葦の一言集

最近、学校現場が急速に変わりつつある。私が教員になった30年前との比較ではなく、ほんの五年前と比べてみて、そう思える。何が変わったかというと、以前の教育現場には良い意味でも悪い意味でも、「ゆったりした」ところがどこかにあった。子供の教育にはゆったりとした時間がかかる。また子供(人)は千差万別だし、その成長の時期も速度も個々に異なるものだ。こういうことは関係者がほぼ暗黙のうちに了解していた事項であり、当時の日本社会にはこういう了解を受け入れる余裕があったと思う。
 でも今はそれがだいぶ異なってきている。中曽根元首相の「臨調行革」「国労つぶし」がこの動きの起点だと僕は思っているが、「国旗国歌法案」成立以降はもういけない。なんでもかんでも行政のやりたい放題、新自由主義だか何だか知らないが、とにかくひたすら「改革ありき」で、現場の声などあってなきが如しで、もうすぐこういう動きはピークを迎えて、それからまた「揺り戻し」が始まるだろうと僕は期待している。
 学校には無駄が多い、教師は仕事をしないし常識がない、小さな学校を多く作るより大規模な学校を少数作る方が効率的、教育も「商品」であって、「商品」は「購買」する人が自らの責任において選ぶべきである、また「商品」である以上、それ相応の負担は当然である。従って、行政が教育にかける予算は可能な限り削減しても、「売れる」商品を作ることが大事、ということが行政の側の論理であろう。
 教育もサービスの一つ、ということは首肯できるが、セールス・サービスではない。「売れればよい」ということではなく、「次代の主権者としての国民を育成する」という大人の義務でもあるからだ。今の行政は、その大人(我々現在の日本の社会人)の義務であるという事実から目をそらし、個々の好みに応じた「商品」を提供すればそれで事足りると言わんばかりである。
 新教育課程による「学力低下」が懸念されている。また他方では、「奉仕活動」を義務化し、入学判定などの評価の対象とする動きがある。こういう最近の教育行政の動きを見ていると、「竹槍精神」を思い出す。アメリカの軍隊が本土の上陸してきたら、「竹槍」をもって戦え、というあれである。教育行政の最大の仕事は「教育条件の整備」のはずだが、「金のかかる」整備などは放っておいて、金のかからない「精神主義」をやたら強調している。教職を希望する学生全員に障害児学校での介護体験を義務づけた動きも同じであって、行政には金はかからないが、受け入れる側の障害児学校が多数の「介護学生」を抱えて、その「使い道」に四苦八苦している現状はまるで茶番である。
 僕は都立の高等学校に勤務しているが、最近の教育行政の悪辣さには大多数の者が辟易している。十数年前に鳴り物入りで創設した学校を廃校にし、「統廃合」のカモフラージュみたいにまた新しい学校を作る。この膨大な無駄の責任は誰にあるのか、などを問うことはせず、監査と称しては頻繁に学校に入り込み、何を監査するかと思えば、車で来る教員がいないかどうか、出勤簿に判子を押しているかどうか、無断の「抜け」がないかどうか、出張等の書類は整備されているか、我々から見ると「他にすることがないのか」と聞きたくなるようなことばかりに拘っている。頻繁な抜き打ち監査に管理職は神経をとがらし、教育の内容よりも事務上の書類にやたらうるさくなっている。教員の「雑用」は増え放題、それなのに増員するのは教頭職ばかり、来年は「主幹」と称する準管理職をなけなしの金をはたいて創設する予定。
 「出世したければ教師になるな」というのが僕の持論だが、現実的にも、本当に出世したい人は最初から行政職に入り、係長・課長・部長・局長とその人の能力と運に任せて出世すればよい。教員などは、いくら「出世」したところで「校長」止まりであり、課長待遇だといっても教育庁の中では下っ端扱いにすぎない。そう言う世界に「競争意識・出世主義」を持ち込んでも退廃するだけではないか。
 そうではありませんか、横山さん。
                                            


       






















           学校現場の変貌     (2002.8.2)




















      
 

       「ああ、ついに」 都立高へタイムカード導入(2002.9.1)

  先日の朝日新聞で「ああ、ついに」の見出しのもとに「学校職員へのタイムカードの導入」が報じられた。報道では「職員の無断欠勤や遅刻防止が目的」とあったが、職員への説明では「出勤簿整理職務の軽減」が理由である。内では職員の気に触るようなことを言わず、プレス発表では言いたい放題、これは近頃の行政の常套手段で、無責任かつ陰険極まりない。
 それはさておき、初体験の印象を書くと、何か秒単位で監視されているようで厭な気分だし、これは結局、管理強化以外の何者でもないと思う。これまで出勤簿への捺印という古風なやり方で出勤確認をしてきたせいもあるが、今までのやり方だと「秒単位」の正確さは要求されず、例えば朝の打ち合わせの時間に滑り込めば、それからがホームルームだから、管理職も、まあ、見ないふりをしてきたのは事実である。「一秒でも遅れれば遅刻だ」というのは一応の筋論だが、学校現場ではそういう些末な筋論より、教員の勤務総体を勘案してみると、勤務実態に見合った報酬制度が確立されていないことは事実であり、そういう不合理を是正する意味もあってある程度のルーズさが許されてきたというのが正しい。出勤時の一秒を大事にするなら当然、退勤時の一秒も大事にされなければならない。しかし、教員は決められた本務以外のことも立場上やらざるを得ないことが多いのは教員なら誰もが知っていることだ。生徒指導上の家庭訪問にしても時間外が多く、そういう仕事に対しての報酬はない。職員会議が長引いて退勤時間を過ぎるのは常態化しているし、土日のクラブ指導にしても一日千円少しの「手当」で働いている。学校以外の職場の実態は遙かに厳しいことも仄聞しているが、上述したようなことは使用者側も承知していることであって、従って、以前は使用者側に、教員の勤務について「ここまでやるとまずい」というような良識があった。教員に限らず、企業でもその種の良識はあったと思われるが、最近は、そういう良識はどこに行ったのかと思われるぐらい、教員を含めて、労働者の権利や人権の無視はひどいものがある。これは国労つぶし以降の日本社会全体の動きに対応していると私は思っているが、無給労働・恣意的な首切りが横行する反面、労働組合はその存在意義を失ったかのように萎縮している。学校現場で言えば、学校の統廃合はやりたい放題、本庁からのファックス一本、校長も知らない内に学校の廃校が決まったりする。学校の先生には夏休みがあってうらやましい、とよく言われたが、こういう認識は今でも大方の人が持っていると思うが、文科省の通知以降、東京ではあっという間に夏休みもなくなった。教員に夏休みがあるのはけしからん、とばかりにマスコミを嗾け、マスコミ(産経)も「ヤミ休」キャンペーンをはろうとしているが、その前段階の「教員に夏休みがあるのはけしからんことなのか」という議論は全くなされていない。公務員で勤務日なんだから、生徒がいようがいまいが、仕事があろうがなかろうが勤務しろという訳である。クラブ指導とか補習とか、今までも必要があれば教員は学校に来て勤務してきた。それで困ることはなかったし、今もないはずだ。学校五日制で生徒の学習時間が減り、夏休みに補習をやってもらわなければ困るのならそういえばいいことだが、行政はそういうことは一切言わない。夏休みの教室の温度がどれくらいになるか、行政側は承知しており、下手なことを言って「指導要領の不備」を指摘されたり、「教育の条件整備」を求められると困るからだ。自分の言っていることがいかに形式主義的言辞なのか、お役所の人も分かってはいるだろうが、そういう形式主義を通すのが今の役所では重要なことなのだ。そういう発想で教育を担当しているのだから、現場は堪ったものではない。
 こういう現場の事情や実態を無視した動きは最近とみに増えてきている。それも問答無用とばかりの力ずくが多い。都教委のこういう動きに反対する教員への昇級・異動での差別は露骨なくらいだし、「国旗」「国歌」に賛成しない者も沈黙を強いられてきている。都立高校は自由でよい、というのが大方の卒業生の評価だが、都教委はそういうことは評価しないで、某大への進学率を上げるのに躍起になっている。某大への進学率に拘るなど、時代錯誤かつ教育の退廃だというしかないが、こういう退廃は数値目標という安易な目標を設定し、それを評価するという構造から生まれてきている。「自己申告書」という埒もない作文を書いて本年度の目標を設定すれば、職員は一生懸命その目標の達成に努力するというアホな理論が幅をきかせているが、学校教育は一人一人の教員が協働することの上に成り立っており、また教育とは子供とじっくり協同して行うものだ、という大ざっぱな発想の方が学校現場にはあっているので、教員一人一人に「目標」を書かせて「成績のいいものは昇級させてやるぞ」とハッパをかけ、しかもその昇級原資は「成績の悪い者からふんだくる」という制度が「子供とじっくり向かい合う」余裕を教員から奪っていく。この程度のことも分からず、数値主義に走る行政の姿は悲しいくらいだ。(因みに私は「自己申告書」を書かない。従って成績最悪の教員の一人である。)
 こういうことを言う私も「古典的」な教員の部類に入るようで、若い人は上には逆らわない術を身につけて上手に身を処している。そういう情景も悲しいが、私の周りにいる教員のほとんどが行政への不平不満で破裂しそうになっていることも事実である。
 教員はますますやる気をなくし、管理する都教委はますます管理に走る。笑うべきかな、である。
                                                                                         (2002.9.18)




  国労の悲劇  2002.11.30

今朝の朝日新聞二面に「与党、(四党合意)破棄を確認」という記事があった。「四党合意は、国労が『JRに不採用の法的責任はない』と認めれば、組合員のJR採用や和解金水準を検討するとの内容で、00年5月にまとまった」とその記事に書かれているように、これは、国鉄解体に伴う労働争議を政治的判断で決着をつけようとする動きで、今回の記事は、国労組合員の一部が本部を通りこして訴訟を起こすなどケシカランことをやっている、おまえ達の面倒はもう見ないぞという自民党サイドの動きを伝えたものである。
 しかし、ちょっと待て、と言いたい。国鉄がJRに移行する際して不当労働行為があったことは地労委・中労委の裁決ではっきりしているし、地裁や高裁の判決も不当労働行為自体を否定したものではなく、国鉄に代わって新しく設立されたJRにその責任はない、としただけである。中労委の裁決を否定した裁判所の在りようには呆れるしかないが、その前に、地労委・中労委の裁決を無視し、「長引かせればそのうち干上がる」だろうというやくざな下心でここまで解決を引き延ばしてきたJRの姿勢こそ、正に悪徳資本家根性そのものと言わざるを得ない。国労差別が「国家による不当労働行為」であったことは明白だし、当時、「一人も路頭に迷わせない」と公言した中曽根元首相の政治的・道義的責任も明らかである。自らの責任を他者に転嫁し、おいしい汁だけ吸って後は知らん顔というのでは「政治」が泣くだろう。労働者の人権など糞食らえ、大事なのは権力と企業の利権だけという日本の憂うべき現状は国鉄解体・国労への不当労働行為から始まると僕は思っているが、国労が屈従を忍んで和議を申し出ている現在、ざまあみろとばかり、更に難癖をつけて政治責任を回避しようとするのは破廉恥としか言いようがない。権力側と労働側の力の差が圧倒的なまでに開き、また社民党(旧社会党)の極度の低落ぶりを思えば、権力にとって国労に配慮する理由などなくなったということであろうが、道義的責任を放棄した権力がその醜態ぶりを曝している様には目を覆わずにいられない。
 国が経営していた企業体で不当労働行為があった。どういう理屈があろうと、その不当労働行為を是正させるのが国の責任である。ことはかくも単純なのだが、これだけのことが何故できないのだろうか。
  無論、「できない」のではなく、「やる意志がない」のである。
  国鉄が赤字になったのは政治家の「我田引鉄」があったから、ということを否定する人は少ないだろう。敗戦直後の余剰人員の吸収から現在のJR設立まで、国鉄の動きには常に「政治」がつきまとい、ご都合主義を押しつけてきた。こういう経緯を考えると、国労の悲劇はこの国の政治の貧困から生まれたと言っても過言ではない。
 裁判所は鼻くそをほじくっており、政治には「人道」も「正義」もない、となると、いよいよこの国も終わり、という感を深くした記事であった。



 卒業式に都議会議員を招待 2003.2.14

  
都立高校の卒業式・入学式に都議会議員を「ご招待」するよう、教育庁が各校の校長に厳命を下した。都議会で議員の方から要求があった、とのことで教育庁からの動きではないそうだが、なんだかキナくさい。大体、忙しい議員がよく知りもしない学校の卒業式に参列してどうしたいのかが分からない。卒業式や入学式は「内輪」のものだし、議員にとっては選挙区の支持者関係の葬式に出るのより、もっと縁遠いだろう。狙いは無論、「日の丸・君が代」の実施状況を実見し、そうした方向への圧力を高めることと、日の丸・君が代への教員の対応を確かめ、君が代の演奏時に起立しなかった者を「処分」させることだろう。
 東京はかって日の丸・君が代の実施率は非常に低かった。それが法制化以後、強まる一方の圧力を受けて、今ではほぼ100%、日の丸は壇上に掲げられているし、君が代も流されている。教員の側からは「これ以上、何を望むのか」と聞きたいぐらいだが、今度はいよいよ個々の教員をターゲットにした虱潰しが始まるわけだ。
 地方では君が代演奏時に「起立しない」ことで「処分」がされているが、東京ではまだ処分はない。議員諸氏が各校の実際を見、文教委員会で「君が代演奏時に起立しない者がいるのはどういうことだ」とかの質問をし、教育庁のお偉方が是正を約束し、校長へ「指名報告」を指示し・・・、といった次第で事は運ばれるだろう。
 一体、日本はどうなってしまったんだろう、と思わざるを得ない。これは明らかに思想統制だろう。政府がどう強弁しようが、君が代は歌詞自体に問題があり、主権在民の国家の歌ではない。明治以降、前大戦の敗戦まで、日本は天皇が支配し、天皇に忠誠を誓う国だった。その時の歌が君が代であり、それ以降、その歌詞には一字一句の変更もない。1947年5月3日に新憲法が施行されてからは、国民は「朕の臣民」ではなく、基本的人権を保障された独立した人格である筈だ。「内心の自由は保障されるが、それが外面に出ることは許されない」と言った珍妙な答弁が国会でされたのを覚えているが、表現を許されない「内心の自由」って一体何だ?そんなものを「自由」と呼ばないのは小学生でも分かるだろう。これは、義務化されたボランティアはボランティアではない、のと同じくらいに自明のことであるが、ただ、近頃の日本ではこういう「自明」のことが自明でなくなってきている。権力側の解釈が「正しい解釈」とされ、それ以外は「異端」になり、処分の対象になる。教員は公務員だから、とよく言われるが、そういう「忠良な公務員の教員」が戦争時に教え子を死地に送ったのだ。現代の教員にそういう反省はもう必要ないのか?
 厭な時代になったものだ。でも、厭なものは厭だ、と言おう。これは理屈ではなく、そういう強制自体が僕らの中の人権意識と相容れないのだ。人権意識のない教員など百害あって一利なし。
 日本に人権なんてあったけ、という向きもあろうが、貧しき僕らの最後の砦は「人権」で、これを落とされたらもうどうしようもなくなる。そんなに「不起立」が気になるなら、その種の歌を流すのを止めれば済むことだ。そうではありませんか、皆さん。




都立学校に「貸借対照表」を義務化 2003.7.19

 
2003.7.18付けの朝日夕刊に「全都立校で”経営診断”」という見出しで上記の記事が載せられている。「授業料などの収入に比べ、教員給与や施設維持費がどれだけかかっているか」を数字で示し、公表させるというもの。普通高校で約9億円の「赤字」、生徒一人当たりの税金投入額約88万円、工業高校だとそれが約160万円になると試算されている。都民の皆さんがこういう記事でどういう感想を持たれるか分からないが、この程度のことなら都はすでにこれまでも公表してきている。石原知事が「福祉の見直し」を進めるとき、必ず出されるのが「福祉にどれだけ金がかかっているか」という数字であり、ご丁寧にそういう数字を印刷してパンフにしたものを配布してきている。要するに何かを「見直し」たり、「経費を削減」しようとするときの都の常套手段で、今度は現場にそれを自分で作れ、と言っている訳だ。現場では「こういうものを作らなければならないことになった」と言って、事務長を始め、会計の専門職でもない事務担当者が困っているが、記事ではそう言うことは載せられていない。
 言うまでもないことだが、「貸借対照表」というのは収入・支出・資産・負債を一覧表にしたもので、その企業体の財政健全度を目に見えるようにしたものだ。支出の割に収入が少なければ「収入をどう増やすか」または「支出をどう減らすか」を考えるということになるのだが、たとえば都立高校が独自で「収入」を増やす手だてを考えられるのだろうか?主な収入源である授業料は条例で定められているし、主な支出である職員の給与も条例で定められる。施設維持費・光熱費などがせいぜい学校で考えられる「改善」項目であり、要するに例年、事務サイドから「光熱費が不足しそうなのでご協力を」などと言われる項目ぐらいしかいじれないのが実情だ。そういう「事業所」が貸借対照表を作っても「赤字」を宣伝するだけで他には意味がないだろう。「教育はコストがかかるもの」と都教委も言っているそうだが、前任校ではプールの水道料金(これは馬鹿にはならない)が不足して「使用自粛」が検討されたこともある。教室には冷房などないし、法律で定められている職員の休養室も男女に分かれてもうけられている所はほとんどないだろう。要するに学校という所は「教育」の場として設計されており、「労働」の場としては見なされていないということだ。労働基準法で定められた「休憩時間」も厳守されていないし、厳守できる状況にもない。ただ書類上は「休憩時間」として或時間帯が指定されているだけで、みんながまともに「休憩」したら学校はもたない。そういう場に「収支」の概念を持ち込むのなら、「お客」である生徒の快適さや従業員である教職員の待遇が問題にされなければならないが、そういう度量も意図も都にはない。どれだけ金がかかっているかを宣伝するのが主目的であり、さらに勘ぐれば、石原氏持論の都立高校民営化への布石の一つであって、学校経営を云々しているのは口先だけであろう。
 最近しきりに予備校に倣えという声が都教委で強くなっているが、予備校でエアコンがないところなど皆無だろう。施設面は劣悪なまま、それを改善しようとすると都にお伺いを立てなければならない学校に貸借対照表の作成だけを命じる。お役所仕事の一例であるが、こんなものを命じるなら、都の豪華庁舎の維持費が年間いくらでという、都庁の貸借対照表を先に作成したほうがまだ興味が持てるだろう。一説によると年間数百億の維持費がかかっているそうですよ。




都立高校で「週案」義務化

 
今年(2003年)9月から都立高校で「週案」提出が義務化された。誰に出すかというと、教頭・校長、それに新しく制度化された「主幹」なる地位にいる教員に出すのである。何でも、性教育に絡んで、教室で教師が教えている内容を校長が把握していないのがいけない、とか都議会文教委員会で議員から指摘があり、教育長が義務化を答弁した結果だそうである。我々現場の教員から見ると「ばかばかしい」の一言だが、その馬鹿馬鹿しさがそのまま現場に持ち込まれて、この体たらくになった次第。
 高校教師にも色々な人がいるが、自分の専門教科の指導を管理職にお伺いを立てる人はまずいない。教員というのは現場仕事だが、それぞれ、一家言を持っている人が多く、自分の授業に関して管理職にどうこう言わせるような人はそもそも教員としての能力不足なのだ。僕は授業を隠すつもりはないし、見学者に対しても開放しているから、批判される部分があれば、機嫌良くはないにしても、筋が通っていれば受け入れる。しかし、「何か良くないものを教えているのではないか」「変な教材を使っているのではないか」など、事細かなチェックを受ける謂われはないし、そういうチェックは拒否する。これが現場の人間の矜持である。
 我々の授業をチェックしようと言う管理職など、はっきり言って教員としては有能でなかった人が多く、だからこそ管理職を目指したとしか思えない人もいる。そんな管理職に、という気持ちもあるが、まあそれはさておき、授業内容・教材の適否を誰が判断するべきなのだろうか。アメリカではいまだにダーウィンの進化論(これはもう時代遅れだそうだが)を教えない州もあるそうで、神聖な人間と猿を同一視するなということらしいが、内容は違っても、週案のチェックは結局授業内容のチェックに等しい。性教育での逸脱とか、もっともらしい理由を言っているが、そんなものは口実に過ぎないことはみんなが知っていることだ。
 学校現場では一年間の「授業予定」を各教科が出している。それを軸に個々の授業をどう組み立てるかは教員の裁量であって、どういうプリントを使って授業するかまでチェックされないと授業が出来ないというのでは、教員を危険視して監視することになる。ここまで教員に不信感を持っている教育委員会というのは世界でも珍しいと思われるが、要するにこれは政治的な動きなのだ。日の丸・君が代問題は強権を使って片づけた。管理職に権力を与えるポーズをして実は学校運営自体を教育庁が指図することになったのは数年前からのことだ。法体系では、教育課程は学校が作成する、などと学校の自主性が謳われているが、自主性などと言う文言は現場ではすでに死語に等しい。学校教育法では校長は校務を、教諭は児童生徒の教育を司る、と規定されているが(第28条)、教育を司るのにも校長の裁可が必要、と言うわけだ。条文を読む限り、「校長の裁可を経て」とは絶対に読めないが、近頃の教育委員会には「法」など意味なき存在らしい。何しろ、教育委員会が趣味の世界に埋没して、没論理な論理に終始しているくらいだから(卒業式で「仰げば尊し」を歌え、とか、内心の自由の尊重という国会答弁は間違いだとか、良識のかけらもない議論にはうんざりするしかない)、行政もやりたい放題、やれ、教科書を教員に選定させるな、夏休みをなくせ、土曜日も補習をしろ、本当に言いたい放題、現場の教員はもうやる気をなくしてきている。生徒が目の前にいなければ、本当にやる気をなくす人が続出するのだが、教員の性で、生徒を前にするとつい頑張ってしまうので、そういう弱みにつけ込んでいるとしか思えない。監査・自己申告書という体裁を作った差別化などの管理強化が、今度は授業という教員の本職にも及んできている訳で、こういうのをまあ形だけだからと見過ごしていると、社会科・家庭科・音楽科などで、行政が「非」とする内容は取り扱えなくなるし、逆に行政が「可」とする内容はイヤでも扱わなければならなくなる。これは教育基本法で「してはならない」とされた、教育に対する行政側の不当な支配ではないか。(教育基本法など、彼らにとっては足かせになっているに過ぎない。今、それを変えようとする動きが盛んですが、教員の側にはそれに対抗する力がほとんど残されていないのが実情です。何でもかんでも「命令」できますから、「待ち」の姿勢以外の態度がとりづらくなっているのです。)
 
ということで僕は「週案」を提出していない。何でも、「出さない人」に対しては今のところは「指導部」だが、そのうち、「人事部」がしゃしゃり出てくることになる、と勤務校の校長が言っていたが、要するに「処分」をちらつかせている訳だ。授業の内容ではなく、予めその内容を管理職に伝えない、ということでの処分になるが、まあそれも面白かろうと思っている。






都立校に「国旗掲揚及び国歌斉唱」の通達

 2003年10月23日、都立学校長に対して「国旗掲揚及び国歌斉唱の実施」が教育委員会から命令として発令された。卒業式等の実施に際し、国旗は舞台壇上正面左、国歌はピアノ伴奏、教職員は指定された場所で起立し、斉唱する、というもの(従わないものには処分がある)。教員の異動年限が6年から3年に短縮されると発表されたのは今年の7月、現場の声を聞かずに行政サイドが強権的に次々に新しい施策を出してくるのに対応できず、現場では「何を言っても無駄」という無力感が漂っている。定例の職員会議で校長が通達文を読み上げ(これも恐らく指示されたのだろう)、職員から若干の質疑があったが、「内心の自由との関係」を問われても、自らの発意ではなく命令されてやっていることだから、校長もまともな答弁が出来るわけはなく、型どおり「見解の相違」で終わった。
 今年の二月に危惧したことがすでに表に現れてきたことになるが、それにしても予想よりもペースが速い。これはこういう事に対する「抵抗力」がよほど落ちてきているので、僕らが無力感に囚われている間にどんどん事を進められてきたということだろう。それを反省する意味でも、今回の通達の何が問題なのかを整理してみよう。
 「国旗に対する起立」「国歌斉唱」自体には問題はない。これは自明のことだ。また、1999年に「国旗国歌法」が成立してからは「国旗」は「日の丸」、「国歌」は「君が代」とすることに法律として規定され、「日の丸」は「国旗」なのかどうかという従来の議論に終止符を打った。従って日本で「国旗掲揚」と言えば「日の丸」が掲揚され、「国歌斉唱」と言えば「君が代」が斉唱されることにも今は議論の余地がない。問題はそれを強制することだ。国旗国歌法をめぐっての国会答弁でも「国民に強制しない」ことは明言されていたし、卒業式等で生徒に強制するものではない、ことも確認されている。今回の通達も「生徒への強制」ではなく、起立・斉唱を教員の服務として位置づけ、従わない場合は服務違反として処罰するものになっている。従来、日の丸・君が代問題はすぐれて思想問題であったが、法制定後はこれは思想問題ではなく、公務員に対しては一律に強制しうる、従って憲法第十九条「思想及び良心の自由」には抵触しないと言っていることになる。でも本当にそうだろうか、と言うのが第一の問題点である。
  アメリカの大リーグで試合前に国歌がソロで歌われるのをテレビで見た。"ladies and gentlemen, our national anthem"というのが場内放送で流され、観客のほとんどが立ち上がり帽子をとり、右手を胸に当てる。なかなか格好よいものだと僕も思う。あれは歌が国民一般の支持を得ていることの現れだし、またアメリカでは星条旗を焼いて権力に抗議するという行為も「まわりに危害を与えない」という限り表現の自由の枠内に入るとされている。翻って日本では、確かに法は制定されたが、「君が代」を「我々の国歌」として受け入れている人が大多数とは言い難く、逆に「天皇制賛美の歌」「戦前の日本の歌」として拒否する人が少なからずいる。憲法第一条に「国民主権」が明記されているのに、何故、天皇が神であり国民が僕であった時代の「天皇賛美」の歌を歌わなければならないのか、ということだ。「日の丸」にしても程度の違いはあるにせよ、ほぼ同じ事が言えるので、「法」が制定されたからこれらは思想信条の問題ではなくなったと言えるものではない。「法」ができても、「侵略してきた軍隊の旗」は「侵略軍の旗」であることに変りがないのは当然のことだ。
 従って、「国旗に対する起立」「国歌斉唱」を、憲法第十九条の規定にもかかわらず、教職員に服務として命令できるかということになる。「指導要領」の「第4章 特別活動」の項目に

  入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。

という規定は確かにあるが、「指導要領」が「大綱的基準」であることは最高裁判決で指摘されているし、「指導要領」のすべてをそのまま実施できないと「処分」だとしたら、ほとんどの教員が処分の対象になるだろう。だから、「指導要領」に書かれていること即「命令」の合理的理由にはならないと考える方が自然だ。僕は西武球場で君が代演奏があっても起立しなかったし(周りが立つので相当なプレッシャーだ)、卓球の大会でも起立しない。反対勢力が新しい「国旗」「国歌」の提案をネグってきたツケが回ってきたとも言えるのだが、とりあえず、「命令」に関する法的問題はこういうことだ。

 第二の問題は「壇上正面」に向かって生徒が着席するという規定があることだ。卒業式を例にとると、これまでは壇上に上がって校長から卒業証書を受け取る学校もあれば、フロア形式と言って壇上がなく、平面で行う学校も、対面式と言って卒業生と在校生・保護者がフロアで向き合って座って行うところもあった。今回の通達はフロア形式や対面形式をはっきりと否定し、生徒は壇上正面、つまり国旗と都旗(本当は国旗だけにしたかったのだろうと僕は思っているが)に正対していなければならないとされている。壇にあがる校長・教育委員会関係者等は日の丸に最敬礼するのが通常だから、生徒たちは否が応でも「国旗=国家は校長や教育委員会の人よりも偉い」という思いを抱く。かって昭和天皇が死んだとき、テレビを含めてマスコミ総動員で特集を組んだ。あれだけの特集はさすがの生徒にもショックだったようで、教室で「天皇は」という発言をしたら、生徒が「(天皇陛下ではなく)天皇なんて言って良いの?」とビビったとある同僚が話していたが、今回の通達にはこういう思いを浸透させる狙いもある。「国民主権」なんてちゃちなことを言っているのではなく、「国家に従え」という訳だ。卒業式での主役は卒業する生徒ではない。また、障害があろうがなかろうが、在日が多かろうが少なかろうが、壇上に掲揚される旗が象徴する国家なるものが厳かに鎮座しているという意識を植え付ければ卒業式は「厳粛に執り行われた」ということになる。「生徒の自主性や主体性」などという言葉はここでは糞の役にも立たないということだ。

 ・学校は特色を持ち、自主的に運営されなければならない。但し、自主的の内容は教育委員会が定  める。
 ・ボランティア活動は強制的にでも行わさせなければならない。
 ・一人一人の生徒を大事にしなければならない。但し、学校は大規模校でなければならない。

 上述した項目を読んでおかしいと思わない人がいるだろうか。建て前と本音の分離は日本人の特徴とされているが、それにしても近頃の教育行政は発想自体に狂的な部分がある。「ゆとり教育」を掲げながら「管理主義」に狂奔することなど序の口で、学力による競争を否定しながら「競争主義」に走っている。分かっていても誰も指摘しなくなっている現状が一番問題なので、無気力と官僚主義で教育が良くなるわけがない。今度の卒業式でどれくらいの処分者が出るか分からないが、処分も「戒告」「停職」「免職」と回を追うごとに重くなるだろうから、処分者数は通達後初回の式がピークでそれ以降は激減するだろう。教育庁はそれを称して「定着した」とのたまうだろうと思うと気が滅入ってくる。でも、「頑張って」「明るく」処分されようではありませんか。








職務命令

2004年2月12日の職員会議で校長が職員に対し、「卒業式での職務」について式次第・役割分担・当日の座席指定図等を配布し、
 ・割り当てられた職務を遂行すること
 ・当日は「国歌」斉唱にあたり起立すること
 ・正面の「国旗」に正対して起立すること
を職務命令として発した。前回の職員会議で担当する分掌が出した案を「校長の方針にそぐわない」として否定し、今回、管理職の方から「決定」として出されてきたものである。校長が「決定」として出してくる要綱には、問題があっても一切口を挟まないことを予め申し合わせてあったので、誰も意見を言うものはなかった。何か「改善意見」をいうことがすでに校長に荷担することになるので、命令でやりたければ一切自分で考えてやれ、ということだ。職務命令を出して実施される卒業式は当然僕には初めての経験だが、これはすべて「国旗・国歌」の問題から来る。何が何でも日の丸を正面に掲げ、君が代を歌わせないと「教育は正常化しない」ということらしいが、education(教育)の原義はもともとは「引き出す」ことであって、「押しつける」ことではない。確かに近頃の若者を見ると、少しは行儀作法を「押しつけ」たくなるが、それはあくまでも行儀作法であって、思想信条ではない。平和と民主主義と人権、現代の日本人が拠るべきものはこの三つであって、今回の「国旗・国歌」への服従(尊重と言うより服従だろう)を強制するやり方はこのどれにも当てはまらない。平場で行われる「フロア方式」「対面方式」を否定するのも、「フロア方式」「対面方式」自体に難があるというのではなく、壇上に日の丸が掲げられているのにそれに正対しないとは何事か、という発想からであって、ここには卒業する生徒への配慮も、卒業する生徒と送り出す教員との心の共感を作り出そうとする思いもない。ここにあるのは、おまえ達の教育はお上が工面してやったのだ、お上(国)をありがたいと思え、という露骨で思い上がった傲慢さだけであって、教育委員会から派遣された主事が言葉だけは丁重に祝辞を述べるだろうが、空疎と言うより、欺瞞的にしか聞こえないだろう。日本の民主主義など、この程度のものでしかなかったのかという思いもするが、いやいや、勝負はこれからだという思いもある。
 「起立しなければ処分」はすでに既定のこととされているので、3月の卒業式で数十名を越える処分者が出るのは間違いない。僕は生活指導部に属しているので警備に回され、式場内にいることはないから起立も不起立もない。式場内に僕の席は用意されていないからで、中にはそれを喜ぶ人もいるにはいるが、逆に僕はとても気が重い。処分される人に悪い、という気がするからで、これを校長の「配慮」とするなら、僕にはこんな配慮はいらない。とりあえずは、順番に処分されればよい、という考え方で、無理に場内に入って処分を求めるつもりはないが、憂鬱な気分でいることは確かである。


都立高を去る

 2007年三月末で退職する。昨年四月、担任の生徒の卒業を一年後に控えて異動させられた。その時に半ば決めていたことだが、異動先の学校は三部制、職員会議もなく、クラブ活動もままならない。初年度だから生徒達はある期待をもって入学してきており、そういう期待を裏切るわけにもいかないから、みんな相応の努力をして形にならない学校に何とか形をつける努力をしているが、所詮無理なものは無理なのだ。朝・昼・夜と生徒は三回転、職員は前半組と後半組のシフト制である。部と部の間に一時間ばかりの空白時間があるが(食事タイムだと思えばよい)、その時間に何かをするには短すぎるし、放課後は夜9時過ぎから40分程度。部を越えての活動は時間的・物理的に困難で、夜間定時制を潰してその代わりの収容所として官僚が案出した学校だ。

 定時制だからクラス定数は30名で授業が45分、他の部の時間に選択科目が多数設けられているから、まじめに選択科目を受講すれば定時制であっても三年間で卒業できる。これだけが売りの学校で、高校生活のイメージを持っていない生徒は「楽そうだ」ということで入学してくる。             高校生生活は勉強・クラブ(委員会)・友人、この三つが軸になって一生に一度しかない高校生活の思い出ができるのだが、三部制の学校では、三年間で卒業したい生徒は他の活動などやっていられないし、時間・場所ともに制度として保証されていない。

 入ってきた生徒には気の毒だが、こういう学校は「勉強」を軸にして学校生活を送りたい人のためのもので、夜間定時制がなくなり、その代わりの学校として考えた人には面白くも楽しくもない学校である。勉強は嫌いだがクラブはやりたい、勉強は苦手だが、もう一度基礎から勉強してみたい、そんな生徒が多いのだが、余程意志強固でない限り、嫌いなものばかり食べさせられたら厭になる。学年制ではないから「あがれない」ということはなく、単位が取れなくてもダラダラと籍を置いておくことはできるが、そうすることがその生徒にとって良いことだとは僕には思えない。何人かの生徒には卒業できる見込みのある夜間定時制に行けと言ったが、一度入った学校にはそれなりの人つきあいができているらしく、すんなり変わろうとする生徒は少ない。

 生徒が気の毒、職員も気の毒、こんな学校を都はいくつも作ろうとしている。現場のため息を聞こうともしない行政の員数あわせにつき合わされるのはもうまっぴらだ。嘱託として学校に勤める気もないから、退職後は畑でもいじって気持ちだけはのんびり過ごしたい。十年くらい前にはこういう形で職場を去ることになろうとは思っても見なかったが、これも「時代」なのかもしれない。                 さらば都立高。未練もなく去れるのだけが幸せだ。






田舎暮らし


   仕事を辞めて8月から田舎暮らしを始めた。田舎といっても高速を使えば都会には出やすい所だから、ちゃちな別荘のようなものだ。無職・徒食の生活で、ついこの間まで毎日電車に乗って仕事に通っていた事を思うと自分でも信じられないような気がする。都教委に不満を言うこともなくなったし、誰に気を遣う必要もなくなった。庭に20坪くらいの小さな畑を作り、ホウレンソウ・小松菜などを栽培しているが、気温が低く、また木立の中なので日差しにも乏しく、期待したほどの収穫はないが、自然の中でのんびり暮らすことが目的だったから、特に不満はない。先住者の何人かが親切に声を掛けてくれ、畑のこと、山のこと、キノコのことなどを教えてくれる。皆さん、僕より20歳近く年上だが、生命力に溢れ、充実した日々を送られているように見える。都会では年寄りにできることが少ないが、田舎だとこれまでの経験を生かした暮らしぶりが可能で、勤め人ではないから自分らしく時を過ごすことができているのだと思う。その点、僕は初心者・入門したばかりの若造だから、つき合ってもらえるだけ幸せだと思っている。                                                              こういう生活の難点はやはり生活費のことだろう。僕はまだ年金暮らしではないので、収入がなく、支出ばかり、できる限りお金を使わない生活を心がけているが、それにも当然限度がある。光熱費・諸税など、食費以外の必要経費を削ることはできないので、手持ちの資金が段々乏しくなってくる。退職金はこの田舎屋を手に入れるのにつぎ込んでしまったし、残金を株で運用しているが損失の方が多い。食い詰めることはないだろうと自分では思っているが、子猫二匹との田舎暮らしもそんなに気楽なものではないことを実感し始めている。でも、マンション暮らしのまま、退職金をファンドか何かに投資し、それを当てにした生活をしても面白くも何ともないというのがこういう生活を選んだ理由だから、自業自得、自分の土地で好きなことをやれるだけでラッキーだと思わなければいけないのだろう。       僕も後何年生きられるか、自分には分からない。人間が経験するのは人の死だけで、自分の死だけはその時にならないと自分のものとして受け止められないものだ。そういう事態はできるだけ後回しにしてもらいたいと思っているが、100年も生きられるわけがないから、これもそんない遠いことではなかろう。そう思えば今の貧乏暮らしもそんなに気にならない。現代は金力がものを言う時代だから僕の発言力は無に等しいが、世間のことにも余り興味がなくなった。自分のことで言えば、清貧ではなく、濁貧でもいいから、気持ちだけはのんびり暮らしたいと思っているこのごろである。