「白鯨」
ハーマン・メルビル作
阿部知二訳 岩波文庫刊 19世紀中頃、アルビノの大マッコウクジラ・モビーディックへの復讐に全てをかける捕鯨船ピークォド号船長エイハブの執念と運命、あるいはエイハブの男としての死にざま。紹介の必要がないほどの重厚長大な大作。クジラに関心を持つ者ならば一度は読むべし。
人々にとってクジラが未知の怪物であった19世紀にあり、本書は読者がクジラについて理解を深めるための頁、さらにクジラにまつわるさまざまな考察とクジラ賛美に非常に多くの頁を割いておりこれだけでもたいへん興味深い。敬虔なクエーカー教徒であった作者メルビルが、鯨類が哺乳類であることを示す数々の証拠を熟知しながら聖書の記述を根拠に鯨類=魚類と言う立場に固執しているのはやむを得ないが、マッコウクジラ、セミクジラの生態や解剖学的描写は現代の目で見ても驚くほど正確である。ただし、当時主に捕鯨の対象となっていたこの2種以外の鯨類についての知見は、全くといっていいほど無かったことは作中でも正直に述べられている通り。その中で、わずかではあるが「鯱」について言及したくだりがある。もちろん英語の原典を読んではいないので何とも言えないが、これが少々とんちんかんな記述で、本当にオルカを指しているのかどうかもたいへん疑問。この時代、バンクーバー島周辺などで白人がオルカを間近に見る機会はすでにあったはずだが、地球規模で情報を共有する仕組みがまだ無かった時代のこと、メルビルの元に世界中のクジラ情報が集まってきたわけではない。
なお、私個人は講談のような翻訳の新潮文庫版よりも、岩波文庫版の方がより現代語的で読みやすいと思う。
余談であるが、シアトルに本拠を持ち日本でも人気のエスプレッソチェーンの名前「スターバックス」は、「白鯨」に登場する冷静な一等航海士スターバックにちなんだものだという。
「スタータイド・ライジング」
デイヴィット・ブリン作
酒井昭伸訳 ハヤカワ文庫刊
遠い未来。地球文明圏所属の調査船が、彼等が偶然発見してしまった全ての銀河文明の「始祖」の痕跡をめぐり、銀河列強種族間の衝突に巻き込まれる。
乗組員は少数の人類と、遺伝子組み替えにより「知性化」されたチンパンジー、そしてバンドウイルカ、シワハイルカ、ゴンドウなどイルカ族。船には、大多数であるイルカ族が行動しやすいように海水が満たされている。イルカは手がないので、神経に直結したコネクタ経由で宇宙船やロボットを操作する。「知性化」とは「人間化」に他ならないから、鯨種間では反目や差別や陰謀も芽生え、古来イルカがもっている世界観と、人工的に与えられた人間的思考様式との両立に苦心している。
オルカの役回りは、あまり名誉あるものではなく、強大な異星人たちからの逃亡という極限状況の中、試験的にオルカをベースに生まれた乗組員が捕食者としての本能に目覚め反乱を企てる、というもの。バンドウイルカの艦長を暗殺しようとしたり仲間に向けてレーザライフルを乱射したりと手が付けられない。
人類=いろいろ過ちを起こすかもしれないが結局正義、という大前提や、異星人やイルカ族の性格付けのステロタイプぶりがいかにもアメリカ的で、そこが少々鼻に付く。が、次々に提示される謎と危機を、チームワークと発想の転換で解決するプロセスも、これまた「スタートレック」「アポロ13」のように良い意味でアメリカ的。音響イメージで作られた芸術作品や「俳句」など、イルカの文化も面白い。個性的な銀河列強種族たち(「今度生えてくる頭はあなた様のお役に立てますように」といって自分の頭部を切り取ってしまう昆虫型の種族には大笑い。)、数億年にわたる物語のスケール、これでもかと言うほど登場する超メカと、時空をねじ曲げる激烈な戦闘など、SFの王道をゆく想像力と冒険に満ちた作品である。
航空宇宙軍史
「星の墓標」
谷 甲州作
ハヤカワ文庫刊
21世紀末、人類の太陽系全域への植民が急速に進められた時代、木星、土星の衛星上に建設された都市国家群が自治を勝ち取るため連合し、膨大な資源と強大な軍事力を持つ地球=月に反旗をひるがえした。
両陣営の兵器開発競争は熾烈をきわめ、人間の脳を取り出して兵器開発に利用するほどになっていた。
一方、人間のために魚群を誘導する海の牧羊犬として育てられていたこともあるオルカのジョーイは、今は野生に戻り最強のトランジェントの群れを率いている。だが、人間はジョーイのずばぬけた能力を利用するために彼を再び捕獲し、人間と心を通わせることができる脳だけを無人戦闘艦に組み込み、地球を遠く離れた戦場へと送り込んでしまう。彼はエコロケーションの代りにレーダ探査を行い、赤外線センサで敵を視認し、群れのかわりに多数の無人戦闘機を指揮して敵に立ち向かうが、彼を待ち受けているのは非情な現実と、血塗られた人類の歴史に翻弄される過酷な運命だった。
本作品は大河シリーズである「航空宇宙軍史」の一編である。このシリーズは、緻密でリアルなテクノロジー描写のため理系ハードSFと言われるが、決していわゆるメカフェチではない。歴史と戦争とテクノロジーの進歩とは密接に関連している。あるメカやシステムが成立するには、それを操作する最前線の人間だけではなく、設計者、製造にかかわった作業者、運用方法を立案した者など、非常に多くの人間が関わっている。どのような先端技術も、多岐にわたる周辺技術と、それを可能にする生産力が無くては成立しない。このシリーズでは、そうしたバックグラウンドがきちんと描かれている。「航空宇宙軍史」に触れた後は、何の歴史的背景も無くずばぬけた超兵器が突然登場するようなSFが荒唐無稽に思えてくる。
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