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レジデントとトランジェントとを分けるもの
少数が広大な海域に分散しているトランジェント、特定の海域に比較的まとまった数が密集しているレジデント、両者の違いを生じさせているものは何でしょうか。
生態系における食物連鎖を考えるとき、連鎖の各層を生息数ではなく重量に置き換えるというモデルがあります。このとき、食物連鎖を一階層上がるごとに、生存できる生物の「全重量」は1/10になる、とされます(「上層の生物が下層の生物を食べる量」ではないことに注意してください)。これは、きわめて単純ながら非常に多くの場合で成り立つ一般的なモデルと言われます。
さて、ここで、中形魚(サケ)を獲物にしているオルカが頂点に立つ食物連鎖の重量構成を考えてみると以下のようになります。
プランクトン100,000t <- 小型魚10,000t <- サケ1,000t<-オルカ100t
この場合、100tのオルカ(約30頭)が生存できることがわかります。
では、イルカやアザラシを補食するオルカではどうでしょうか
プランクトン100,000t <-小型魚10,000t <- 中型魚1,000t
<-イルカやアザラシ100t<-オルカ10t
つまり、哺乳類を捕食する場合、わずか3頭あまりしか生存できません。
これだけを見ると、ベース(プランクトン)の量が同じならば、哺乳類を捕食するよりも魚を捕食した方が、より多くのオルカが生存できるように見えます。ならば、すべてのオルカが魚を食べるようになれば、オルカが繁栄するのでは、と思われるかもしれませんが、現実にはそのようになっていません。
イルカやアザラシは一頭あたりの質量が大きいため、一頭を捕らえるだけでも、オルカが必要とするエネルギーの多くを得ることができます。しかし、魚はイルカやアザラシに比べるとはるかに小さく、オルカが一日に必要なエネルギーを得るためには、大量の魚を効率良く捕らえなければなりません。魚一尾一尾を捕らえる度に広大な海域を泳ぎ回らなくてはならないのでは、エネルギー収支は赤字になってしまいます。そこで、魚を主食とするオルカは、獲物が密集している比較的狭い領域から離れることがない。必要ならば、ノルウェーで見られるように仲間同士で協力するなど新たな方法を開発し、獲物を得る効率をさらに高める。これがレジデントです。
しかし、単位面積あたりの獲物の量が多い海、つまり豊かな海(生産力が高い海)は、世界でも高緯度海域の一部に限られ、食物連鎖の頂点に君臨できるオルカの数も、おのずと、その海域の生産力に規定されてしまいます。これが、レジデントが特定の海域だけに見られる理由です。レジデントの生活は、たとえばカナダ太平洋岸やノルウェー沿岸などのようなごく限られた海域で、限られた数のオルカでしか成立しないのです。
また、レジデント=魚を補食するオルカ、とは言い切れません。狭い領域に十分な密度で、安定して獲物が生息しているならば、海洋哺乳類を獲物にしながら、狭い海域で生活するオルカも成立します。実際に、パタゴニアのオルカやインド洋クロゼ諸島のレジデントは海洋哺乳類を捕食しています(魚も食べているようです)。
では、トランジェントはどうでしょうか。上記の例で言うと、100t分のアザラシやイルカ(約500頭)は1000t分の魚が生息する範囲に分布していることになります。これは、レジデントが生息できるような生産性が飛び抜けて高い海域を除けば、かなり広い領域であるはずです。したがって、それを追うオルカは、小規模な群れ(3頭)で、広大な海域を行動している、ということになります。これはトランジェントについて知られている事実と一致します。
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(*)たとえば、不完全なデータと産業界に有利な推測から、特定のクジラが増え過ぎて漁業に害をおよぼしている、あるいは、特定のクジラが増えすぎて絶滅に瀕したクジラの領域を侵している、と決めつけることは短絡的であり危険です。
(**)「クジラ牧場」が実現しないもう一つの理由は、鯨類は子孫を設ける周期が長く、成長に長い時間がかかることです。つまり、鯨類は産業を目的とした家畜とするにはエネルギー効率、再生産の効率共に悪すぎる、ということです。 |
ここで注意しなければならないのは、この例では、たまたまレジデントとトランジェントとの違いをうまく説明できますが、実際の海の生態系は、こうした単純で理解しやすいモデルから、想像を絶するモデルまでが複雑に絡み合ったものであること、そして、私たち人類はそのごく一部を知っているに過ぎないことです(*)。
しかしながら、このようなモデルは生態系に対する人間のふるまいを考える上でも役に立ちます。イルカ、クジラ、マグロ、大型サメなど、食物連鎖の上位に位置する生物ほど、その生存には巨大な基盤を必要とし、産業を目的とするような、成長を前提としたまとまった量の搾取にきわめて弱いことは容易に想像できるでしょう。また、かつて食料供給源としてSFの世界で夢見られた「クジラ牧場」が今もって実現していない理由も類推できます。クジラ一頭を養うには想像を絶する広大な海域、あるいはその海域の生産力に匹敵するエネルギーを投入しなくてはなりません。産業として数百頭ものクジラを人間の都合の良いまとまった海域に「放牧」することは、莫大なコストと膨大なエネルギーを浪費するばかりか、海の生態系を大きくねじ曲げることになるでしょう(**)。
レジデントが先か、トランジェントが先か
現在レジデントが生息している海域に共通することの一つは、カナダ太平洋岸、あるいはノルウェー沿岸についていえば、氷河の侵食により出来た地形であることです。オルカが地球上に現れたのは氷河期が去る以前であることがわかっていますから、少なくとも両海域のレジデントは、氷河期が去って以後、広大な海域を行動するトランジェントが特殊化していったものと考える方が合理的です。カナダ太平洋岸のオルカを対象とした遺伝学的な調査によると、現在トランジェントとレジデントと間には明らかに遺伝的な差異があり、これはトランジェントからレジデントが分化して以後、両者の交配がほとんど起きていないことを示しています。また、現在のフィールドにおける観察でも、レジデント、トランジェントがお互いを避ける傾向が確認されています。 |