ジャガイモの遠い旅
南アメリカはアンデスの高地に自生していたジャガイモは何時ころからか、原住民の眼に
止まり、地下部に形成される芋が食用に供されるようになり、選抜が行われ13世紀頃に
は原住民にとってはなくてはならない食料として栽培されていたようです。 13世紀こ
ろの原住民の跡地からジャガイモの形を型どった壷などが発掘されていますことからも、
ジャガイモが彼等の生活の中で大きな位置を占めていたことがうかがわれます。

このジャガイモがヨーロッパに持ち込まれたのは一般に1560−1570年頃だとされ
ています。 北アメリカに入ったのは17世紀のはじめとする説もあるようですが、大量
に入ったのは18世紀になってからで、16世紀後半にイギリスに持ち込まれたものが、
アイルランドからの移民によって持ち込まれ広く栽培されるようになったとみるのが一般
的のようです。

イギリスに入ったジャガイモは比較的早く普及し、特に恒常的な食料不足に悩んでいたア
イルランドでは急速に普及栽培されるようになりました。 これが後のジャガイモ飢饉へ
と結び付くことにもなります。 ジャガイモが広く栽培されるようになりますと、ジャガ
イモの大敵である疫病が次第に広がるようになり、種芋を連年継続して利用してきたこと
から、疫病にたいしての抵抗性も低下して1843年から1847年の5年間にわたる疫
病の大発生により収穫は著しく減少し、多数の餓死者(20万人とも30万人ともいわれ
ています)を出す大惨事となり、国を捨てて多くのアイルランド人は新天地を求めアメリ
カ大陸へわたったのです。 その中に有名な暗殺された大統領のケネディー家の祖先もそ
の一人として加わっていたのでした。

ヨーロッパに入ったジャガイモは当初は好奇心を持って栽培されましたが、毒があるとい
う風説のためかなかなか思うようには広がって行きませんでした。 フランスでは時のル
イ十六世がこれを推奨するために、立入禁止の立札を建てて栽培し一般の人々の興味を引
こうと努力をしたりしますが、食用というよりも、ジャガイモの花が興味の中心となり、
紳士の襟元を飾ったり、また、マリー・アントワネットの髪飾りに用いられたりして、花
として栽培され、食用として栽培されるにはまだまだ年月を待たねばなりませんでした。

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ドイツでもこの作物は同じ頃に導入され、これに着目したのはフリードリッヒ大王で、一
般の農家に普及するために大変な努力を大王自らが進んでしたようです。

ヨーロッパ全土に普及栽培されるようになったのは18世紀に入ってからで、これは数回
の飢饉と戦争がきっかけともいわれています。 ジャガイモは収穫部地面の下に付けます
ので、戦争によって畑が荒されても麦等とはちがって収穫が出来、農民の生活を支えたと
いうなんともやりきれないことが理由とされています。

さて、フリードリッヒ大王はジャガイモに大変に関心を示し、ジャガイモが栽培し易く、
生産力が高く、この作物こそは食料の安定供給確保に役立つものだとの信念から普及に大
変な努力を惜しみませんでした。

ジャガイモは毒があるとの風評にたいして(実際、ジャガイモの芽にはソラニンという有
毒物質がふくまれていて、イギリスに導入された当初、エリザベス一世が中毒したといわ
れています。 芽の部分に有毒物質が含まれていることから、芽をだしたジャガイモを料
理するときには、芽を丁寧に取り除くことは今では常識になっています)宣伝につとめ、
各地の長官に命じて、

  「住宅の庭の片隅でも空き地であるならばジャガイモを植えさせよ。そして、
   毎年、5月に農民がジャガイモを植え付けているかどうか巡視せよ。」

とまで徹底して普及につとめました。
大王は自ら率先して直属のジャガイモ農場を作り一般に公開して普及につとめるばかりで
なく、機会のあるごとに自ら試食を実行しました。 宮殿のバルコニーや広場に食卓を用
意し、人々を集めてからその面前でジャガイモを食べて見せて、大王が食べた皿から集ま
った人々に分けて与え、「ジャガイモが毒だ」という風評の疑いを解くために大王自ら身
体をかけて普及に努めたのです。 そのかいあって、ジャガイモはドイツ国内に広く普及
し、農民の主食となり、今では皆さんもご存知のようにドイツ料理にはかかせない食品に
なったのです。

日本への渡来は16世紀末から17世紀の始め(慶長年間)にオランダ人により長崎へも
たらされたのが最初であるとされ、インドネシアを経由してきたことから、地名にもとず
いてジャワイモとかジャガタライモと呼ばれていたようです。

このジャガイモが日本で積極的な普及がなされたのは、18世紀にしばしば日本を襲った
飢饉、享保の飢饉(1733年)宝暦の飢饉(1755年)天明の飢饉(1784年)天
保の飢饉(1836年)により多くに人々が餓死したことから始まります。

こうした災害年次を契機として、ジャガイモはその適地である寒冷地へ、サツマイモは温
暖地へと普及の速度を早めていきました。 救荒作物として時の農学者等が一所懸命に普
及に務めた賜と言えましょう。 それまでは収穫が天候に左右され易い稲に栽培の主点を
置いていましたが、サツマイモやジャガイモの普及により、開拓した畑での収穫が保障さ
れるようになり、食の安定が保たれるようになりました。

高野長英(1804−1850年)はジャガイモの長所をあげて、「その一つは砂地、石
田、穀類熟せざる地にこのんで繁茂するなり。 その二つは、烈風、暴雨、久霖(長雨)
にあうて害をうけざるなり。 その三つは、繁殖容易にして人力を労することなし。 寸
地に耕し、尺地の収穫あり。 まことにもって荒年の善量(食物)というべし。」として、
ジャガイモの栽培を奨励したことは、当時の事情をよく物語っています。

ジャガイモの名称も年に2回も栽培できることから、ニドイモまたはサンドイモと呼ばれ
たり、一株当りの収穫が多いことからゴショウイモ(五升いも)とかハッショウイモ(八
升いも)とか、またその形からナシイモ(梨いも)、マンジュウイモ等の呼び名もあった
とされています。

ヨーロッパでは形からの名称が主流でフランスのポム・ド・テル POMME DE TERRE は
土の中に生えるリンゴですし、ドイツのカートッフェル  KARTOFFEL は西洋ショウロの
形から来た名称のようです。

ジャガイモを馬鈴薯と呼んだのは、中国では1700年の文献に、日本では1807年の
文献に初めて記載されたとされていますが、一般にはジャガタライモとがジャガイモに変
り、今ではジャガイモの名前が優先的に利用されていますね。   馬鈴薯の名前は指導機関
などが発行する印刷物に使われている場合が多いようですが、これにも決りはありません。

明治に入ってからは、北海道の開拓と共に新品種をアメリカから導入して栽培試験がなさ
れ、寒冷地の主要作物としていっきに広がって行きました。   ちなみに、わが国のジャガ
イモの栽培面積は、約12万ヘクタールほどで、そのうち約60%が北の北海道で栽培さ
れています。
                          うめだ よしはる


   夏の花へ