週刊墨教組 No.1512    2007.1.1

茨木のり子の詩を読みかえす

 茨木のり子が地上から去った。
 あとには、個人の尊厳がひかりかがやく詩が残された。
 いまひとたび、彼女の詩は読みかえされなければならない。

 詩集『倚りかからず』のなかに、つぎの詩がある。


   鄙ぶりの唄

それぞれの土から
陽炎のように
ふっと匂い立った旋律がある
愛されてひとびとに
永くうたいつがれてきた民謡がある
なぜ国歌など
ものものしくうたう必要がありま  しょう
おおかたは侵略の血でよごれ
腹黒の過去を隠しもちながら
口を拭って起立して
直立不動で歌わなければならないか
聞かなければならないか
   私は立たない 坐っています

演奏なくてはさみしい時は
民謡こそがふさわしい
さくらさくら
草競馬
アビニョンの橋で
ヴォルガの舟唄
アリラン峠
ブンガワンソロ
それぞれの山や河が薫りたち
野に風は渡ってゆくでしょう
それならいっしょにハモります

  ちょいと出ました三角野郎が
八木節もいいな
やけのやんぱち 鄙ぶりの唄
われらのリズムにぴったしで


 初出は、「櫂 号」(一九九四年十月)である。
 「櫂」は、川崎洋が茨木とはじめた同人詩誌で、大岡信や谷川俊太郎らが参加していた。
 この詩集は、書き下ろしの十二篇と、「櫂」に掲載された旧作三篇とで編まれている。
 詩集『倚りかからず』は、一九九九年十月に発行された。八月には、国旗国歌法が成立していた。
 「鄙ぶりの唄」を詩集に採ることで、詩人の社会的責任を自覚していた茨木は、つつましくもくきやかに時代への抵抗を示したのだった。

   *

 『詩ってなんだろう』という「詩の見取り図を書」いた本が、二〇〇一年十月に出版されている。
 「たんか」という項には、つぎの三首を「選び、配列し」ている。


あきののに さきたるはなを 
ゆびおりて かきかぞうれば 
ななくさのはな    山上憶良

わがきみは ちよにやちよに 
さざれいしの いわおとなりて 
こけのむすまで

かすみたつ ながきはるひを 
こどもらと てまりつきつつ 
このひくらしつ      良寛


 そして、つぎのような考え方を述べている。


たんかは、はいくよりながい。五、七、五、七、七のおとのくみあわせ。
こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい。
たんかも、はいくもにほんにむかしからある、詩のかたち。


 言葉と詩史についての無知・無恥と権力になびくずるがしこい居直り。
 著者は、谷川俊太郎である。


  *

 中田英寿は、自由な風にふかれて旅をつづけている。
 かつて中田は、「君が代はダサい」といって、世間から、したたかにたたかれたことがあった。
 それ以後の中田は、無表情に「君が代」を口パクでやりすごすようになった。中田の深い屈辱は、映像からも読みとれた。
 「君が代」をめぐる情況は、すでにファシズムそのものだったのである。
 二〇〇二年十月、その中田を、書き下ろしの詩で、毅然として讃えたのは、茨木のり子だった。



  球を蹴る人
    ーN・Hにー

二〇〇二年 ワールドカップのあと
二十五歳の青年はインタビューに答え て言った
「この頃のサッカーは商業主義になりすぎてしまった
 こどもの頃のように無心にサッカーをしてみたい」
的を射た言葉は
シュートを決められた一瞬のように
こちらのゴールネットを大きく揺らした

こどもの頃のサッカーと言われて
不意に甲斐の国 韮崎高校の校庭が
ふわりと目に浮かぶ
自分の言葉を持っている人はいい
まっすぐに物言う若者が居るのはいい
それはすでに
彼が二十一歳の時にも放たれていた

「君が代はダサいから歌わない
試合の前に歌うと戦意が削れる」
〈ダサい〉がこれほどきっかりと嵌った 例を他に知らない
やたら国歌の流れるワールドカップで
私もずいぶん耳を澄ましたけれど
どの国も似たりよったりで
まっことダサかったねえ
日々に強くなりまさる
世界の民族主義の過剰
彼はそれをも衝いていた

球を蹴る人は
静かに 的確に
言葉を蹴る人でもあった





すみだ春秋 36
  
種村季弘の両国
        栗又菓子店

 種村季弘は世にときめくのをよしとしない文人であった。
 種村は、『江戸東京《奇想》徘徊記』の「あとがき」で、つぎのように記している。

「東京徘徊にもいろいろある。最新情報満載の東京案内もそれはそれでおもしろかろうが、アスファルトを一枚めくると隠れていた地層が次々に姿を現して、な んでもない町が過去に幾重にも重層したふしぎな土地に見えてくることがある。探せばまだ、ポストモダン臭一色になった東京にも江戸や明治の名残が汚れた残 雪のように顔をのぞかせているのである。」

「いたずらに馬齢をけみした徘徊老人の特権は、東京という空間の旅が幼少年時の過去にさかのぼる時間の旅でもある」

 さて、種村は、両国橋を渡り、両国を徘徊して、「本所両国子供の世界」という文章をしたためるのだが、つぎの一節がある。

「・・・・神話世界では、巨人も図体の大きい小人の一種と考えられていたのだ。
 そう思うと両国界隈に子供の精霊のようなものがうようよしていて、そこをお相撲さんが自転車で走っている風景に納得がゆく。裏通りにまわり込むと四十七士討ち入りで名高い吉良上野介邸跡が小公園になってひっそり。
 そういえば勝海舟の生家跡の碑のある両国公園のあたりに一軒、昔ながらの駄菓子屋があったな。記憶をたどって行ってみると、果たせるかな駄菓子屋は健在で、真向かいの公園にはどこから出てきたのだろうとびっくりするくらい大勢の子供が遊んでいる。」

 この栗又菓子店こそ、知る人ぞ知る駄菓子屋の名店なのである。栗又さんのふくよかにしなう心根にふれれば、郷愁を覚え、だれもが忘れられなくなる。
 栗又菓子店の存在を書きとめたことだけでも、やはり、種村季弘はただものではない。



 新刊の廿楽順治詩集『すみだがわ』の「あとがき」に、つぎのような箇所がある。

 「詩集のタイトルについては、私の高校の大先輩・辻征夫に『隅田川まで』という名詩集があるので、いくぶん気が引けたが、やはり『すみだがわ』とした。 じっさい、これらの詩を書くにあたって、自分が生まれ育ってきた「すみだがわ」につらなる地域の記憶から、多くのことばをもらってきたのだから仕方がな い。」

 辻征夫は、都立墨田川高校を卒業している。廿楽の詩集には、「金美館のほうへ」という詩があるが、明らかに辻の「向島金美館」(『かぜのひきかた』所収)をふまえている。

日曜日の 満員の金美館
ドアからはみだして
背伸びしているおとなのせなか
が見えたはず
(あとからきたひとにはね)
でもぼくたち町内の少年は
行列してたおかげでちゃんと
椅子にならんで掛けていて
このまま小便もがまんして
おしまいまで見なくちゃならない
だって いちど出たら ニドトフタタビ
はいってこれないくらい満員だからね
それはとある宿場の旅籠屋の まよなかの
あんどんの灯を見るよりあきらかなことだからね
ほら子供にもよくわかる色っぽさの
花柳小菊

思っているとき
思わぬ方角から
男の声がきこえました
無愛想なこの映画館の従業員または経営者です
《向島須崎町のつじゆきおさん
《向島須崎町のつじゆきおさん
《おうちのひとがきてますから
《至急入口まできてくださいー
なにかたいへんなことが
あったのかもしれないと
胸騒ぎして
六年生の長男は外に出ました
すると家に寄宿していた遠縁の
おばあちゃんが立っていました
《おなかすいたらおたべー
パンと
牛乳もって

 この詩の背景は、自筆年譜をひもとくことによって、察することができる。

一九五三年(昭和二八年) 一三歳
母、国立中野療養所に入院。家事は、伊勢湾台風で海沿いの家を失った母方の祖父の弟夫婦が見ることになり、同居。毎朝読経の声で目覚めることになる。父か らは、妹、弟の面倒を見きれない時は連れて行くようにと、向島金美館、墨田文映など、近くの映画館の切符を毎月もらうようになる。

 現在は消滅してしまったが、あの頃は、どの町にも、小便くさい映画館があった。人々がくらす生計のぬくみがあった。
 その記憶を、辻は、つつみこむようなゆるやかさと、なんとなくはにかんだおかしみをたたえて、くっきりと詩の中にかたどったのだった。
 そして、冒頭の種村季弘の言葉に呼応するような、決して酔わない激情の詩句。(「亀戸」)

この町の変貌も激しいが
嘆くことはない
消滅するひとつの路地は
ひとの内面に場所を移すだけだ
あまたの記憶とさびしさを
風に鳴る絵馬のようにぶらさげて

(長谷川政國)


週刊墨教組 No.1462    2005.1.11

すみだ春秋35
ちいさな無垢

 鮎川信夫の詩に、八連七二行の「競馬場にて」がある。
 第四連七行と、第七連の終わり五行は、次のような詩句である。


一枚の馬券を買うために
みんなどうしてこんなに自由にふるまうのか
迷信も愉快だし、科学的検討もまんざらではない
血統を信ずるのもいいし、人気に支配されるのも結構だ
独断批評家の口ぶりも悪くはないし、皮肉な記者のポーズも捨てがたい
どうふるまったところで
三十六とおりの結論があるだけなのに

どうしてこんなに明白なことがわからなかったのか
スクリーンを眺めて
何百万人の人々が、もう一度溜息をつくのだ
ダービ―・レースのように
われわれの生存競争もすべてフェア・プレーだったらいいのにと

       *

 浅草・神谷バー―追悼・辻征夫
           中上 哲夫
どんな国際ニューズよりも
天気予報が気がかりだった
鮎川信夫「競馬場にて」

三十歳で定職がないというのは
すこし悲しかった
朝ごとに
窓の外の天気を見つめて
馬場状態を想像した
そうして浅草に出かけていくのだが
雷門の前のがらんとした神谷バー
の窓辺の椅子には吟遊詩人がぼんやりすわっていて
その日のレースの予想をはじめるのだった
ビールの泡をのみながら。
もうもうと埃舞う場外馬券売り場まで
二匹のぼうふらのようにふらふらと
そして
窓口の前ではいつもパスカルのように苦悩した
ビール代と電車賃と配当金の黄金分割がむつかしいのだ
そうしてふたたび神谷バーの窓際の席でホップ酒をのみつづけるのだが
おどろおどろしい名前の褐色の飲料が
食道を流れくだることはめったになかった
感電するといけないから。
ひと気のない午後の酒場の泡立ち飲料は
実をいうと
苦艾のように苦かったのだ
(いまごろみんな額に汗してはたらいているんだろうなあ!)
若いんだからはたらかないとだめよ
そうしてみんな一人前になるんだから
酒場のおねえさんからやさしくいわれてみても
半人前の人間は口をつぐむしかなかった
鶫のように。
予想はいつもてんで当たらなかったし
ぼくらの未来はレースのようには読めなかった

 『エルヴィスが死んだ日の夜』(二〇〇三年)所収。

 「吟遊詩人」とは、辻征夫のことである。
 辻征夫は、向島という水土/人情、そして言問学校が手塩にかけてはぐくんだ、不世出の抒情詩人である。
 辻は、一九三九年、浅草で生まれ向島で育った。二〇〇〇年一月十四日、脊髄小脳変性症に起因する病により急逝したのだった。

 この詩のあとさきは、辻の自筆年譜に簡潔に書きとどめられている。

一九六九年(昭和四四年)二九歳
八月末日、半月前に三〇歳になったのを契機に、詩の書き手の側に身を置くことを決意、思潮社を退社。二十代後半の詩をまとめる作業に入る。
一九七〇年(昭和四五年)三〇歳
夏頃、詩集の校正のために思潮社へ行き、編集部でアルバイト中の中上哲夫と知り合う。以後、頻繁に会い、遊ぶ。一一月、第二詩集『いまは吟遊詩人』刊行。
一九七一年(昭和四六年)三一歳
六月、読売新聞の求人広告を(父が)見て、新しく発足する都営住宅サービス公社(都営住宅を修繕する公社)に応募、採用される。土建会社からの転職者、立川基地の退職者など、一〇〇人近くが入社した。出版界からは離れた場所に身を置き、詩を書くことを決意。

 定職もなく、くりかえされる無為の日。
 それにしても、詩への、何という無垢な覚悟。だが、この無垢な覚悟こそ、負け馬に賭けることにほかならない。辻の競馬予想は、絶対に当たらないだろう。しかし、辻は、無垢な覚悟をもちつづけて、不世出の抒情詩人となった。

             *

 一九九六年、五六歳の辻は、ある雑誌の編集部から、若い人たちを励ますような詩の執筆依頼をうける。
 辻は、『こんな詩がある』の中で、次のように述懐している。

 「それで、ぼくが若い時にどういう言葉を望んでいただろうか、どういうことをぼくがある日ちょっと誰かに言われたら、自分が立ち直ることができただろうか、と考えてみたんです。ぼくはとってもノンベエだったことがあります。二十歳ぐらいの時からで、ぐちゃぐちゃだったこともある。そういう時に、自分が何を言われたかったか。そしたら、こういうことが頭に浮かんできた―若い時ってしばしば偽悪的になると言うか、世の中が分かったような気になって、もう俺はどうせこんなもんなんだ、とデカダンスに陥ったりすることもある。そういう時に、もし君がどんなに俗物であって今はダメであっても、君の中に何か無垢なもの、イノセントなものが残っていたら、それがある限り必ず立ち直れるんだよ、と言われたらぼくは楽だったろうな。そう思ってこの作品を書きました。」

  蟻の涙
             辻 征夫
どこか遠くにいるだれでもいいだれかではなく
かずおおくの若いひとたちのなかの
任意のひとりでもなく
この世界にひとりしかいない
いまこのページを読んでいる
あなたがいちばんききたい言葉は何だろうか

人間と呼ばれる数十億のなかの
あなたが知らないどこかのだれかではなく
いまこの詩を書きはじめて題名のわきに
漢字三字の名を記したぼくは
たとえばこういう言葉をききたいと思う
きみがどんなに悪人であり俗物であっても

きみのなかに残っているにちがいない
ちいさな無垢をわたくしは信ずる
それがたとえば蟻の涙ほどのちいささであっても
それがあるかぎりきみはあるとき
たちあがることができる
世界はきみが荒れすさんでいるときも
きみを信じている



週刊墨教組 No.1430 2004.1.8

すみだ春秋 34

ねむるというのはね

 おじいちゃんになった小山さんが、生後八ヶ月の孫の子守りをしている。この孫は、祖父の隔世遺伝なのだか、嫌いなものは嫌いとはっきりと意思表示するという。どんなに美しい絵本を読んであげても、気に入らなければ、手で払いのける。
 おじいちゃんを支配し、王様のようにわがもの顔でふるまう彼が、きまって耳をすまして聴きいり、文庫本のページに印刷された文字をじっと見つめるという詩があるというのだ。

ねむるのは
ねむいから
おきるのは
ねむったから
(ねむるというのはね
こうしてよこになって
おはなしもしないで
ぐうぐうって
目をつむっていること
じゃちょっとねむってみるから
見ててごらん
・・・・・・・・・・・
見てた?

 辻征夫の「みずはつめたい」の最終第五連である。
 辻は、絶対にオンチではない。
 小山と辻は、共同/協同/響胴して、幼い身体に音楽を奏でた。
 祖父と孫との至福の黄金時間がゆったりと流れるなかで、辻も永遠を生きている。

 谷川俊太郎は、「辻さんの印象を一言で言うとすると、書いたものも人間もなんだけど、『エレガント』っていう言葉がすぐに浮かぶんですよ。」と語っている。
 父が娘に語りかける、さりげなく、自然で、やさしい言葉で書かれた「みずはつめたい」には、超絶技巧がほどこされている。四連目までも引用してみよう。

みずはつめたい
おゆはあつい
(きみがこないだ
お茶碗に手をつっこんで
わっと泣きだしたのは
あれがおゆだったからだ
あついというのは・・・・・
わかるだろ
ああいうこと

あれはあめ
あめはみず
(たしかに
雨は水だけど
雨のままではお風呂をわかしたり
洗濯したりはできないね
あの雨と このコップの水は
とてもとおく はなれている
川や 湖のはなしは
さらいねんあたり
してあげよう

とりはあそこ
ねこはそこ
(飛ぶというのはね
つっかえぼうがなくても
空にうかんで うごくこと
猫を二階の窓から
空にはなしてやっては
いけないよ

ごはんのご
はんぶんのはん
(だから ごはん って
いうわけではないよ
きみがまだあんまりちいさいから
たくさんはたべないだけ
それから 注意しますが
足をテーブルにのせるのはやめなさい
布巾をひとのお椀につっこむのも
やめなさい

 生まれかわり、死にかわりしていくいのち。ほんとうに、時の移ろいは残酷である。
 最新刊『詩の話をしよう』(ミッドナイト・プレス刊)の「あとがきにかえて」で、山本かずこは、つぎのようにしたためている。

 「病室に入ると、ちょうど下のお嬢さんの咲子さんがいらっしゃいました。一つしかないご自分の座っていられた椅子を私に譲ってくださり帰ってゆかれました。とても可愛らしいお嬢さんですね、と言うと、うんとただうなずかれていただけですが、辻さんの書かれるものの中から、どれだけ葉子さん、咲子さん、二人のお嬢さんを大切に育ててこられたかはわかります。」

      *

 清水哲男の第一句集『匙洗う人』(九一年刊)に、つぎの句がある。

  富田木歩 生涯歩むことなし
 墨堤のヘッドライトに木歩驅ける
 
 辻は、「枕橋を通って」というエッセイで、富田木歩について簡潔に記している。谷川が言う「エレガント」な散文。

 「枕橋を渡って旧水戸邸跡の公園の前に出ると、右に藤田東湖の立派な石碑、左に富田木歩終焉の地と書かれた棒杭を金属で覆ったようなものが寒々と立っている。」
「富田木歩こそは明治三十年向島小梅町に生まれ、そしてここ枕橋のたもとの墨堤で死んだ才能豊かな俳人である。二歳の頃から足が萎え、生涯歩けなかったため就学の経験が無く、文字は学校ごっこやめんこで覚えたという。」
 「ともあれ小梅町に生まれた木歩はその後、玉の井、向島須崎町などに住みながら俳句を作り、大正十二年九月一日、関東大震災のために二十七歳でここで死んだのである。ここまでは当時住んでいた須崎町の家から、芸妓をしていた妹やその朋輩に助けられ、途中からは後の木歩全集の編者である新井声風に背負われて来た。あとは泳いで対岸に渡るほかないが、自力では歩けない木歩は川の岸に坐ったまま炎にまかれて死んだ。
 先に私は隅田川は西から東に渡るものと書いたが、私が渡って行くと枕橋には、生涯川を渡らなかった木歩がいて、西の方浅草の町並みと川の流れを見ている。」
 「ひとまず、大正八年富田木歩二十二歳のときの『墨堤眺望二句』などを口ずさんで往時を偲びながら、桜橋の方へ行ってみよう。

 時雨るゝや堤ゆきかふ荷馬車の灯
 土手越しの帰帆見てをる時雨かな」

     *

 『余白句会』の連衆の一人、八木幹夫(俳号「山羊」)が詩集『夏空、そこへ着くまで』(二〇〇二年)を編み、「冬の月」で、つぎのようにうたっている。

いま船出する 酔いどれ船の
船長は 満身創痍のつじゆきお
舵をとるのはおまかせを
ぼくらがお供いたしましょう
ヨイトセ ヨイトセ

 また、清水哲男(俳号「赤帆」)の句集『打つや太鼓』(二〇〇三年)は、つぎの句をもって畢っている。

   追想・辻征夫
征夫忌や詩の如き雪なきにしもあらず


週刊墨教組 No.1391   2003.1.8

すみだ春秋33

迷子と道草

  せりなずなごぎょうはこべら嬶の座

 なんともイキアタリバッタリだが、オメデタイ迷句。
こんなイイカゲンな吟みぶりをおかしがるのは、『余白句会』の連衆なのだが、はたして、俳号を「道草」となのる作句者は、多田道太郎なのであった。
 とにかく、あっと驚きの『多田道太郎句集』(芸林書房)が出版された。
 総句数は、たったの一三九句。
 まずは、風韻・品格ともそなわった佳吟。

  馬肉鍋いずこの緑野走り来し
  大寒の底を走るや消防車

  あの音はあの世の母の衣かえ
  ブランコに乗せし子の遺影セピア色

 初々しい佳吟。

  そこらの子くちと鼻とにしゃぼん玉
  下着干す妻の鼻唄風光る

 時として、口をひらく記憶の闇。

    戦前学徒動員
  折れ釘や外套生死吊るされて
  冬の川波を乱しつ焼夷弾

*

  犬一匹連れて引越し貨物船
  川湯にて月を仰がん辻征夫

 「貨物船」とは辻征夫の俳号である。
 多田と辻は、「ひょろひょろ、よろよろという感じ」で、「毅然たる卑俗を貫いて」いたので、とてもうまが合ったらしい。互いにほほえましいほど敬愛しあっている。
 多田が住む宇治に、『余白句会』の連衆が遊行したおり、辻ははぐれて迷子になってしまう。
 多田は、それを句にしている。

  辻征夫迷子
  迷子札征くことかたし百日紅

*

 辻は、「枕橋を通って」というエッセイで、つぎのように記している。

 「私どもの心の中にある隅田川は、いまもなお西から東に渡る川なのである。隅田川を歌った詩歌はいくつもあるが、最も現代的でありながら同時に古代的でもある大岡信の『心にひとかけらの感傷も』と題された詩は、この辺のことを美しく苛烈に歌って余すところがない。この詩をはじめて読んだとき私は、生まれ育った隅田川の東岸にいながら、詩を読む自分は西岸のはるか向こうにいて、川をわたって行く男の背中を見ていることを感じた。このとき二十何歳であったか、あるいは三十歳を出ていたか覚えていないが、詩歌に深入りして、そろそろ〈こころはここにない〉者になりはじめていたらしい。

  心にひとかけらの感傷も持たないやつが
    冬の隅田川を渡ってゆく
      愛もなく
        鳥もいない宇宙に向かって

  心にひとかけらの勇気も持たないやつが
    肺をタールでいっぱいにして  
      子供の首を洗っている
        絶望的な夕陽の溢れる隅田川で 」

 〈こころはここにない〉者は、地上では、すぐに道に迷ってしまう。
 〈こころはここにない〉抒情詩人として、まっしぐらに疾走する途上にあって、辻征夫は、二〇〇〇年一月一四日に急逝したのだった。

  臍噛むか思い出すべて遠花火 道草

 (長谷川政國)

週刊墨教組 No.1350   2002.1.8

すみだ春秋32
そして、貨物船は往く

 「新年は、死んだ人をしのぶためにある、」(中桐雅夫)という詩句が、ほんとうに身にしみるようになった。

 辻のいない世界
                 井川 博年
 昨日浅草に行ってきた。

 死んでから一週間と経っていないので
 辻征夫の魂はこのあたりをうろついている
 だろうと当たりをつけ
 地下鉄銀座線浅草駅を
 雷門の方へ上り

 神谷バーでいつものように呑んで
 観音様にお参りして
 六区をぶらついて
 馬車道の方まで歩いてみた。

 いつもだったら行く店が決まってて
 ぼくはただキミについて歩いてりゃあよかった
 そういえばぼくは一度だって浅草では
 キミの前を歩いたことはなかった
 どうしてだろうと今は思う

 フランス座はもうやってなくて
 映画を見る気も起さず
 競馬の場外馬券売り場の人込みと
 屋台のような店で酒を呑んでいる男女を見ていた
 いつものキミのように
 それから例の少年時代からのキミのいきつけの蕎麦屋
 田川でソバを食べた。
 そこでビールを呑んでいると
 若き日のキミそっくりの
 昭和三十年代の言葉でいうイカレタアンチャンが入ってきて
 「ここにウドンある」といった。
 キミのよく知っているおかみさんが「ありますよ」というと
 アンチャンは連れのこれもイカシタネエチャンに
 「あるってよ」といい「オレはソバのオオモリ」といった
 するとネエチャンは
 (本当はうどんを食べにきたと推測するのだが)
 「じゃあアタシもモリにする」といったのだ
 その言やよし 蕎麦屋ではソバ食べなくちゃ−ね
 この店はキミが高校生時代に
 学校の帰りに学生服をジャンパーに着替え
 冬ならマフラーで面体を隠して遊びにでかけた
 そのゆかりの店なのだ
 よかったよ 二人組 きみたちに幸あらんことを!

 店をでると吾妻橋までぶらぶら歩き
 端のたもとの公園から隅田川を眺めた
 一月の終わりの東京の冬は温かく
 晴れた良い日だった
 かもめだか都鳥だかは見当たらないが
 河口の方にはきっといっぱいいるだろうよ
 キミがバイトしたことがあるというアサヒビールの屋上には
 巨大な金の玉が架かっているが
 あれがキミの霊魂とは
 誰も思わないだろう。

 『そして、船は行く』 (二〇〇一年) 所収。
 井川は、いまは喪失して死語となってしまった「青春」「友情」を、辻とともに生きた詩友である。
 辻征夫は、向島という水土/人情、そして言問学校が手塩にかけてはぐくんだ、不世出の抒情詩人であった。
 辻は、一九三九年浅草で生まれ向島で育った。二〇〇〇年一月十四日、脊髄小脳変性症に起因する病により急逝した。
 橋は異界へとつながる。
 井川は、「巨大な金の玉」に、彷徨する死者の「霊魂」を幻視したのだった。

 (なお、あのゲイジュツ作品は、よほど詩人を刺激するらしく、入沢康夫は、

 あづまはし のビルの
 かの奇怪千万なる 「おぶじえ」も
 金泥いろに光って

 と、詠んでいる。)

     *

 辻は、俳号を「貨物船」といい『余白句会』という句会に集った。井川もまた連衆として句会に加わったこ
 詩集名『そして、船は行く』には、むろん、辻の併号「貨物船」が、遠く明滅し、谺している。

 橋渡りきつてをんなが吐く椿

 やはり、『余白句会』 に集った八木忠栄が還暦を期して、句集『雪やまず』(二〇〇一年)を編んだ。右一句は、その句隻から。
 去年・今年淡麓辛口二升五合

 蕎麦を食ふ男らの頸みな太し

 両国や四股名涼しき勝ち名乗

 句会果て井川博年そぞろ寒

 なんと「単純」「朴訥」な吟みぶり。
 そして、辻を偲ぶ小沢信男の「しゃぼん玉割れるな隅田川までも」を思い出ださせる。

 凍る日は凍るまで飛べシャボン玉

 しみじみと心にしみる、「辻征夫逝く」の前書きがある、

 貨物船どこまで往くや寒き海

 いつも飄々として軽妙酒脱で底抜けに優しかった辻が、ふっとあらわれそうな、

 墨東のさくら咲いたよ出てこいよ

 詩人が紡ぐ言葉のくさぐさによって、辻征夫は、いまも人々の記憶のなかに生きつづけている。
(長谷川正国)


すみだ春秋 31


辻征夫『貨物船句集』

冬の雨下駄箱にある父の下駄

冬の雨饅頭熱き離別かな

おでん煮ゆ割烹着みな美しき

明け方の夢でもの食う寒さかな

破魔矢燃ゆ去年ひととせのあれやこれ

 『貨物船句集』が、一月一〇日に刊行された。句友たちによる友情の結晶ではなかろうか。
 巻末の著者略歴は、つぎのようなものだ。

辻征夫(つじゆきお)ー

一九三九年東京浅草で生まれ向島で育つ。二〇〇〇年一月一四日、脊髄小脳変性症に起因する病により逝く。

 これにつづけて、「著書に左記のものがある」として、二十二冊の書名が掲げられているのだが、それにしても、凛乎たる書きぶりの簡潔な略歴。
 詩人は死んだら、死にきり。地上に残ったのは、詩集だけだ。

   *

 辻は、俳号を「貨物船」といい、『余白句会』という句会に集った。句集に収録された二三〇句のうちのほとんどは、この句会で発表された作品を採拾したものだ。句会の宗匠格の小沢信男は、句集の後書きで、深切な敬愛をこめてつぎのように書いている。

「この集いの呼び名がほしいというので、余白句会と命名した。われらは専門の俳人ではなく、各人の本業の余白にちょっと書き留めるまでです、という謙遜が表向き。たしか一九九〇年の暮れだった。同年の九月に辻征夫の詩集『ヴェルレーヌの余白に』がでて、先行の詩集『鶯』とともに、瞠目に値した。少年的純度の詩人が、いうなら不純の大人の深みにまで、透明な屈折光を届かせている。詩人の脱皮とはこういうものか。伴走する読者として、友人として、さりげなく記念しておきたかった。つまりは余白のある暮らしがしたいというこころです。」

「やっぱり貨物船こそはすばらしい。茫漠たる空と海のただなかに、ポッカリうかぶ人工物。船倉には人の世から人の世へ引き渡すものを満載しながら、およそ人界から隔絶して無人のごとき黒い影。」

   *

 辻は、的確な下手度で、おかしくとぼけたしみじみとした味わいの俳諧をつくった。

かのひとは昨日少年今日禿頭

 小沢信男の「ひぐらしや昨日少年今日白頭」と比べると、品格には欠けるが、俗情に通じていて、なんともおかしい。

妃殿下がおでん喰ふとき口四角

 西東三鬼の「広島や卵食ふとき口開く」のもじりだが、「妃殿下」と「おでん」の取り合わせは意表を突き、これまた妙におかしい。
 つぎの二句などは、専門俳人には絶対につくれない作品。なにものにもとらわれない、けなげな遊びのたまもの。

海苔いちまい微風にけぶる裸かな

葉桜やふとももはみな桜色

   *

春雨や傘さしてゆく吾妻橋

吾が妻という橋渡る五月かな

若葉雨見渡す橋の長さかな

家二軒遠出して見る花火かな

 いずれも向島という水土/人情が、手塩にかけてはぐくんだ辻にしか、こしらえることができない作品である。
 俳句形式は、抒情詩人としての辻の凄まじくも「荒ぶる」鬱懐を、解放したかにみえる。
 だが、苦吟難吟の痕跡を全くとどめない、いじらしいほどすなおな辻の俳句の背後に、死はしずかにせまっていたのであった。

ははありき夢まぼろしの土筆摘み

歳時記やわれも逝くひと若葉雨

満月や大人になってもついてくる


墨田春秋 29

福島泰樹の〔本所区〕

健さんよ喧々ごうごうとして五月、六月手負いの唐獅子牡丹

明日のジョー昨日の情事蓮の花咲いてさよなら言いし女はも

愛と死のアンビヴァレンツ落下する花 恥じらいのヘルメット脱ぐ

傘なくばレインコートの襟立ててさよならだけの人生を行く

二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れ

ボクサーに思想は問うな定型詩より凄まじき四角い荒野

 くちずさむと、こころよい韻律。読むのではなく、詠む。さらに、唄い、そして、絶叫する。歌謡の復権・ 肉声の回復を求めて、短歌を作りつづけてきた歌人がいる。
 福島泰樹、東京下谷法昌寺住職。

 『 バリケード・一九六六年二月』から『 朔太郎感傷』まで、すでに二十一冊の歌集を刊行している福島の短歌は、つぎの二首に象徴される。

死者なれば君らは若く降り注ぐ時雨のごときシュプレッヒコール

死者へ架ける暁の橋天の橋 数えながらに年をふりつつ

 死者の言霊と交感・ 親和し、共闘して、歌は顕ちあらわれる。

 第十三歌集『 柘榴盃の歌』(八八年刊)には、死者磯田光一に捧げられた歌群「 浪曼の馬 」が収められている。
 磯田には、「 東京 」論の画期となった文芸批評『 思想としての東京』という名著がある。
 福島が、はじめて磯田に会ったのは、冬の夕ぐれの御茶の水の喫茶店だった。
 つぎの三首が、いきさつを物語る。

東京の地名を詠むと告げたれば素早く席を立ちし鶺鴒

古本屋街の棚すべからくを熟知せるか神保町の書庫の夕暮

市役所編『東京市町名沿革史』高き棚よりとりて呉れにし

 磯田が示した『 東京市町名沿革史』をよすがに、福島が「 東京の地名を詠」んだときには、すでにして、磯田は幽冥の世界の人であった。

東京の地名をちりばめ歌枕 献ずる人はなく時は過ぎ

 「 東京の地名ちりばめ歌枕」とした短歌は、第十九歌集『 賢治幻想』( 九六年刊)に、「 菊坂コンチネンタル」として、五十二首収められている。
 そこには、次の五首もある。

  〔本所区〕

松坂町
血染めの旗を翳し渡らん日大全共闘秋田明大その後知らず

両国橋
「血染めのラッパ」吹きて渡りし男はや火達磨槐多の歌うたわんよ

業平町
さなりnarihira、娼婦マリアのその後を告げてやらねばわれ都鳥

向島須崎町
橋越えて鳩住む町に来たりしは熱き蕾のわが兄ならん

隅田公園
あゝ俺の「墨東綺譚」よ「雨蕭々」娼婦マリアよ終の夢なる

( 長谷川政国)


墨田春秋 30

玉の井 ラ・クンパルシータ

 一九六〇年代後半の、あの熱い「学生反乱」の時代を映す鏡としての歌集があるなら、それは、福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』(六九年刊)にほかならない。

樽見、君の肩に霜ふれ 眠らざる視界はるけく火群ゆらぐを

あれはなにあれは綺羅星 泊り込む野営・旗棹しか手にもたぬ

一隊をみおろす 夜の構内に三〇〇〇の髪戦ぎてやまぬ

もはやクラスを恃まぬゆえのわが無援 笛噛むくちのやけに清しき

レーニンよわがレーニンよポマードが溶けて眼に浸みていたるよ

 なんと、まっすぐな歌いぶりであることか。読む者の胸を直截に乱打する。
 たった四百部しか印刷されなかったこの歌集は、バリケードの中で読みつがれた。ガリ版刷りの海賊版が回し読みされた。
 短歌が、時代と鋭く拮抗し、時代への檄詩となった嚆矢である。
 七〇年三月、歌集の出版記念会の席上、福島は、「自分の声でじかに呼びかけてみたくなっ」て、自作を朗読する。このことが、以来三十年にわたる〈短歌絶叫〉の端緒となった。

 歌人にも、生計のすべがなくてはならない。
 年譜をくれば、二十七歳の福島は、愛鷹山の山懐に抱かれた村、静岡県沼津市柳沢の妙蓮寺に赴任し、「草を刈り落ち葉を集める墓守人の日々が始ま」る。三島由紀夫の壮烈な最期を知ったのも、首都東京から遥かに隔たったこの地であった。
 翌年には、産休補助教員として市内の小学校に勤務し、「生徒たちと富士を仰ぎみながら沼津千本浜を駆け」ている。
 暗澹/憂鬱/寂寥/孤立。酒を酌み、とことん自分と向きあった刻。だが、まっすぐに、「想うことは歌に繋がっていった。」
 
*

 出会いの絶景というものがある。
 シンガーソングライターの龍との出会いである。福島、三十二歳。龍のギターが泣き、福島の〈短歌絶叫〉は果てしなく炸裂する。もうどうにもとまらない。
 その後、ドラムの元「頭脳警察」の石塚俊明、尺八の菊池雅志、ピアノの永畑雅人がメンバーに加わる。
 彼らと死者たちの言霊が飛び交った空前絶後のステージは、『玉の井ラ・クンパルシータ』

屋根低き軒は並びて灯は紅くラ・クンパルシータ! 君を抱けば

あゝ俺の「墨東綺譚」よ「雨蕭々」娼婦マリアよ終の夢なる

「寺島玉の井」バス停車場の怪人は? 永井荷風であらば蝙蝠傘

白萩を石で散らした狼藉の 悪漢探偵われならなくに

白雨白水白露白酒白刃や 白首抱けどわが淋しきを

幻の魔窟か魔の迷宮、小窓にならぶ真白き顔よ

瀟々とお歯黒溝に夜の雨 玉の井娼家の灯よ、いま何処
(長谷川政国)


すみだ春秋28

しゃぼん玉割れるな

 『小沢信男全句集』が刊行された。既刊の『東京百景』(八九年)『昨日少年』(九六年)『足の裏』(九八年)と、未刊の『んの字』とから成る。総句数三五四句。
 「あとがき」に、つぎの文章がある。

 「辻征夫氏の急逝に、句会一同衝撃のなかにいますが、おもえば私にも一番長い句友であった。一本を氏の霊に献じます。」

 一月一四日に逝った辻征夫については、この欄で、二回にわたって、追悼をこめてしたためた。向島という水土/人情、そして言問学校が手塩にかけてはぐくんだ、現代日本最高の不世出の抒情詩人であった。
 辻は、俳号を「貨物船」といい、『余白句会』という句会に集った。この句会の先生格が、小沢信男である。

 学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地

 小沢のこの句は、「月島西仲通り」と前書きがあるが、辻は、「学成らず」「もんじゃ」「路地」という言葉に、おのれの分身を視たのにちがいない。この句の発見がきっかけとなって、辻の俳句への傾斜がはじまる。

 春宵のはてなこの路地ぬけられぬ

 寺島町あたりであろうか。
 『いま・むかし東京逍遥』『あの人と歩く東京』などの著書がある小沢信男は、まるで迷路をさまようように、見知らぬ町の路地へとわけいってゆく。その界隈のにおいすら、句からたちのぼる。
 小沢の俳号は、「巷児」。

*

 辻をともなってのぶらぶら歩きもあったのであろうか。句の前書きには、墨田区ゆかりの地名が散見する。

  両国
 初場所の横綱弱き八字眉

  向島三囲稲荷
 小寒の逢瀬つめたき小鼻かな

  向島長命寺、成島柳北の碑あり
 花吹雪むかしの人は顔長く

  墨堤にて
 夕焼けが切抜いている都かな
夕焼けや雲より遠い向う岸
 
隅田川畔
 ゆりかもめここに塒すほーむれす

  向島百花園二句
 亀鳴くや狂言塚のくずし文字
 生類はとらえたまうな春の泥

  墨田区京島
 東京一危険地帯や花の路地

  隅田川
 天に花火地に人の子の青テント
 

  隅田公園脇に富田木歩の碑、
  大正十二年九月一日没
 木歩の忌川より低い町に居る

*

 まさに、「巷児」の面目躍如たる、おかしくしみじみとした味わいのある佳吟五句。

 ひぐらしや昨日少年今日白頭
 行く春の泪橋ぎわ福寿荘
 うすものの下もうすもの六本木
 小むすめとも年増ともみえ路地若葉
 んの字に膝抱く秋のおんなかな

*

 「あとがき」には、また、つぎの文もみえる。

 「まだ生きているけれど、もう死んでもおかしくないので『小沢信男全句集』。」

 最後の「遺作集成」であるこの全句集の終わりは、深い悲しみをたたえた、つぎのような追悼句でしめくくられている。

  俳号貨物船逝く、享年六十
 冬の虹無人の船にTUJIYUKIO

  辻征夫を偲ぶ、三句
 蕗味噌やほろり網膜剥離して

 ボート漕ぐおばさんの髭風ひかる

 しゃぼん玉割れるな隅田川までも

(長谷川政國)


すみだ春秋26


辻征夫を悼んで

 うそ寒いこの時代にあって、絶滅に瀕した「抒情詩人」という役割を、本気で一身にになった詩人が逝った。
 辻征夫、享年六十。
 言問小学校卒業。

 辻征夫については、この欄でこれまでに四度もしたためている。
 前回ふれた『ぼくたちの(俎板のような)拳銃』(新潮社)は、辻自身の分身であるトモアキのつぎのような描写で終わっている。

 トモアキは三十歳近くから私を書きはじめ、さまざまな職業に就きながら生涯に十二冊の詩集を出した。最後の詩集を出したのは五十八歳のときだった。その頃から身体のバランスをつかさどる脳神経に異常をきたしはじめ、晩年は杖に頼ってよろめきながら歩いた。

 脊髄小脳変性症という難病にとりつかれた辻は、歩行もおぼつかなくなってにいったという。この難病は、自らの力では筋肉の動きが思い通りにならないのだ。
 死は、不意に辻を襲った。

 一月十四日夜、突然咳きこみはじめ、のどにつかえた痰を喀出することができなくての急逝であった。


 吾妻橋

吾が妻という橋渡る五月かな
(昭和二十年代のはじめ
裏の家に住む元芸妓が
若かった母にいっている
そばにいる幼児は 彼女の眼に入らない
それがね 奥さん おどろくじゃないの
吾妻橋で浮浪児がおままごとをしているのだけれど
女の子が 男の子の あそこをいじっているのよ
それをアメリカ兵が大笑いしながら見ているの
おおいやだ そうじゃありませんか 奥さん

半世紀が過ぎて いま春雨に傘をさして
さして読まれもせぬ詩を書く男が橋を渡る
かつてこの川のほとりで 流れ寄る櫛を見て
吾妻よと 呟いた男があったとか―――
枕橋を過ぎ 長命寺の裏を通って
昭和二十年三月十日にも焼けなかった
路地の迷路に 男は消える)
『俳諧辻詩集』(九六年)所収。


 辻は、詩について、「私どもの仕事では、少年時代の夢がすべてなのである」という決意を書きとめている。
 じっさい、辻ほど、時を遡り、少年時代の自分自身を再現するために、くりかえしまぼろしの水上/向島に帰還しつづけようとした詩人はいない。


 遠火事や少年の日の向こう傷


 二葉の写真のうち、右は、『辻征夫詩集成』(九六年)所収のもので、撮影高梨豊。

 水上バスと東武鉄道の鉄橋が望まれる。むろん、隅田川畔である。
 左は、『鮎川信夫全詩集』(六五年)のカバー写真で、撮影は山田皓一。
 人物は鮎川本人。橋は言問橋。隅田川畔であることは言うまでもない。
 第一詩集『学校の思い出』(六二年)は出していたものの、ほとんど無名の辻にとって、このカバー写真の鮎川のたたずまいは、くきやかな輪郭となって、身体に記憶されることになる。
 のちに、辻は、『ブェルレーヌの余白に』(九○年)所収「(隅田川の、古びた、鉄柵に手を置き……)」を、つぎの四行で書き始めたのだった。


隅田川の
いまはない古びた鉄柵に手を置き
日暮れの残照に黒々とうなだれている
1965年8月の鮎川さん


 『新潮』三月号には、辻の絶筆『遠ざかる島ふたたび』が掲載されている。
 辻の母は、結核で国立中野療養所に入院していた。昭和十四年にこの病院でなくなっていた立原道造について、つぎのように記している。


 「昭和十四年は私の生まれた年でもあった。その年に私は生まれ、その年に父は上海に行ったのだ。余談になるが(全部が余談のようなものだが)立原家は日本橋で木の箱を作っていた。婿養子であるお父さんの旧姓は狼といった。立原は母方の姓である。
後年私は谷中の墓地に立原の墓を訪ね、狼の卒塔婆を探した。やがてそれは出て来たのだが、心中深く、堀辰雄さえしらない「荒ぶるもの」を宿していたにちがいない抒情詩人というものを私は目のあたりにしたかったのだが、一人で墓地を訪ね、打ち重なる古い卒塔婆は一枚々々とめくっている姿を想像すると、今も私は暗澹とするのである。私もまた抒情詩人を広言してはばからない人間であった。私が考える抒情詩は、男性原理につらぬかれたものであった。それは赤頭巾よりも、狼の悲哀なのだ。それを私ははっきり自分の眼で見たかった。」

 ここには、いつも飄々として軽妙洒脱で底抜けに優しかったといわれるのとは全くちがった、辻の凄まじくも「荒ぶる」鬱懐がはしなくも噴出している。
 抒情詩人としての、見事な自負/矜恃である。
 最後の詩集『萌えいづる若葉に対峙して』(九八年)には、詩集名と同じ詩があり、つぎのような詩句でしめくくられる。

血まみれの叙情詩人がここにいて
抒情詩人はみんな血まみれえと
ほがらかに歌っているのですよ


 宿題
すぐにしなければいけなかったのに
あそびほうけてときだけがこんなにたってしまった
いまならたやすくできてあしたのあさには
はいできましたとさしだすことができるのに
せんせいはせんねんとしおいてなくなってしまわれて
もうわたくしのしゅくだいをみてはくださらない
わかきひにただいちど
あそんでいるわたくしのあたまにてをおいて
げんきがいいなとほほえんでくださったばっかりに
わたくしはいっしょうをゆめのようにすごしてしまった


向島という水上/人情、そして言問小学校が手塩にかけてはぐくんだ、現代日本最高の不世出の抒情詩人が逝ってしまった。
                 

2000.2.17(長谷川政國)


すみだ春秋23

1999

 きのうはあすに

中桐雅夫

 新年は,死んだ人をしのぶためにある,
 心の優しいものが先に死ぬのはなぜか,
 おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ,
 でなければ,どうして朝から酒を飲んでいられる?
 人をしのんでいると,独り言が独り言でなくなる,
 きょうはきのうに,きのうはあすになる,
 どんな小さなものでも,眼の前のものを愛したくなる,
 でなければ,どうしてこの一年を生きてゆける?

 詩集『会社の人事』(79年)所収。中桐雅夫は,府立三商の田村隆一がはじめて同人として加わった詩誌『ル・バル』の,発行兼編集人であった。

 昨年1月3日,朝日新聞紙上に,次のような1ページ企業広告が掲載された。

 肖像写真は上田義彦が撮影した。モデルは田村隆一。なんときわどい直截なキャッチコピーであることか。」それを軽妙洒脱にいなせる老人は,ぜったいに彼しかいない。とってもカッコイー。この写真は,食道癌で入院中に撮ったものだ。
 昨年8月26日,田村隆一は死去した。享年75。亡くなる日の午後,吸い飲みで酒を一合ほど飲んだという。清々しい死様だ。
 18世紀の賢人ヘンリ・オールドリッチ博士の言葉を,かつて田村はしたためていた。
「一、良酒あらば飲むべし。
 一、友来らば飲むべし。
 一、のど渇きたらば飲むべし。
 (ここから声が小さくなる)
 一、渇くおそれあらば飲むべし。
 一、いかなる理由ありといえども飲むべし。」

 田村隆一については,<すみだ春秋>でも二度言及している。「木の実ナナ」の童話『虹色の街』(みみずくぷれす)にふれた折と,「向島小梅(こんめ)で生まれた」田村の祖父重太郎をえがいた詩「ある男」にふれた折である。
 木の実ナナは本名を池田鞠子といい,第一寺島小学校を卒業した。ナナという名は,エミール・ゾラの『ナナ』にちなんでいる。

 唄
    ー木の実ナナに

 下町には川が流れている
 大川の水は生きていたから
 町だって生きていた
 町が死んでしまったら
 どんな恋も
 どんな涙も
 生まれはしない
 川が死んでしまったら
 下町だって死んでしまうだろう
 死んでしまった川には人影のない町が
 昔の子とばかり嘆くだけ

 ロンドンのテムズも十九世紀には石炭で黒こげになった
 パリのセーヌだってモジリアニといっしょに自殺してしまった
 ナナの生まれた下町の大川だって戦争で灰になったのさ

 ところがどうだ
 テムズはビートルズの歌で生きかえった
 セーヌはアダモのシャンソンで流れはじめた
 東京の大川は
 ナナのリズムでよみがえるだろう
 鮭が歌をうたいながら夜明けのハドソンをさかのぼるとき
 カモメは大川にかえってくる
 川が生きかえれば町だって生きかえる
 町の音 暮しのリズム
 陽気で悲しい恋の唄

 川が流れている下町が
 ナナをつくったのだからさ
 もう一ぺん 歌ってくれないか
 陽気で悲しい恋の唄

 詩集『五分前』(82年)所収。田村は,「詩を書くには肩に力を入れないこと,だからぼくの詩は30分で出来る」と語っていた。この詩を読むと,なるほどと思う。
 ああ,なんと,平明で明晰で,優しい激情のこもった日本語。そして,言葉にくぐもる人間の存在の哀しさ。

 遺作詩集『帰ってきた旅人』(98年)には,つぎの詩句がある。

 遺伝子と電子工学に支配されている人間は物にすぎない
 単なる記号にすぎない
 人間がいなくなる不思議な世界

(牡蠣)

 最後の詩集『1999』(98年)は,次の詩句で終わっている。
 
 さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
 人間の世紀末
 1999

(「蟻」)

1999.1.1  長谷川政國