薄れていくという感じで、事件の背景は逐一、或る程度描かれるが、「描いた」以上のものになりえていない。東郷を演じた竹中直人も、スターリンや天皇を演じた役者も外見は似ているがそれ以上のものはないし、尾崎秀実を演じた本木の表情を含め、登場する日本の役者の表情に切迫感が感じ取れないのが致命的だ。日本の役者は今、こういう題材を演じるメンタリティに欠けてきているのでは、と思わせるほどで、こういう題材は、もし史実に忠実に描こうとするなら前後編に分けてとるくらいの構えがないと難しいだろうと僕に思う。恐らく篠田氏には若い観客にこういう事件を知ってもらいたいという意図があったのだと思うが、この映画についてはそういう老婆心が仇になっていると僕は思う。

戦場のピアニスト   2003.3.3

  監督はロマン・ポランスキー  主演 エイドリアン・ブロディ 
 2002年カンヌ国際映画祭最優秀賞受賞

  場所はワルシャワ。時は1939年。ナチスドイツがポーランドに侵略、ユダヤ人への迫害を始めた時期、著名なピアニストであったウィジスラフ・スピルマンが、周囲の理解者・音楽愛好家の助けを得て、辛うじて難を逃れたり、匿ってもらったりする間の苦難と窮乏と出会いを描いたもの。ロルフ・シューベル監督の「暗い日曜日」も、描かれている年代は少し早いかも知れないが、ほぼ似た状況を描いていたように思う。トレブリンカへ出発する「貨物列車」の場面もあり、「ダビデの星」の腕章の強制、ゲットーへの隔離など、歴史的によく知られている迫害ぶりを縦糸にし、ユダヤ人にしろポーランド人にしろ、それに流されていったり、反攻を企てたり、迎合したりという様を横糸にして、一ピアニストの生の流転という編み棒でその模様を編んでいったものと言えばいいだろうか。ナチスの狂ったような、それでいて日常化したユダヤ人への迫害ぶりは多く語られており、新しく学ぶようなことは少ないが、ユダヤ人の抵抗運動やポーランド人の援助と蜂起を描いているのは、母国ポーランドに対する監督の思い表現であろう。
  この映画を観ていて思うのは、西洋における「音楽」の位置である。厳しい迫害の中で自らが「著名で才能あるピアニスト」であるという、ただそのことだけでこの映画の主人公は周囲の人たちに助けられ、苦しみながらも何とか難を逃れ得た。ラスト近く、主人公が飢えに苦しみながら、身を隠していた時に、彼を見逃し、食料を与えて命を救ったのはドイツ将校だが、その理由は彼のピアノ演奏に「才能」を見たからだ。この将校は「血なまぐさく」は描かれておらず、彼がピアニストでなかったにしろ、見逃して立ち去るのを許しただろうと思われるが、彼が屋根裏に身を潜めるのも黙認したばかりでなく、食料まで与えた近親感は「音楽」を通してのものだった。主人公が家族とともにトレブリンカ送りになる間際に彼を、彼だけを救ったのも彼の知人だし、そのことは無論、彼が有能なピアニストであることに関わっている。主人公は二度、廃墟の中に立ちつくす。一度は、家族を含めてみんながトレブリンカ送りになった後、荒らされ放題のゲットーに立ち戻ったとき、もう一度は、ポーランド人が蜂起し、ドイツ軍が報復攻撃した後のワルシャワの廃墟に立ちすくんだ時、である。この映画は実話を基にして作られており、主人公が生命を落とさずにすんだことはめでたいが、映画を観ている僕には、貨物列車で運ばれていった家族や、抵抗運動で死んでいった仲間のことが念頭を去らない。彼も武器を調達したりの手伝いをしているが、彼が「助かった」理由は正に彼が「有能なピアニスト」であったことにつきるので、ピアノが上手であることが人の生命を左右するほどのものであったことが僕には今一受け入れづらい。芸術家はエゴイストだ、というのは定説だが、この映画は主人公をエゴイストとして描いている訳ではなく、「苦難を逃れ得た」奇跡的な一人として描いているので、その奇跡に彼のピアニストとしての才能が大いに関わっていたという訳である。
  描写は丁寧だし、映画としても悪くはないが、上記の点が僕には拘りとして残る映画であった。
  エンディングではピアノを演奏する手の動きを背景にしてクレジットが流れていくが、その指の動きの早くて見事なこと、この手と指の動きには僕も驚嘆するしかなかった。主人公が救われたことにはそれだけの理由があったんだ、と僕に思わせた瞬間であった。

夜を賭ける      2003.1

   監督 金守珍   出演  山本太郎・風吹ジュン
 
 この原作は昨年の十二月の読書会で取り上げた。一面では痛快な活劇、一面では在日朝鮮人問題、一面ではラブストーリーという多様な面を持った作品で、この映画は原作の前半部分をうまくまとめたものだ。時代は50年代末、所は大阪、工兵廠跡の廃材(金属類)を掘り出して金に換える朝鮮人部落の人たちの生態を生き生きと荒々しく描き出している。廃材と言っても所有権は国にあるので「それを有効利用」したとしてもそれは犯罪で取り締まりの対象になる。そこで大阪府警が絡んできて、その絡みの中に「朝鮮人に対する差別」が現前化される。「日本にも祖国にも見放されたおれらに未来はあるか」「ある」という台詞がチラシにも使われており、この映画作品の主要テーマだと考えて良いが、未来は「反権力(警察)」という形と「祖国(北朝鮮)へ」という希望と愛情関係という三つの形を取っている。実際には、反権力は逮捕で終わる(これが原作の前半のラスト部分)が、映画ではその手前の所、警察に対抗するような窃盗団の動きが胎動する所をラストシーンにしている。これ以上描くと長くなるのでこれは映画としては賢明な判断だと僕は思う。「祖国への帰還」はそのほとんどが惨めな結末に終わったことが原作では触れられているが、映画の中では希望としてのみ提出されていて、その後の顛末は省かれている。映画としては「希望」で終わる方がかっこいい訳で、その点でも首尾一貫していると言っても良い。下層の民衆の荒々しい生き様とその中に蠢く人の欲望と愛と切なさ、これは格好の映画の題材であって、それをこの映画はうまく活写している。酒を飲んで乱闘するシーン・警察で拷問を受けるシーン(原作ではここまでは書かれていない)など、近頃の人では考えられない荒々しさをそのままに描き出そうとしており、活劇としても十分成功していると思う。内容は考え出すときりがないくらい重いものを持っているが、その重さにとらわれずに青春のエネルギーの発露を中心に描いているので、観客もその若さのエネルギーを感じ取りながら見ることが出来る。韓国での撮影、多くの朝鮮人スタッフという点でも通常の映画以上の意気込みが感じられ、また伝わってくる映画であった。「GO」も在日の映画であったが、これはその原点のような話で、「在日であること」が娯楽性も兼ねた良い物語になりうる時代になってきたと言うことだろうと思う。


たそがれ清兵衛 2002.11.24
  
     監督 山田洋次     出演 真田広之・宮沢りえ・田中泯

    期待して見に行き、期待以上(失礼かな?)のものを見せてくれた凄い映画であった。この「凄さ」は内容であるより、映画を作るという姿勢の凄さで、二時間余、観客の目と意識をスクリーンに釘付けにできる力量はやはり並の監督の作品ではない。サラリーマン(官吏)としての下級武士の生活がリアルに描かれるが、下級であっても武士は武士で、命があれば己の命をかけて人を斬りに行かねばならない。時は幕末、京都では得体の知れない侍が暗躍していることも報じられるが、庄内海坂藩御蔵役井口清兵衛の日常はそれとは無縁で、妻を亡くしたり、借金返済のための内職にいそしんだりという個人的な生業に明け暮れている。出世欲などなく、貧苦の中での子育てを唯一の楽しみにしている清兵衛、家族や人(友人・恋人)を思う心の深い清兵衛、自ら表に出すことはないが実はかなりの剣の使い手である清兵衛、そういう清兵衛の生活の中に外から事件や波乱が押し寄せてくる。そういう情景を美しい山形の自然を背景に丁寧に描いた作品で、主役・脇役ともに役者の力を存分に引き出しているのも監督の力量だろう。自然の鮮やかな美しさと人と人との細やかな愛情関係を描くことは山田監督の映画作りのモチーフだと思われるが、ここでも寺子屋に通う子供の師に対する礼儀作法、清兵衛のぼけた母親に対する礼儀など、封建制度の上下関係とは別の上下関係(人間関係)が細やかに描かれる。こういう礼儀は現代でも大切なものだという呼びかけでもあるだろうが、山田監督独特のほんのりとした(押しつけない)メッセージだから見ていて何か心が安まる思いがする。宮沢りえ演ずる朋江の気丈な物言いは当時としては「異端」に入ると思われるが、それを肯定することでまた別の一つのメッセージが観客に伝えられる。こういう風にメッセージの多い映画が山田監督の特徴であるが、山田監督は「肯定」することでそれらを伝えていくので観客としては安心して見ていられる。それがこの監督の強みであり良さであるので、その良さはこの初めての時代劇においても十分に発揮されていると思う。戊辰戦争で死んだ清兵衛の墓にその娘(白髪まじりの年配になっている)が墓参りに来るシーンで映画はその展開を終えているが、清兵衛が銃で撃たれて死んだこと、朋江が娘二人を東京で育てたこと、朋江も清兵衛の墓のそばに埋められていること、清兵衛は自らの生き様に満足していただろうことなどがナレーションで語られる。岸恵子がナレーションとその老いた娘役を務めており、これもぴったりという感じだが、僕は岸恵子の姿を見ながら、「プライベート・ライアン」での墓参シーンを思い出した。あの映画も戦闘シーンを悲惨さそのままに描いていたが、清兵衛の上意の使者としての立ち回りシーンも迫真の立ち回りで、剣を抜かずに動き回った真田がよく怪我をしなかったと思うほどだ。田中演ずる余吾善右衛門が娘の骨を口に入れて囓るシーンでは、「仁義なき戦い」での渡哲也が記憶によみがえってくる。妻の骨を囓る、あの場面での渡哲也は正に虚無感の固まりであったが、このシーンでは山田監督は珍しくニヒリスティックなイメージを醸しだすことに集中しており、こういう部分もきちんと描くことでこの作品は時代劇として成功しているのだと思う。


    ラーストシーン 2002.11
 
 監督 中田秀夫         出演 西島秀俊・ジョニー吉長・若村麻由美・麻生祐未

   中田秀夫氏は「リング」の監督である。ホラー物がお得意ということなのか、冒頭に流産した子供の霊に怯えるシーンがある。何だ、ホラー物か、と思っていると、それが映画の撮影シーンだと分かる。主演女優三原(麻生久美子)の最後の出演作品で、相手役の男優三島(西島秀俊)はこの作品で主役を降ろされる、ということも分かってくる。無論三島にはこれは不本意なことだが、三原は彼に「これからはテレビの時代、だから役者を辞める」という意味の事を言う。この言葉がこの映画のキーワードであって、自分がスターであることに拘る三島は所長に捨てぜりふを吐いてスタジオを飛び出すが、結局、実力のない彼はそのまま映画を去ることになる。彼の妻は大部屋女優だったが、信じられないくらいの優しさを持った女性で、交通事故で死ぬとき、その霊がスタジオ彼を訪ねてくる。それが「霊」だと知らない彼はそんな妻を邪険に扱うが、スタジオでの撮影現場でやけになっている彼は横暴になり、ちょっとしたミスをしたライトマンを殴る。そんな彼の所に妻の霊がまた現れ、名残惜しそうに彼に別れを告げる。あっと思った彼だが、そんな彼に交通事故で妻が死んだという連絡が届く。
    この映画はこれからが真骨頂で、斜陽化した映画界、隆盛を極めるテレビ界ということをバックに、映画を愛する者が映画に生きる、映画に自分のすべてをかける様が、テレビ関係者を馬鹿にした描きようと好対照的に描かれる。年老いた三島(ジョニー吉長)が自分の最後の思い出として「映画に出たい」と瀕死の病人役のエキストラとして、若き自分の活動場所であったスタジオを訪れる。かって活気を呈したスタジオでも、今はテレビ出身のちゃらちゃらした監督がテレビドラマの映画化のメガホンを取っており、映画出身のカメラマンや録音マンがその手伝いをしている。映画マンは本職、テレビマンは所詮素人、というのが観客に分かるような描き方で、この辺はテレビ関係者をかなり馬鹿にした描きようだと言える。病人の数行のせりふが言えず、NGを連発する三島だが、そんな時、彼の妻が「昔のまま」で現れ、せりふの手伝いをする。彼自身、死を前にしているという設定だが、これほどまでに優しい女性は「やはり映画」という感じである。彼の覚悟を感じ取って、彼を憎んでいた「映画関係者」も「テレビ関係者」を無視する形で彼の最後の演技を撮影する。この辺は「映画への愛情」が満ちあふれている感じで、妻の霊もホラーではなく、「慈愛」として観客には感じ取れるだろう。
 渥美清も殿山泰司も体調の悪化を隠して、でも撮影関係者にはそれが分かっていて、という状態で撮影を続けたことを聞いているが、映画にはそれほどの磁力・魅力がある。そういう「映画への思い」がこの作品の基調音になっているので、ストーリー的には「作り事」が多いが、その「思い」には真実味のある映画だと言える。


「十七歳」    2002.10
      
        監督 今関あきよし              主演     滝裕可里

   タイトルに惹かれて見に行った。場所は田舎の高校。母親がパートと飲み屋のホステスをやって生活を立てている家の娘が「イジメ」にあっている。こういう内容のものを見ると、教師をやっている僕なんかには「身につまされる」思いがあるが、この女主人公ロミはその「イジメ」に立ち向かうのでもなく、かわすのでもなく、ただ一人で耐えている。この年齢の女の子は普通「群れをなす」傾向が強く、独りぼっちになることを極度に恐れるものだが、ロミは「一人」でいることを頑なに守ろうとしている。そんな彼女に惹かれるのが、旅館の跡取り息子で、バイクに乗ったり茶髪にしたりするこの「反抗的若者」が結局ロミの頑なさを少しずつ解きほぐしていく。その間もイジメは続くのだが、ロミは思いの丈をノートに記していくことで自分を支えているようだ。障害を持った兄が受けたイジメを継続して受けているとも言える描写もあるが、小学生ならまだしも、高校生ともなると、はっきりした障害を持っている生徒には逆に好意的になる生徒も多いので、この辺の描き方は一面的だと思う。障害を持った女生徒が「自分を守るため」に援助交際や「恐喝」の片棒を担ぐ部分は、映画的にはスリリングなシーンでその効果のほどは認めるが、現実的にはあまり考えられないと思う。原作者の体験だと言ってしまえばそれまでだが、現代の青春像の一面を誇張的に描いたと見るのが妥当だろう。舞台が学校で色んな教師像が描かれており、ここが一番「身につまされる」部分だが、「個性尊重」と「茶髪禁止・バイク禁止」は矛盾していないかと問う若者に対して「ルールを守った上で」「個性」を、という苦しい答えが出されている。「三ナイ運動」は過去の話になっている筈だが、学校の「禁止行政」がまだ多くの学校で続いていることも事実だろう。これは結局「家庭教育」の領域を学校が担ってしまっている結果でもあるので、「家庭の領域」は家庭で、が徹底されてくれば、こういう矛盾は解消するのだが、まだまだ時間がかかるだろうと思う。昔「妹」に出演した秋吉久美子を僕は覚えているが、この映画では、生活にやつれた、気丈な中年の女性を好演している。彼女もこういう役を演じるようになったか、という感慨がなくもないが、それはそれとして、この映画は大人になる過程で子供たちが感じている矛盾・欺瞞・希望を素直に描いており、エンディングも爽やかで、見る価値のある映画の一つだろう。 




海は見ていた」                      2002.8.4(日)

 熊井啓監督の「海は見ていた」を見に行く。実は黒澤明が企画していたものだそうで、「黒澤明が最後に撮りたかったものはラブストーリーだった」というのがキャッチフレーズ。江戸期のある遊女屋を舞台に、ある若い女性(遠野凪子)を巡っての「愛の形」を描いたもの。遊女屋と聞くと僕らは普通「退廃的」というイメージを持つが、ここで描かれている女性は「一生懸命働くわ」という、この職業としてはかなり「健康的」な姿勢で描かれている。貧しさ故の、という部分も無論挿入されているが、それは付け足しで、社会的には極めて低い地位にあり、膏血を搾り取られているはずの女性が、恐らく生来の「人の良さ」を失わず、その親切心が愛情に変わっていき、夢やぶれたり夢かなったりする様を描いた映画だと考えて良い。所は深川、勤める遊女屋も下町の女将さんが経営しているようで、所謂「悲惨さ」は全くない。奥田瑛二がヤクザでそこの遊女の「ヒモ」役を演じているが、その悪辣ぶりを見かねた永瀬正敏とドスをもっての立ち回りを演じるが、残念ながらこのシーンは迫力がないこと夥しい。ラストシーン、洪水で逃げ遅れた二人(清水と遠野)が屋根に腰掛けて「死]を予期していると、永瀬がぼろ船に乗って助けに来るシーンがあるが、洪水で屋根に逃げた割には着ている服の汚れがないし、手に持っている提灯も新品同様だ。夜空には天の川、流れ星が一つ二つ、濁流にもまれる二階屋の屋根の上には若い遊女が二人、着物も化粧もお座敷に出ているのと変わらない。これでは、あまりにも人工的で見ている方としては「ああ、そうですか。こういう事が描きたかったのですか」と言うしかない。吉岡演ずる無邪気な若侍は面白いが、これもあまりにも間が抜けていると言わざるを得ない。映画は所詮作り物で、現実をそのまま描いても映画にはならないだろうが、黒澤の「七人の侍」での泥まみれの戦闘シーンを思い浮かべると、もう少し何とかならないか、と思う。リアルよりも夢を、という方に向いている映画だと思う。
石橋蓮二の隠居役が、「粋」ではないにしろ、役回りがよく、僕には面白かった。



誰も知らない」                                    2004.10

柳楽君がカンヌで主演男優賞をとったことで注目された作品。監督は是枝裕和。上映が始まってからなかなか行く機会がなく、10月になって遅まきながら見に行った。出だしの部分のドキュメンタリータッチのカメラワークに注目、母親役のYOUの甘っちゃけた声も面白い。悪気のない無責任というか、自分が新しく結婚生活に入るために子どもを放っておいても特に罪悪感を感じることのない大人(母)、お金に困って、ではなく、一種のスリルを味わうための万引きをする少年、友達から相手にされない孤独を癒すためのように「援助交際」に走る少女など、現代の日本社会が抱えている負の部分を軽いタッチで描いている。柳楽の演じる長男(明)は、学校に行っていないという設定「だから」か、「なのに」か分からないが、母親と書物から得た「正義感」を持って行動し、万引きや援助交際を拒否し否定するが、社会に出ていない彼が旧来の道徳を守り、学校に行っている少年や少女は万引きやイジメや売春にさほど抵抗なくはまっているという所に現在の日本社会の有り様への批判があるのだろう。「明、よろしく」というメッセージとともに残されたお金を使い切ってもまだ顔を見せない母親に代わって明が弟一人妹二人の生活の面倒をみるのだが、電気もガスも水道も止められ、近くの公園のトイレで用を足し、公園の蛇口から水を汲み家に運び入れる。コンビニのおにいちゃんから残飯をもらって飢えをしのぐ生活にも子ども達はさほどめげた感じはなく、これは逞しさと言うより、子どもが持っている適応力と生命力だろう。末っ子の妹がベランダで椅子から落ち、頭を打って死ぬのだが、この時、明は意を決して薬屋から薬品を万引きする。彼のこういう正義感はどこから出てきているのかこの映画だけでは分からないが、学校にも行かずに母親に代わって家計を見てきた経過の中で自然に身につけたものだろうと推定するしかない。妹は結局死に、援助交際の少女と一緒に死体を羽田空港そばの野原に埋める。妹がそれほど飛行機を見たがっていたわけでもないが、何となく分かるような、分からないようなシーンであった。東京という世界でも有数の大都会の片隅で、自身子どものような母親から置き去りにされ、四人で生きるしかなかった子どもの映像に交えて、蔓延する万引き、援助交際、イジメという、主に子どもの世界で起きている問題を点在させ、明の正義感を軸に映画をまとめたという感じである。「悪気のない無責任」と僕は言ったが、この「悪気のなさ」こそが問題なので、裏返しに言えば「倫理観の喪失」ということなのだ。多様な価値観と言えば肯定的だが、生きる軸がなくてその時の気分で価値観が揺れているのが今の日本の精神風土なので、そういう風景をそれほどの暗さもなく描いたと言えるだろう。しかし「暗さがない」ということ自体が実は問題なので、内容的にはもっともっと厭になるほど暗く描くべき映画だと僕は思うが、こういう「軽さ」が今の日本の状況であることも事実だろうと思う。かってブラジルのストリートチルドレンの生き様を描いた映画があって(僕は見逃したが)、そこにはそうならざるをえない状況があった。現在の日本のまだ恵まれた状況の中ではそういう「やむを得ないな」という部分はほとんどないが、それがこの作品の「軽いタッチ」の理由なのかも知れない。何しろ、こういうことは「ごく例外」だという気分でぼくらは映画館を出ることが出来るのだから。
明の弟「茂」を演じた木村飛影の、ほとんど地に近い演技が僕には面白かった。



隠し剣 鬼の爪                                        2004.11.5

「たそがれ清兵衛」に続く山田洋次監督の時代劇二作目。主演は平侍片桐宗蔵を演じる永瀬正隆。原作者の藤沢周平はサラリーマンに人気のある作家で、司馬遼太郎の作品がヒーローを描くとすれば、藤沢は平凡の中の非凡さ、大義よりも「自分に対する正直さ」を大事にする作家だと言える。山田洋次は藤沢のそう言う姿勢に惹かれたので、この映画でも気骨のある下級武士が出世や栄達ではなく、自分の中の愛情を大事にし、武士であることを捨て蝦夷に向うところで終わる。緒方拳が悪家老堀将監を演じているが、その絡みが今一よく分からない憾みがある。武士といっても所詮サラリーマン、時には命がけの闘いもあるにしても、その日常は現代社会の会社組織や官僚組織と変わらない。武士を「剣に生きる」側面ではなく、「組織の中で働く一員」として見るのが山田流なので、そこには多くの無名の働き蜂がいる。時代は幕末、かっこよく描けば坂本龍馬のようになるが、みんなが坂本龍馬であった訳ではなく、東北の海坂藩での近代化は切実さもなく、ただ上から言われるから仕方なくやっている様が滑稽さに満ちた訓練風景の中で描かれている。片桐はそういう時代の動きには無関係で、無骨な父と同じく、自分の中の筋を通す人物として設定されている。一刀流の使い手ということだが、それほどの抜群の使い手ではなく、そんなに強そうに見えない点で永瀬に合っているのかも知れない。組織の中で自分の義を通すこと、というより、通す他に生きようのない人間を共感と情を籠めて描いているのがこの映画で、そういう人間はもちろんうだつもあがらず出世もしない。江戸で謀反を企てた廉で囚われ、脱獄した友人の狭間弥一郎(小澤征悦)を切ることを命じられ「藩命ならば」と受けるが、出かける前夜、「俺が死んだらきぬにこれを渡せ」と言って下男に手紙を託す。きぬは長く家で世話をした女中で、不幸な結婚生活から強引に救い出し、今は国元に帰している。その手紙に書かれた内容がこの映画のポイントなのだが、死なずに済んだのでそれは明かされず、ストーリーとしては、戦いに勝ち、その後、家老の堀を「鬼の爪」という忍者の使うような武器で(つまりそれと分からない方法で)殺して友人とその妻の復讐をし、武士を捨てて蝦夷に向うという形になっている。その途中できぬの国元に寄り、きぬに愛を打ち明けてともに蝦夷に行くことを求めてこの映画は終わる。この告白はかなり不自然だが、まあ永瀬がうまく演じたということになるだろう。流ちょうな庄内弁に一番好感が持てた映画で、きぬを演じた松たか子が好演であった。剣を捨てて農業をやっている剣の師匠の生き様が山田には魅力的であったと思うが、傍景としてしか描かれず、謀反を起こした狭間もその内実がよく分からないままに終わっている。今風に言えば、サラリーマンを辞めて自分らしく生きる、ということになるだろうが、訴える力は少し弱いかなという感じである。




 草の乱        2004.11.28

  監督:神山征二郎   出演:緒方直人、林隆三、杉本哲太、藤谷美紀

  秩父事件の概要を描いたものと思えばいいだろう。明治政府の圧政下、日々の暮らしの厳しさに絶えかねた農民が1884(明治17)年10月31日決起した。松方正義のデフレ政策・軍備拡張のための増税など、人民の困窮の理由は時の政府の政策にあるが、この決起は短時間の内に武力で制圧され、7名が死刑になった。自由党の活動家の指導があったのだが、結局は秩父困民党としての決起になり、壊滅していく様を、北海道に渡り別人になりすまして生き残った井上伝蔵を中心に描いたもの。「民衆の蜂起」というテーマだけは分かるが、大将(総理)になった田代栄助の役割も今ひとつ分からず、粗筋だけを追わされている感じで映画としては面白くない。民衆の苦しみ・上部団体の裏切り・家族の絆・男の決意など、心意気が先行した映画で、心意気の現れの一つとして、エキストラとしての参加者の数が膨大で、その点では、みんなこういう映画が作りたいんだな、凄いなと思わせる。緒方直人は演技が単調で薄ぺっら、やたら力が入っているという感じに思えて、残念ながら僕には好感が持てない。親父と違って「苦労」なく育ったという印象で損をしている。監督のことを言えば、「郡上一揆」もそうだが、とにかく「民衆」へ肩入れしたいという気持ちは分かるが、ストーリーがちょっと粗すぎて見ている方が肩入れできない。折角肩入れしたくて見に行っているのに、逆に欲求不満になってしまうような作りで、それが意図だとは思えないが、もっと「腰を据えて」じっくり描くべき題材であっただろう。監督の意図は汲めるが、という感じで、色々制約もあろうが、逆説的に、映画を作る難しさを痛感させられる映画であった。                              



 父と暮せば   2004.11.28                                                                                                              監督:黒木和男       出演:宮澤りえ、原田芳雄、浅野忠信                                                                                      広島で被爆後3年、独りぼっちになって生きる若い女性が恋に落ちる。いや、思いがけず生き残ってしまった私が恋になど落ちてはいけないと娘は心の中で葛藤する。その葛藤が父を呼び出し、死者としての父と語らう中に、あの日の出来事、自分の振るまい、むごくも死んでいった人たちへの思いなどが織り合わされ、眼前のものになってくる。作者井上ひさしの思いがこもったという感じのセリフ回しで、父の優しさ、娘の優しさ、原爆の非情さと生きることの辛さと生きていることの切なさや喜びが浮かび上がってくる。ドンゴロさん(雷)に怯えて家に娘が駆け込み、押入にいた父が「早くこちらへ来い」と呼びかけるシーンから物語は始まり、娘が「幸せになってはいけんのじゃ」という気持ちに打ち勝って生きようとするところで物語は終わる。広島弁の面白さが物語の切なさと絶妙な対比をなし、健気で思いの深い若い娘を宮澤りえが好演し、原田も暢気で気の良い、娘への愛情の深い父親像を完璧に演じている。原作は二人芝居だが、映画では恋人役の浅野が存在感だけでアシストしている。娘の恋心から俺は生じたという父親は「恋の応援団長」として娘を恋に追いやろうとするが、娘はそれに執拗に抗う。娘の「生きようとする心」が父親となり、「死者達への贖罪感」が観客が眼にする娘の姿である。こういう分裂を強いたのは無論広島に落とされた原爆であり、戦争である。ヨーロッパでも、中国でも、そして日本でも無辜の民衆が数知れず殺され、傷つけられた。死者は黙して語らず、生き残った者は自らが負った傷と失った者への思いを抱えて生きていかざるをえない。戦争に伴うこういう情景は人類が繰り返し経験してきたことだが、20世紀半ばのホロコーストと原爆はその中でも特別な位置を占めている。日本の側で言えば、「国体の維持」の為に戦争終結が引き延ばされ、原爆の投下にあったこと、アメリカの側で言えば、戦争終結のためではなく、戦後の冷戦を視野において原爆が投下されたことは今ではほぼ通説になっている。簡単に言えば「政治」がこれらの犠牲の背後にあるのだが、映画(劇)の中ではそれは出てこない。市井の者がある日、惨い目にあった。その酷さと、生き残った者の切なさと、そして死者達の優しさがこの映画(劇)のテーマであり、この作品と役者達はそれを見事に表現しえている。「おとったん、ありがとありました」という娘の最後のセリフは、生き延びようとする者の希望と死者達への感謝を語るものであり、切なく、哀しく、美しい。「ほたるの墓」を見たときもこのような思いに囚われたが、こういう悲しみはないに越したことはない。修学旅行で被爆者の方がその体験を話しても子ども達がまともに聞こうとしなくなったと聞いているが、広島を経験してしまった者の責任として、それが如何に悲惨であろうと、被爆という事実は語り継がれなければならない。(作者も)監督もそういう思いでこの作品を作ったのだろうと思っている。


ヒットラー 最後の12日間 2005.9

[監]オリバー・ヒルシュビーゲル 
[原]ヨアヒム・フェストほか 
[製][脚]ベルント・アイヒンガー 
[出]ブルーノ・ガンツ  アレクサンドラ・マリア・ララ トーマス・クレッチマン 

ヒットラーとは何か、この問いは20世紀最大の政治的課題かもしれない。平凡と非凡、大衆とプロパガンダ、職務としての殺戮、アジアで日本軍が犯した殺戮をヨーロッパではナチスドイツの官僚達がになったことなど、ナチスドイツを率いたヒットラーについて語られるべき事は多い。才能があるとは思えない芸術家志望の若者がミュンヘンのビアホールで政治的プロパガンダの才能を見いだされ、遂には政党の党首となり、ドイツのfuehrerになる。単純で分かりやすい演説・「ドイツよめざめよ」という簡明なスローガン、我が国のライオンヘアーの首相を思わせるが、一致点はこれだけではない。オペラ好きで独身、主婦層での人気、なにやら不気味な気がしてくるが、この映画はそういうヒットラーがベルリンの地下要塞で自殺するまでの12日間を描いたものである。ヒットラーを「独裁者」というレッテルで片づけることは容易だが、この映画が描こうとしてものはそういう「怪物」としてのヒットラーではなく、建築を愛し、自殺前にEVA BRAUNと挙式を挙げるという切ない感性をもち、戦争の絶望的な状況を把握することを拒否し、自身の誇大妄想のなかで作戦指揮をとり続ける中年の男としてのヒットラーである。連合軍の空襲に脅かされる民衆の姿、戦車を邀撃すると言って粗末な武器を手にする少年兵、果敢な戦いぶりを見せた少年兵の首にメダルを掛けるヒットラーの震える左手(パーキンソン病とも言われている)、逃亡兵らしき民間人を吊すSS,こういう情景をヒットラーの女秘書の目を中心にしてこの映画は描き出している。ナチスドイツの犯罪を忘れないこと、ドイツでは犠牲者を記録するモニュメントが作成されているが、翻って我が国ではどうであろうか。数年前、東条英機を美化する映画「プライド」を見て唖然としたが、この日本映画は東条を美化し、免罪することで大東亜共栄圏を唱えた当時の日本支配層を免罪することを意図しているとしか思えない。戦争犯罪などなかった、大東亜戦争はアジアの解放を目指し、アジアの人から支持されていた戦いであったなどと厚顔無恥そのものである。ドイツのこの映画は少なくともナチスドイツの犯罪性は自明のものとした上で、ヒットラーの「最後の日常生活」を描いている。ヒットラーを「人」として描けるようになったというのは、それだけ客観視できるようになったということの証左かもしれないが、過去を知るドイツ人には描きづらいテーマであろうとは想像できる。役者の演技で言えば、ヒットラー役のブルーノ・ガンツはまるでヒットラーそのものであった。ヒットラーとは確かにこういう男であっただろうなと思わせるほどの演技で、「プライド」の津川の描き出した東条とは段違いであった。ドイツ民衆の戦争責任に関して、「ユダヤ人問題の最終処理」を知るドイツ人は少なかったという弁明が映像の秘書の口からでるが、これは知らなかったというより、知ろうとしなかったと言う方が適切だろうと思う。ゲットーの存在、劣者を表象するダヴィデの星など、知る材料はいくらでもあっただろうからだ。しかし当時のドイツ人の中ではヒットラーはMEIN FUEHRERであり、ドイツのプライドを回復してくれる希望の星でもあったので、あのような「指導者」を選んだドイツ民衆の熱狂を支えた基盤は、今の日本の政治的状況とそれほど違っているとは思えない。「改革」という文字に踊らされた日本の有権者がしまったと思う時期が来なければいいが、と願うこと切である。

単騎、千里を走る(2006.2.4)

  監督 チャン・イーモウ  主演 高倉健

  妻の死後、息子との意思疎通がうまくいかなくなった男が、癌で死に瀕している息子のために、中国の仮面劇の研究家である彼が取り残した「単騎、千里を走る」を撮影に行く過程での通訳の人との交流、仮面劇を演じる男の息子との関わりなどを通して、人と人との関わりとは何か、愛情とは何かを描いていくもの。高倉健は寡黙な海の男を地のままに演じている感じ。中国での反日運動が昨年伝えられたが、日本の中にも反中国の動きは底流している。昔、植民化した中国への蔑視は根強く、東京都知事の石原などは露骨に差別的な発言を辞さない。21世紀は中国の時代だという見解もあるなかで、アジアの平和は中国とどう日本が関わっていくかに大きく懸かっている。日本の政治家どもが靖国などで理不尽で見通しのないアジア蔑視の動きを強めている中で、中国の民衆との良き触れあいを描くこういう映画が上演されることには大きな意義がある。中国人だろうが日本人だろうが子供を思う心は同じだ、人の真心に動かされる気持ちも同じだ、人の優しさに触れて思いを深くすることも同じだ。こういうごく平凡な事実を平凡に伝えてくれるのがこの映画の良さであって、素人俳優を数多く出演させている中で、高倉健がほとんど言葉を発しないでいて、それでも押さえた感情がオーラのようにその体から滲み出てくるところは監督の計算通りだろう。高倉健の、じっと耐えたような寡黙さ・男らしい礼儀正しさ・真摯さを監督は高く評価しているようで、そういう健さんならではの映画ではある。中国の田舎の風景とその自然の壮大さは日本では見られないもので、そういう光景を見るだけでも一見の価値があると思える。理由もなしに中国を嫌っている人はこういう映画を見ても「中国の貧しさ」を発見して喜ぶだけかもしれないが、そういう人も健さんと言うフィルターを通して見るのであれば、それほどの嫌悪を感じないですむかも知れないなと僕は思っている。



 死者の書(2006.3.5)

  監督・人形製作  川本喜八郎                                      声の出演  宮澤りえ・観世銕之丞・岸田今日子

  久しぶりに岩波ホール行った。昔はよく行ったものだが、という回顧感はともかく、この日の映画は折口信夫原作の「死者の書」である。もう何年にもなるが、原作は読書会で取り上げて論じたことがあるもので、古代の息吹がそのまま読者に伝わってくる筆力に驚いた記憶がある。その驚きをもう一度、という訳で見に行ったのだが、人形は精緻で、中味もよく作られているが、「驚き」には至らなかった。人形を使って一こま取りをし、アニメーションを作り上げていく手法なのだが、全体的には動きがやや乏しいかなという印象を与える。大津皇子の霊のもつ執心の激しさが今一伝わってこないので、霊乞いや霊鎮めの儀式・呼び声に、原作を読んだときの迫力を僕は感じなかった。これは僕の感性の衰えかもしれないし、「二度目」の宿命かも知れないが、迫力を期待していっただけに僕には残念なことであった。観世の謡は迫力があって良かったし、その他の出演者も難はなかったが、宮澤りえの郎女がお経を唱える声がどうも聞いていてしっくりいかず、何か場違いな気がしたのも残念の一つである。若い娘に堂の行った経読みを期待する方が無理なので、これは求めすぎになるが、観世の謡との差が出てしまって気の毒という感じであった。見て損のない映画ではある。


クラッシュ(2006.2.26)

[監][案][製][脚]ポール・ハギス 
[製][脚]ボビー・モレスコ 
[製][出]ドン・チードル 
[音]マーク・アイシャム 
[出]サンドラ・ブロック  マット・ディロン  ブレンダン・フレイザー

  三郷に出来たmovixで見た映画である。監督も出演者も全く知らない人ばかりだが、結構おもしろかった。ロスアンゼルス警察(実はアメリカ社会)の中のレイシズムを基部の置き、差別主義者として描かれていた警官が危急の際は身を挺して黒人を助けたり、レイシズムに反発していた若い警官が誤解から黒人を殺してしまったり、という事件が上手に配されていて、見ていて飽きない点がよい。世間受けを気にする検察官(アメリカでは選挙で選ばれる)、白人の中の根強いレイシズム、そのレイシズムの思いが具体的な出来事で訂正され、過ちだったと認識されることなど、際どいところを描きながら最後の所はヒューマニズムに収斂していく設定が見ている者を安心させるのだろう。アメリカという国が抱える、銃に象徴される暴力性、人種・階級による差別と、それでいてどこか明るい人々の善意の部分がうまく綯い合わされていると言って良い。娯楽を下敷きにしながら、社会性とサスペンスをうまく両立させた映画であった。


ミュンヘン(2006.2.12)

[監][製]スティーブン・スピルバーグ 
[脚]トニー・クシュナーほか 
[出]エリック・バナ  ジェフリー・ラッシュ  ダニエル・クレイグ マチュー・カソビッツ 

  ミュンヘンオリンピックの時に11人のイスラエル選手が殺されたときの史実に基づく映画である。関わったテロリストを一人ずつ消していく役目を負わされたモサド隊員の動きがトーリーの根幹部分で、イスラエルという名前が出ないよう、隠密行動をとる彼らの動きが、サスペンスを伴って描かれている。モサドの行動があんなにうまくいくものか、フランスの情報提供者の情報量の凄さはどこから来るのか、など映画ではなく、事実だとみる視点からは疑問に思う点がいくつか出てくるが、その点は、これは映画だからと割り切って見た方がよい。子供の命を大切にする視点などスピルバーグらしさもあり、このようなテーマをうまく娯楽映画に仕上げた力量はやはり大したものである。主人公をヒューマニスティックに作りすぎているかなという思いはあるが、これも映画だからと言う事で考えればやむを得ないのかも知れない。アラブ側の人物を「テロリスト」というパターンで描かなかったのも良い。最後のところで、主人公が自分は家族共々イスラエルの手によって抹殺されるのではという懸念を持つが、そこは描き方が難しいところで、結局、そんなことはないよ、みたいな感じで終わっている。実際の政治はもっと冷酷なもので、個人の抹殺などは権力者の意に介すること所ではない、というのが僕らの認識だが、そういう詰めの甘さが残るのが欠点かな、と思われる。


ルー・サロメ 善悪の彼岸(2006.2)

[監][脚]リリアーナ・カバーニ 
[撮]アルマンド・ナンヌッツィ 
[音]ダニエーレ・パリス 
[出]ドミニク・サンダ  エルランド・ヨセフソン  ロバート・パウエル


   ニーチェとリルケを手玉に取ったルー・サロメという女性を、ニーチェとの絡みで描いたもの。善悪の彼岸というタイトルはニーチェの著作から来るが、ニーチェの「善悪の彼岸」ぶりが性に関しての放埒に集中されている感じで、神との関わり、神の喪失という部分がうまく描けていない。パゾリーニやフェリーニを思わせる部分や、精神生活は貴族のもの、めいたところがあり、映画の作り方自体においてイタリア映画の伝統を踏襲している感じがする。サロメについては僕は全く知識がないが、上述の二人の天才的な人物に愛されたことからも相当の知的魅力をもった女性であったことが窺われる。フェリーニの「8 1/2」なんかも、発想においても描かれる事柄においても、見ていてよく分からないところが僕には多かったが、貴族階級、上流階級を描かれると、今の日本人で実感としてそれが分かる人は極少ないのだろうなと、中流下層階級の一人である僕などは思っているが、実のところはどうであろうか。この映画も半ばそういう思いで見ていたことを付け加えておく。


THE 有頂天ホテル(2006.1

[監][脚]三谷幸喜 
[製]亀山千広ほか 
[出]役所広司  松たか子  佐藤浩市  香取慎吾  篠原涼子  戸田恵子  生瀬勝久  原田美枝子  唐沢寿明  津川雅彦  伊東四朗  西田敏行 


  今、旬を迎えていると言って良い三谷幸喜の映画である。舞台はホテルに限定されているから、実際の舞台でもほぼこのままで上演できそうだ。あるホテルでの大晦日のドタバタを描いたもので、筋を取り上げてどうこう言う必要はないが、役者が達者で、ドタバタをそのまま楽しめば良いという映画作りをしている。役所広司の役所(やくどころ)には大分無理があって、その無理がないとこの映画が成立しないところはこの映画のインパクトが弱くなる原因だが、インパクトを狙って作ったのではなく、文字通り「面白さ」「笑ってもらう」ことを主眼にした映画だから、それは承知の上、ということなのだと思う。三谷のまろやかな才能が現れ出ている映画だと思う。


太陽(2006.8)

  監督 アレクサンドル・ソクーロフ                                      出演 イッセイ尾形・佐野史郎・桃井かおり

  ソクーロフの名前は寡聞にしてこの映画で初めて知った。世の中には才人がいるものだという思いがする。実はイッセイ尾形が昭和天皇に似せて好演しているという評判だったので見に行ったので、動作などがよく似ているといえばよく似ている。「あ、そう」という決まり文句はすでに天皇の口癖として僕の親などもすでに知っていたが、しゃべるときの唇の震えまでは知らなかった。幼稚というより、子どもそのもので罪がない。こういう人間の号令で何百万人の人が死んだ。これを歴史の皮肉と見るか、歴史の愚劣さと見るか、見解が分かれるところだが、監督の意図するところはこの皮肉さ・愚劣さ・幼稚さを映像化することにあったと思われる。この映像では天皇はまさに「非政治的」な人間として描かれているが、ところがどっこい、彼は「国体を維持する」ためには国民の死などは「文学的な綾」にすぎないと言明した男だし、共産主義の台頭に怯えてアメリカと手を結び、アメリカの軍事力で「国体」を護持しようとした男である。新憲法で政治的行動を禁止されているにもかかわらず、マッカーサーと結託して沖縄をアメリカに売り渡し、自己の戦争責任を部下にすべて丸投げし、「平和を愛する天皇」という虚像の内に死んだ男である。この映画はその虚像にカリカチュアを加えたものであって、天皇の戦争責任を口にしただけで銃撃される日本では、こういう像を描くという発想自体がないだろうと思う。非日本人というより、非アジア人の視点ではこういう戯画化も可能なのかという点では感心したが、戯画化することで実在した昭和天皇の責任、戦争責任・国民への弾圧責任などが見えなくなってしまうことが最大の欠点だろうと思う。僕などは少しは歴史の勉強もしており、昭和天皇の行動に対しての批判的な意見も承知しているが、何も知らない若い人が見たら、昭和天皇というのは学者馬鹿みたいな、無邪気な人だったんだね、というところで終わりかねない。天皇個人と天皇という地位は別物であって別物ではない。この映画は個人に焦点を当てすぎて、天皇という地位が必然的にもっている絶対的権力という側面が描かれていない。ヒットラーが死んで50年以上経って人間としてのヒットラーという視点で映像化されたと同様、昭和天皇が死んで20年弱、やっと個人としての天皇が描けるようになったと言える。ただ、天皇を日本人やアジア人が描くと、天皇信奉者は畏敬の念を、天皇制批判者は断罪の念を、天皇制の被害者は恨みと憎しみの念をこめて描かざるを得ないだろう。カリカチュアという手法や視点は外国人、天皇の軍隊に踏みにじられた経験のない外国人にのみ可能な方法であっただろうというのが僕の感想である。 


紙屋悦子の青春(2006.9)

[監][脚]黒木和雄 
[原]松田正隆 
[製]川城和実 松原守道ほか 
[脚]山田英樹 
[撮]川上皓市 
[美]木村威夫 
[出]原田知世  永瀬正敏  松岡俊介  本上まなみ  小林薫 


  黒木監督の最後の作品。井上ひさしの戯曲の原作をそのまま忠実に再現して成功した「父と暮らせば」と同様、この映画も松田正隆の戯曲をほぼそのままに踏襲して作られた、とある。特攻に志願しての死をすでに覚悟している士官、彼に好意を持つ娘悦子、士官の友人の整備担当の士官、悦子の兄と兄嫁、他に端役があるにしても登場人物はこの五人だと考えて良い。昭和20年、舞台は鹿児島。士官の明石は心を寄せる悦子の将来を託すべく、友人の長与に見合いを勧め、長与も悦子にぞっこんだったので、明石の心中を察しながらも縁談を進めるというのが大まかな筋である。かって知覧で特攻兵士の遺品を見たときに複雑な思いをした記憶があるが、国のため、天皇のために死ぬことを大義をと教えられた若者が自ら信じる大義のために命を捨てるという行為は無条件に人を動かす力を持っている。純であり、献身であり、美でもあり得るからだ。信じた者が悪いのか、教えた者が悪いのか、などとこの映画は問わない。ただ淡々と、時には笑いを誘いながら、自ら死に向かっていく明石と、悦子を思う明石の心を察しながら明石を見送る悦子と長与と、橋渡し役としての兄の姿を描いている。こういう時代を再現してはならないという監督ならびに原作者の意図を理解するかどうかは見る者の思想に委ねられていて、特攻を「愚かで非人間的な作戦」ととる者は当時の体制、特に天皇を頂点とした専制政治を批判するだろうし、「献身的で何物にも代え難い犠牲的精神の美しさ」を感じる者は個人としての特攻兵士の勇敢さや誠実さを称揚するだろう。個人としての特攻兵士のけなげさ、美しさ、或いは悲しみを否定する者は少ない。問題は個人的なことを超えた、何がこういう事態を招いたかという、ある面では政治的な、ある面では文化的な問いかけである。生き残り、年老いた長与夫妻の回想という形で表現されるということの中にすでに映画の中では顕在化しない批判と追悼の念が諦念に似た無言という形で表現されていると僕は思うが、「特攻」というテーマを扱うとき、個人の情緒に流れれば流れるほど、先程述べた政治的・文化的な側面は後退していく。特攻という作戦自体、情緒的なものを多分に含んでおり、合理的精神では理解できない面をもっているからだ。どういう状況にあっても、日々の生活はそれなりに送られてきた。時代の激動に流されながらも、日々の生活をしっかり生きていた民衆、体制に疑いを持つこともなく、権力に従ってきた民衆の日々を丹念に描くことで「何か」を浮かび上がらせるのが黒木監督の手法だから、この最後の作品も監督の手法に忠実な作品であるとは言える。ユーモアもあり、悲しみもあり、健気さもあり、慈しみもある良い映画であるのは確かだが、「特攻」というテーマをこの手法で描くと、最後は観客の涙と追悼の念で終わりかねない。特攻に涙するということ自体は不思議なことではなく、あの小泉首相でさえ知覧で泣いたという。知覧で泣き、中東の「自爆テロリスト」に爆撃を加えて当然とする精神はどこか狂っている。そういう狂いを感じ取る視点がこの映画にはない。情緒的、と評する所以である。


母べえ   2008.2

[監] 山田洋次 
[原] 野上照代 
[出] 吉永小百合・浅野忠信・坂東三津五郎・笑福亭鶴瓶・檀れい 

舞台は第二次大戦前夜から大戦にかけての日本。左翼思想を抱いているという廉で、父であり夫である滋が逮捕され、妻野上佳代(吉永小百合)が母として二人の娘と共に懸命に生きていく姿を共感をもって描き出している。滋(坂東三津五郎)が入獄して以来、滋を尊敬する教え子の山崎(浅野忠信)が野上家を頻繁に訪れ、何かと助力してくれるが、結局、滋は獄死する。入獄中に叔父の藤岡仙吉(笑福亭鶴瓶)が野上家に寄宿し、自由奔放な生き方で波紋を引き起こす所も一興である。「贅沢は敵だ」というスローガンを掲げて道行く人々に注意を呼びかける婦人たち、アメリカとの戦争が始まったと聞いて「やった」と拳をあげる米屋の主人、滋の転向を迫る佳代の父などを描くことで、滋や山崎、仙吉の生き様が対比的に浮かび上がってくる。父を「とうべえ」、母を「かあべえ」、娘の初子・照代を「はつべえ」「てるべえ」と呼び合う家庭は家父長制下にあった当時でも、そして民主主義の今でも極めて珍しいだろうが、その呼び方だけでもこの家庭のありようを彷彿しうる。気取りのない民主主義とでも言えばいいのか、信念と思いやりが合体しているとでも言えばいいのか、山田洋次らしく、筋を通しながらも衒わず、奢らず、富を求めずといった家庭で、そんな家庭や個人が国家という得体の知れない力に翻弄され、押しつぶされていく様を同情と怒りをもって映像化している。しかし、ドイツでもアメリカでも日本でも、国家権力を支えているのは結局は民衆なので、権力が民衆を操り、民衆がその掌で踊るとき、踊ったその付けは結局民衆に返されてくる。これは国家を宗教と言い換えても同じなので、人の歴史でこういう忠誠心が引き起こした悲劇は数知れないし、これからも起こされるだろう。人が生きるというのはある時代を生きるという謂であって、その時代の権力に従ってうまい汁を吸う者もいれば、権力に逆らって命を落とす者もいる。命を賭してというと英雄的にもなりうるが、山田洋次はそういうヒーローは描かない。彼がここで描いているのは、命をかけて国家と対峙することはしないが、自分の思いを胸に秘めてその時の自分なりに誠実に生きようとした者の姿である。滋は獄死し、山崎は輸送船の撃沈とともに海に沈み、滋の妹久子(檀れい)は広島に帰り、原爆で死んだ。大日本帝国憲法下の日本では「個人」が「個人」として生きることは許されなかったし、国が定めた政策が如何に拙劣なものであろうとそれに従うしかなかった。そしてその拙劣な政策が引き起こした悲惨は国民が自らの体で受け止めるしかなかったので、山田が描いているのはそういう一連の過程である。これは無論、今の日本をそういう国にしてはならないという山田の呼びかけであるので、民主主義の社会を当然のものと受け止めている若い人にとって、映画に出てくる皇居に向かって拝礼したり、「贅沢は敵」という呼びかけ自体、想像の範囲外であろう。学校現場での「君が代」「奉仕」「愛国心」の強制が強まりつつある現在、過去にそういう歴史があったこと、またその結果、民衆がいかなる苦しみを背負わされたかを知ることはそういう若い人にとって重要なことだと思う。映画の終わりで病床で死を迎えようとしている「母べえ」に「てるべえ」が「とうべえに会えるんだから」と言ったとき、「死んだとうべえになど会いたくない。生きているとうべえに会いたい」と佳代は言う。この映画はこのセリフに向かって展開してきたと言ってもいいくらい、このセリフは重いので、吉永のこのセリフが生きて感じられたと言うことは、この映画での吉永小百合の演技が好演であったことの証左である。実際、好演というより、地のままという感じであって、監督の思いと役者の思いとが一致した幸せな映画であった。