武蔵野の新田開発と雑木林・農民の生活との共生
武蔵野の代名詞のように使われている雑木林は、国木田独歩が著書「武蔵野」の中では「昔の武蔵野は萱原のはてしなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。 林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢の類で冬はことごとく落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出るその変化が・・・・」と述べられています。 確かに、中世の武蔵野の光景は、次のような、紀行文や文学作品などからも推察出来ます。
武蔵野は月の入るべき山もなし
草よりいでて草にこそ入れ 万葉集 東歌
「草より出でて草に入る、又草の枕に旅寝の日数を忘れ、問ふべき里の遥かなり
など、代々歌人の袂をしぼりしが、御入国の頃より、昔に引きかへ、十万戸の
炊煙紫霞と共に棚引き、僅かにその旧跡の残りたりしも、承応より享保に至り
四度までの新田開発ありて耕田林園となり、往古(そのかみ)の風光これなし」
(江戸名所図会より)
武蔵野は永く原野のまま放置され、秣場や萱場として活用されては来たものの、水に乏しい原野であり、旅人は「逃げ水の里」と呼んだとも言われています。
武蔵野が畑作新田として開拓されたのは家康が江戸幕府をたてた以降で、青梅北部の成木に産出した石灰(いしばい)が江戸築城の建設資材として江戸へ運ばれ、青梅街道が生まれ、1611年(慶長16年)、吉野織部之助に始められた青梅街道を挟んで開拓された「新田村」、続いて、1653年(承応2年)、小川九郎兵衛の願いにより開発された「小川新田」などが歴史に残る新田開発の嚆矢といえます。 国分寺、小平、小金井地域に広がる旧名、野中新田、鈴木新田、戸倉新田などは、8代将軍吉宗の享保年間(1716ー1735年)、玉川上水の分水を活用した新田開発で、開墾した畑を持続的循環型に耕作してゆくために必要不可欠なものとして、武蔵野台地の雑木林が出来てきたのです。
一方、武蔵野台地の北に位置する埼玉県所沢市から入間郡三芳町に広がる三富の地域は元禄7ー9年(1694年ー1696年)に川越藩主、柳沢吉保の命により藩の事業として開拓された1400ヘクタールにわたる新田で、三芳町発行の資料に述べられているように、地域内に巾4ー6間の道路を造成し、開拓者に間口40間(約70メートル)、奥行375間(約700メートル)、面積にして5ヘクタールという区割がなされ、三富の地域に一時に241戸が入植したとあります。 道路に沿って屋敷地(約50アール)を配し、畑の中央部に農道、最奥部にクヌギ、コナラ、エゴ、アカマツなどの樹木からなる林を形成させたところにその特徴があります。 こうして出来た林は「山」と呼ばれて、この地域独特の景観を作っています。
持続型循環農業としての畑作農業
武蔵野台地に開発された新田に共通することですが、短冊形地割による屋敷林、畑、林の役割を、最近、耳にすることが多くなった有機農業という観点から眺めて見たいと思います。 有機農業は「生物が生産した有機物を地球上の物質循環の中でできるだけ有効に利用して作物を生産する」という考え方に基づくものです。
畑作では作物を継続的に栽培、収穫を上げて行くためには、収穫物によって奪われる地力を補い続けなければなりません。 屋敷林は武蔵野台地を吹き抜ける冬の風から村人の生活を守り、開拓農民の手によって作られた「山」と呼ばれる雑木林は、防風林として畑の表土が風に吹き飛ばされるのを防ぐばかりではなく、薪などの燃料や落ち葉を集めての堆肥の畑への投入のためになくてはならないものでした。 開拓当初は畑の境界植物として植えられたウツギも19世紀初めに茶の木が導入されるようになると、ウツギに代わって植えられるようになり、防風潅木としての役割と共に、農民の現金収入にもつながる貴重な作物になりました。 項目毎にもう少し詳しい説明をしてみましょう。
1:土壌条件
関東ローム層は酸性で有機物の含量もすくなく、作物の栽培にとっては痩せた土地であり、水はけも悪く、雨が降ればぬかるみ、乾けば風に舞い上がる性質を持っていることは私達の日常の生活から経験的に知っています。 表土が冬の季節風(北風)や春先の南風に吹き飛ばされ空に舞い上がり、空を赤茶色に染める様子から「赤い風」とか「赤つ風」と呼ばれてきました。
2:水利条件
武蔵野台地には殆ど河川が無く、多くの新田の開発は玉川上水開削以後、分水が引かれるようになってから行われてきましたが、ここ、三富地区でも水利が無く、ただ、降雨時に比較的低い部分に水が流れ、それを砂川と呼んでいたことから、川越藩では野火止用水掘削による新田開拓に習って、玉川上水、更に、狭山丘陵の先端にある箱根ケ崎の池から水を引くことを試み、砂川堀を掘削したものの途中で水が絶え、失敗に終わり、この計画は中断されたとされています。
そのため、飲料水については、三富全域で藩によって11カ所の深井戸(22ー25メートル)が掘られて、共同井戸として利用されたのですが、夏の渇水期にはこの井戸も枯れ、数キロも離れた柳瀬川まで水を汲みに行ったといわれています。
3:屋敷と屋敷林
享保年間、八代将軍、吉宗によって推進された小平、国分寺、小金井周辺の新田開発にも見るように、屋敷は道路に沿って建てられ、敷地も農作業の空間として広く確保されています。 三富の地域では、屋敷の敷地は約50アール(5反)ほどで、屋敷を囲むように工夫された樹種により屋敷林が形成されています。 その役割は
A・防風の役割
B・ケヤキ、カシ、スギ、ヒノキ、タケなどを主体とした樹種は生活と密接に係わる活用がなされてきました。 俗に「屋敷の木は滅多に切るな。家が困った時に助けてくれる。」とも言われるほど大切に管理されて来たの
です。
4:耕地の工夫
耕地の中央部には農道が設けられ、農道の両側に畑が作られています。 三富新田では畑の区画を5アール(5畝)とし、これは男一日一人分の労働の目安とされたようです。 次の農家との境界には、開発当初はウツギが植えられたとされていますが、「畦畔茶」として茶の木が植えられるようになり、防風の役割を果たすと共に、茶の収穫により農家の現金収入となり、種や肥料の購入に当てたようです。
5:林「山」の機能
三富地域の林には「開拓の際、川越の殿様が楢の苗を、開拓農家に3本ずつ分け与えてくれ、それを植えてヤマを作った」という伝えが残されているようです。 「山」は前にも述べましたように、防風林として、燃料になる薪の採取場所として、肥料(堆肥)となる落葉の供給源として、武蔵野台地の開拓新田には無くてはならないものでした。
一般に、冬場の落葉かきでは「山」10アールから500Kgの落葉が確保できるとされています。 これが関東ロームの痩せた土地への有機物供給の堆肥として大きな役割を果たしてきたのです。 三富地域では5ヘクタールの地割りに対し、約2ヘクタール(町)の「山」が管理されてきました。 「山」の管理作業は、落ち葉かきの前に、必ず枯れた下草刈り、落ちた枝拾い、不要な樹種の芽立ち株の刈り取りなどが行われ、また、約20年程度のサイクルでの樹木の伐採が行われ、絶えず人の手によって管理がなされてきたのです。
江戸時代から明治の中頃まで続けられた武蔵野台地の農業は、まさに有機農業そのものであったといえましょう。 そこでは、雑木林と農民との共生が必須であり、雑木林は20年から25年毎に更新され、人の手による管理が続けられてきたのです。 国木田独歩が著書「武蔵野」で描いた武蔵野を代表する雑木林は遺産相続などによって切り売りされ、今では当時の雑木林の姿を見る場所も限られてしまいましたが、現在も残るそうした雑木林はなんとか保存して行きたいものですね。 これも先住者のエゴと言われてしまいそうですが、残すべきものは残してゆく行政としての主導が欲しいものです。
梅田 芳春
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