自己申告書とは

   各教員がその年度の自分の仕事(教科・分掌・生活指導他)の「目標」を立て、面接を通してその目標について校長の指導を受け、了承を得た上で、年度末にその結果について自己の業績を「自己評価」するもの。これだけでは何ら悪いことはないように聞こえますが、学校運営の中では、これまで各分掌が年度当初に分掌としての目標を設定し、年度末にそのまとめを職員会議で報告しています。学校は「個人」で動くのではなく、教師集団が一体となって生徒の指導・教育にあたっていますので、学校運営としてはこれで十分なのです。
  また教育庁は年度ごとの目標について「できるだけ具体的に書く」よう指示していますが、一年間のスパンの中でどうする、というには教育という仕事は余りにも範囲が広く、また担当する生徒数も多すぎます。余り短視眼的な目標を設定すると「角を矯めて牛を殺す」ということにもなりかねないので、生徒の動きを見ながら適切な指導が出来ればそれが一番なのです。
  教師も職務の一つですから実際に行った職務について一定の評価を受けることはありうると思いますが、その評価が直接、給与等の処遇に連動するとなると、その評価は「客観性」「公正性」において疑いのあるものであってはいけません。教育庁は「自己啓発・才能開発」のための「自己申告書」だと言っていますが、これは建前であって、昔(1958年)、激しく戦われ、結局は「実働化しない=処遇には反映させない」という約束の元で行われてきた「勤務評定」の実働化をねらったものでしかありません。都では「自己申告書」制度(新人事考課、と言っています)は他の職種ですでに先行実施されており、それを教員にも適用する、という形になっていますが、教員という職種は、ユネスコ特別政府間会議の「教員の地位に関する勧告」(1966年)が出されたように、他の職種とは異なった、特殊な職種の一つなのです。そういう特殊性を顧慮しない人事考課制度は教育現場にとっては有害無益なものだと言えます。    




  自己申告書

    実物はこれです。
 
  1.学校経営方針対する取り組み目標
 2.昨年度の成果と課題
この下に
 縦の項目は「学習指導」「生活指導・進路指導」「学校運営」「特別活動・その他」、他に「研究・研修」

 横の項目は「今年度の目標」「目標達成のための具体的手だて(いつまでに・どのように・どの程度)」「成果と課題」
 の各欄に記入する。

  因みに、「学校経営方針」というのは、各校の校長が四月当初に発表するもので、大抵は 抽象的な言葉の羅列ですが、形式的には、各教員の思いとは違っても、各自が作成する「自己申告書」は校長の「学校経営方針」に則った形でなければなならない、とされています。つまり、「自己申告書」というと、各自が「やりたい」ことを目標として定めるように思う方が多いでしょうが、最初から「ワク」がはめられていて、ある規制のもとで「やりたいこと」を見つけてそれを記入するものなのです。「学校経営方針」を教職員に提示し、意見を聞く良心的な校長もごく少数いるようですが、ほとんどの校長は「決定」としてこれを教職員に提示(言い渡す)だけです。校長は「学校全体の総意を代表する」者だというのが、従来の考え方でしたが、「自己申告書」制度では、「校長の考え」がそのまま「学校としての考え」になり、「学校としての総意」という考え方が破棄されています。
     「自己申告書」に関わって校長面接が各学期一回、計年三回あり、「目標設定」「変更」「成果」がそれぞれの面接の目的とされています。
  




       自己申告書はどう使われるか

    自己申告書の裏側の実物はこれです。
     
     教職歴・免許の種類・過去五年間の校務分掌の他に

    校務分掌希望・異動希望を書くことになっています。つまり、「自己申告書」を提出しないと 校務分掌は校長一任、異動は都教委一任、と見なされてしまいます。「異動」については組合との交渉で「強制異動(必ず異動しなければならない年限が定められています)の人は都教委一任、その他の人は異動希望なし、と見なす」となりましたが、いずれにしても、校内の仕事や、次の学校としてどういう学校に行きたいかの希望を出したければ「自己申告書」を出すしかないのです。「自己申告書」の提出は命令ではない、と都教委は言っていますが、「一年間の仕事の目標」とは全く関係がない「異動希望」などの項目を設けて、教員が「自己申告書」を出さざるを得ないようにし向けています。こういう卑劣な手管を使っておいて、「ほとんどの教員が自己申告書を出しているから、この制度は教員に受け入れられた(定着した)」と宣う都教委の神経には呆れるしかありません。これからの教育者は「厚顔無恥」でなければやっていけないと宣言しているようなものです。





         教員の業績評価と自己申告書

       従来も校長は教員の評価を「勤務評定」という形で行っていました。ただし、これは前述したように「実働化しない」という前提がありましたので、評定がどうであっても教員の処遇に関係することは一切ありませんでした。今実施されている「自己申告書」制度(人事考課制度)は違います。この制度による業績評価の結果が、年大体2割の人に与えられる「特別昇給(成績優秀な人に与えて職員の志気を高めるための昇級)」に直結し、また、今年度、都はこれを「定期昇給」にも連動させる提案をしてきています。「自己申告書」を出さなければ評価等はどうなるのか、について都教委は公表していませんが、推定では

  1 業績評価は最下位もしくは下位にする
  2 従って、特別昇級には該当しない

だと思われます。こういうふうに「生活に響く」ということもあって、ほとんどの人が「自己申告書」を出している訳ですが、これは決して「この制度を是認している」ことを意味しません。「やむを得ず、生活防衛のために」自己申告書を出している方が多数だと僕は思っています。
     次に「教員の業績評価」はどう出されるのかを述べると、

   評価者   一次評価者  教頭    二次評価者   校長

とされています。教頭・校長ともにS,A,B,C,Dの五段階絶対評価を下し、その後、教育長が指示した数字に従ってその絶対評価を相対評価に評価し直し、教育長がすべての評価を集約して最後の評価を下す、ということになっています。この五段階のランク付けの基準は都教委の指示によると次のとおりです。(下線・太文字は筆者が便宜上つけたものです)

「S]とは、当該評価項目における当該評価要素について、優れているもののうち特にそれが顕著な水準であることをいう。

「A]とは、当該評価項目における当該評価要素について、優れており、職務を円滑に遂行できる水準であることをいう。
   
「B]とは、当該評価項目における当該評価要素について、期待し、要求した水準をほぼ充たし、職務を遂行できる水準であることをいう。 

「C]とは、当該評価項目における当該評価要素についてやや劣る部分や問題点があり、職務遂行に時には支障をきたすことあある水準であることをいう。

「D]とは、当該評価項目における当該評価要素について劣る部分や、問題点が顕著であり、職務遂行に頻繁に支障をきたすことがある水準であることをいう。

                                                   「東京都立学校教職員の業績評価実施要領」

 一読して分かるように、これらの評価はまさに「主観」そのものでしかありません。「S」と「A」の違いは「特にそれが顕著」かどうかで決まりますし、「D」の「頻繁に職務に支障をきたす」人は、皆無ではありませんが、非常に珍しい例で、都教委の採用時の判断ミスが疑われるものです。評価項目としては「職務遂行上の能力」「情意(意欲・態度)」「職務の実績」があげられていますが、これらは旧文部省の悪名高い「新学習観」を思わせるもので、教員が生徒に与える評価はもっと遙かに周到なもので、出来る限り数値化し、それを基礎に評価を出しますが、それに比べると話にならないくらい杜撰で主観的評価だと言えます。
次に教員の最大の本務である教科(授業)について評価基準は、上記の「要領」にどう書かれているかを示します。これは「A」「B」「C」の三段階の評価基準が書かれており、「A」の中で「特に顕著」な者が「S」になり、「C」で「頻繁に支障をきたす」者が「D」になると考えればいいでしょう。「能力」「情意」「実績」ごとにその評価基準が書かれており、すべては載せきれませんので、ここでは「能力」だけに絞ります。

     「学習指導」 「能力」の項

 「A」優れている
  専門的知識・技能を十分活用し、先見的に課題を発見、分析し、適切な指導
      計画を作成し、有効な解決方法を見い出すことが出来る。
「B」普通
     専門的知識・技能を活用し、直面した学習指導上の課題に対して、適切な指導
    計画を作成し、解決方法を見い出すことが出来る
 「C」やや劣る
    専門的知識・技能の活用が不十分で、適切な指導計画を作成することが困難
    である。課題解決の方法を見い出せないことがある。

「十分」という言葉、「有効な」という言葉は正に「十分」主観的であり、「C」の定義の教員は
「やや劣る」ではなく、「職務怠慢」または「能力不足」でしょうね。「先見的」という言葉は「A」を定義する際に他の項目でも使われており、生徒を見ただけでパッと「課題」を認識し、「解決方法」まで考え出すなんて、神様みたいな人ですね。普通の教員、少なくとも僕なんかは「試行錯誤」、色々やってみて「これでいいかな」というものを見つけてきました。同じやり方でも生徒集団によって通じたり、通じなかったりするのが現実で、僕の知る限り、「先見的」に課題を発見、なんて人はいませんね。しかもこれは「A」の定義で、この上に、それが「特に顕著な」「S」の人がいるんです。信じがたいですね。つまり、これは官僚の作文なんです。「生活指導・進路指導」の「能力」「A」の項目には

 先見性をもって課題を発見するとともに、困難な状況下でも、自分で大局をつかみ、適切かつ迅速に判断し、指導することができる。

とあります。この作文を作った人は言葉をもてあそんでいるだけで、現実にこういう人がいるとは考えていないでしょう。自分が育ててきた子供が相手でも、「先見性をもって課題を発見し」「適切かつ迅速に指導」できる親は少ないでしょうし、教員の場合、「課題」を発見しても、指導に生徒が乗ってこないことも多いので、そこに苦労があるのです。そういうことが分かっていませんね。
「学習指導」については校長が学期に一度授業を「観察」したうえで下すことになっていますが、教員は多くのクラスを受け持っており、それぞれのクラスにはその生徒集団なりの特徴があって、うまくいくクラスもあれば、どう工夫にしても「乗ってこない」クラスもあるのが実情です。そういう中で、ある一つのクラスの授業を一時間見て担当教員の「授業評価」が下せる校長がいたら正に「評価の神様」でしょう。校長や教頭にはそれぞれの「専門教科」があり、それ以外の教科については素人に過ぎないので、こういう制約の中で教頭や校長に「評価」を強要するのは「酷」だとも言えるので、一面に置いて管理職もこの制度の「被害者」なのです。こういう実効性のない「授業観察」を制度化することの中には、昔の「視学官の復活」の意味と、「見た」という形が整えばよいとする「官僚的発想」と、教員を「ともに教育を作っていく同僚」ではなく「管理・監督する対象」でしかないという考え方を見ることが出来ます。このいずれも、「生徒と教師が共同で教育を構築していく」という考え方とは無縁であって、こういう制度に慣れてしまった教員が生徒にどういう内容のことを教えていくかは想像に難くありません。教育庁がボランティアと言えばボランティアを、ボランティアの意味を考えさせることもなく、生徒に強要していくだろうというのが僕の考えです。これが「ボランティア」で済んでいればまだ、という所でしょう。
  因みに教頭・校長は教員より先に人事考課の対象になっており、校長の評価は

  1 入学式・卒業式で「日の丸」を掲げ、「君が代」を斉唱させる
  2 「自己申告書」を出させる
  3 校長主導の学校運営を徹底する

で決まっているだろうというのが巷の噂です。業績評価は一切公表されていませんので、事実かどうかは分かりませんが、教員の特別昇給該当者の実態(公表されませんが、職場によっては集約できています)から考えると、特別昇給は「校長のポケットマネー」のような使い方がされており、業績評価自体も、根拠のない、かなり偏向したものだろうと推定されています。




         自己申告書をなぜ提出しないのか

     僕は「評価」自体を否定している訳ではありません。教員は生徒に対してはかなりの裁量権をもっており、その責任は重いと思っています。だから担任の時には、担任の生徒を担当していただいている各先生方の授業評価を生徒にやらせて、その概略を職員会議で伝え、また各先生にも伝えています。学校の中でもお互いの批評・評価がオープンに出来るようになればいいとも思っていますが、これは僕自身を含めてなかなか難しいですね。教員のプライドですか、ね。
  僕が「自己申告書」を出さない理由は、人事考課のあり方に対する批判とほぼ同じです。「自己申告書」を出すということは、そのまま人事考課制度を認めたことになる(都の論理がそうです)から出さない、と考えてもらってもいいくらいで、付け加えるとすると、生徒の成長の長いスパンを考えると、一年を限っての目標・課題設定することに抵抗があること、多くの生徒を抱えており、教科にしてもその目標は一つや二つではあり得ず、その中の幾つかだけを「目標」として設定することにも抵抗があること(その他の生徒を無視するようで厭だ)、教員としての自分の課題設定に校長の許可がいることへの抵抗感があります。かく言う僕も、異動する時は都教委一任にはしたくなかったので、「自己申告書」の目標欄を手短に書き、成果も「出来た」「出来なかった」と記して(自由意見欄ははみ出るくらいに書きました。曰く、こういう制度は生徒と交わる教員を作るのではなく、有能な官吏を作るだけだ、など)出しました。結果は、第一希望はものの見事に外され、第二希望で書いた定時制(希望者がなくて追加募集をしたところですから、僕の希望を認めて、ではないでしょう)に今います。僕くらいの年齢になると校長もとやかく言えないので「自己申告書」に好きなことを書いて出しても受け取るでしょうが、若い人は校長・教頭との面接で管理職サイドの発想を吹き込まれる虞は多分にあります。そういう意味で、若い人たちに「自己申告書」を出さない人がおり、出さない理由がありうることを伝えたいという気持ちもあります。
  僕が東京都が今実施している人事考課制度を批判する理由は

   1 「評価」の客観性・公正性が疑わしい。
 2 評価をする方法論が明確でなく、評価基準も主観的すぎる。
 3 教員の仕事は集団で行っており、個々の教員の評価の後ろには同僚の協力
        が必ずあり、その協力を評価する方法論がない。   
 4 教員の職務は多種に渡っており、また担当する生徒によって結果は大きく異
        なる。それらをすべて勘案して個々の教員の評価を出すのは至難の技であ
        る。
 5 教育というのは長いスパンの職務であり、また個々の価値観に関わる職務で
        もある。例えば有名大学に生徒を進学させるのと、非行のある生徒を更正さ
        せるのと、どちらが教員として優秀なのか、判断は難しい。従って教員の評
        価は評価者の価値観に左右されやすく、そういう評価を教員の処遇に直結さ
        せるのは不合理である。
 6 開示もされず、従って苦情処理もない制度は特別政府間会議の「教師の地位
        に関する勧告」に違反している。


   です。「民間の我々も恣意的に評価されている。教員は甘いよ」という声もありそうですが、教員は公務員であって、少なくとも、民間企業を監督する官庁を抱えている公務員の処遇が公正でなければ、その国の労働政策や法制度は破綻していると言われても仕方がないでしょう。因みに、教育長が指示をする「相対評価」の割合すら公表されていません。

 


          育庁の主張とその欺瞞

   教育庁の主張(教育庁配布のリーフレットによる)

    自己申告について
          ☆自己申告を取り入れることにより、評価が双方向的な仕組みの中で
          行われます


  ○教員が自分の仕事について出した評価は、簡単に言うと「出しっぱなし」であ
       るに過ぎません。評価は校長が出し、それは「公表」されず、しかもそれを「相
       対評価」にして処遇に反映させるのですが、その「反映ぶり」も公表されません
       。これのどこが「双方向」なんですかね。校長の出す評価自体、客観性も公正
       さもないもので、基準自体が曖昧模糊としたものです。「双方向」というなら、
       最低限、「公表」と「苦情処理」が必要です。

          ☆職員の資質能力やモラールの向上になる

    ○3532名の回答をまとめたアンケート結果(東京都高等学校教職員組合実施)
        によると、

                 管理職と教職員の関係が悪化する                1854名 
                 のびのびとした雰囲気がなくなり学校に活気がなくなる    1769名
                 教職員の「志気」が減退する                                            1722名
                 資質能力への自覚が増した                                                    8名
                  教育活動への教職員の意欲が増した                                       4名

        です。自由記述欄には怨嗟の声や「好きで教員になったのに、もう辞めたい」
        という悲鳴で満ちています。

       業績評価について    
           ☆評価結果は先生方の能力開発に向けた指導・育成に活用する

    ○いい加減な評価を「活用」されては困ります。「反体制派」の教員を「指導不足
        教員」にでっち上げることを「活用」と言っているのでしょうが、幸いにして現実
        的には「業績評価」に基づいて「指導」されたことなんかないし、校長も「評価」
        を出すだけで手一杯です。また、「公表」もしない「評価」をどう「活用」するのか
     、知りたいものですね。

           ☆公正で客観的な評価を行います

    ○上述したように、公正でも客観的でもありません。もともと「教育」については
        様々な考え方があり、何をよし、とするかについても意見は分かれます。商売
        なら「たくさん売れればよい」というはっきりした基準がありますが、「教育」は
       そういうものとは性質を異にします。そういうものを評価する際には極めて慎重
       な姿勢が必要ですが、教育庁の姿勢は「とにかく評価するんだ」というもので、
       主観的であるばかりでなく、実際的にかなりの偏向が見られます。異動希望の
       扱いについて組合活動に携わる者は不便なところ、教育困難なところ(活動家
       はこういう学校をいやがりませんが)に措置する例が多いし、特別昇給でも、
       校長の意向をくんだ発言をするだけで、他の仕事は人任せを決め込む者が優
       遇されている例もあります。
           評価に自信があるなら、評価理由を明記して公表してみろ、と言いたいです
         ね。




    自己申告書で学校はどう変わるか


       この制度が導入されて二年半、管理職側からは「評価作業が大変だ」という本音を別にして、「教員が校長の指導を受けることに抵抗がなくなった」と評価する声もあります。従来は校長も「こうしろ」とは言わず、「こうしたらどうですか」という助言的な物言いをしていたが、そういう遠慮がなくなって楽になった、と言っているのである。管理運営規則の制定以来、職員会議の補助機関化、人事委員会・予算委員会の廃止等、一般教員の声を封じ校長の権力強化を図ってきた都教委の目論見通りになってきた訳で、そうなった今、都教委は高等学校の再編(統廃合)を楽々と進めている。今100校近くある定時制も55校へと、文字通り「激減」する。生徒の質を考えると、大規模化は生徒指導上問題が多く、また仕事を持っている生徒にとっては通学時間は決定的な問題なのだが、都教委は聞く耳を持たない。「再編が完了した時点で30人学級を実施するには57校不足する」と文教委員会でヌケヌケという都教委は、もともと30人学級などやる意志がないのである。校長がそういう都教委に「意見」を出せるかというと、校長も人事考課で評価され、降格人事もありうるという脅しもあって、ひたすら都教委の意のままに動くのみである。中に悪辣な校長もいて、「私の意見に反対なら他の学校に移れ」とまで言うそうな。
   自由で創造的な教育をすることは教員の夢の一つだが、この体制ではそれは全く夢物語、寝言に近いであろう。


            教員の地位に関する勧告日本語版英語版

  1966年、ユネスコの特別政府間会議で採択されたもの。
法的拘束力はありませんが、教育政策の一つの指針となるべきもので、日本政府も賛同したものです。関係する部分だけ、抜き出します。全文はリンク先のページにあります。

       [  教員の権利および責任

    61 教職にある者は、専門的職務の遂行にあたって学問の自由を享受するもの
            とする。
     教員は、生徒に最も適した教具および方法を判断する資格を有しているの
            で、承認 された計画の範囲で、かつ、教育当局の援助を受けて、教材の
            選択および使用、教科書の選択ならびに教育方法の適用にあたって、不
            可欠の役割を与えられるものとする。
     
 (注。教科書選択権を教員から奪い、教育委員会が選定するという動きはこの条
    項に違反しています。)

 63 いかなる監視または監督の制度も、教員の専門的な職務の遂行にあたって
         教員を励まし、かつ、援助するように計画されるものとし、また、教員の自由、
          創意および責任を減じないようなものとする。

     (注。授業を「観察」して評価し、給与を上下するのはこの精神に違反していま
             す。)

   64 (1)教員の仕事についてなんらかの直接評価が必要とされる場合には、そ
                 の評価は客観的なものとし、かつ、当該教員に知らされるものとする。
    (2)教員は、不当と考える評価に対して不服を申し立てる権利を有するもの
                 とする。
  
  (注。 現在は「知らされていない」し、従って「不服を申し立てる」権利もない。)
 
 82 教員の給与および労働条件は、教員団体と教員の使用者との間の交渉の
          過程を経て決定されるものとする。
        
    (注。都の言い分では人事考課制度は「管理運営事項」であり、交渉事項とはさ
     れていません)

    \  効果的な教授および学習の条件     

   86 学級規模は、教員が児童・生徒一人ひとりに注意を払うことができるようなも
           のとする。

   (注。先進諸国では一クラス20人〜30人が普通です。僕は50人近いクラスも
     担当したことがありますが、教室中生徒で一杯で、歩いて見て回ることなど
     出来ませんでした。今は50人近いというのはなくなりましたが、多いところ
            は42名くらいいます。)

    ]  教員の給与

124 給与決定を目的とするいかなる勤務評定制度も、関係教員団体との事前協
           議およびその承認なくして採用され、または適用されないものとする。


    (注。教育庁に読ませてやりたい文言ですね。無論、教員団体は人事考課制
            度を「承認」していません。)

  


         HP(index)に戻る