「青春を返せ裁判」

99.1.30 被控訴人(統一協会)の準備書面(一)


平成一〇年(ネ)第一五八号 損害賠償請求控訴事件
            控    訴   人  A         男
            被  控  訴  人  世界基督教統一神霊協会

  平成一一年五月六日

            右被控訴人代理人弁護士 和  島  登 志 雄
            同           鐘  築      優

 広島高等裁判所岡山支部 御 中

            準  備  書  面 ( 一 )

      控訴理由書に対する答弁及び被控訴人側の主張        <一頁> 第一 控訴理由書第一「マインドコントロールについて」に対する答弁及び被   控訴人側の主張  一 同第一の一の原判決の摘示部分については認め、原判決を批判した控訴   人側の主張は否認し争う。    控訴人は、原判決がマインド・コントロールについて「一定の行為を繰   り返し積み重ねることにより、相手に一定の思想を植え付けること」と捉   えている点について、控訴人らはそように定義しておらず「裁判所の定義   は誤っている。」と主張しているが、原判決が「一定の行為を繰り返し積   み重ねることにより、相手に一定の思想を植え付けること」と捉えていて   も、原判決の総合的判断を見ればそれは「誤り」などではないことは明白   である。原判決は、信者らによる勧誘、教化の課程について、一般論とし   ては一〇三頁ないし一一五頁において詳細に事実認定を行い、また、控訴   人A男については一一六頁ないし一五四頁で詳細な事実認定を行い、一五   六頁ないし一六〇頁でその事実認定に即して検討を加え、判断しているも
  のであって、この事実認定とその検討、判断に控訴人が主張するマインド<二頁>   ・コントロールの要件は含まれており、これらを総合的に検討し、マイン   ド・コントロールは「前示の原告(控訴人)A男の被告(被控訴人)法人   の教義、信仰の受容経緯に照らせば、同原告に対し主張の効果があったも   のとは俄に認められ」ないと判断しているものであって、原判決はマイン   ド・コントロールについて分かりやすく「一定の行為を繰り返し積み重ね   ることにより、相手に一定の思想を植え付けること」と要約しているので   あって、実際にはその要約以上に事実を詳細に検討し、判断をしているも   のである。    また、控訴人らは「裁判所が何らの科学的根拠もなく、専門家の証言を   聞こうともしないで勝手に非科学的判断をしたものである。科学を無視す   る裁判所の独断と偏見の結果である。」として「控訴審においては、この   点における控訴人の立証を採用すべきであり、裁判所も独断によらないで   素直に科学的な態度で対応すべきであると考える」と主張しているが、原   判決は「勝手に非科学的な判断」をしたのでもなく、「独断と偏見」の結
  果でもない。即ち、原判決は、二三頁ないし五二頁で控訴人らが主張する<三頁>   マインド・コントロールとその実体に詳細に記述し、その主張については   十分承知しているものであり、また、控訴人らの控訴人A男に対するマイ   ンド・コントロールついての主張は原判決書五二頁ないし七八頁に詳細に   記述されており、控訴人らの主張については、原審は十分に承知している   のであるが、そのような原告らの主張は採用できないと判断されているも   のであって、それは「勝手な非科学的な判断」でも「独断と偏見の結果」   でないことは明らかである。    そもそも、「科学的」態度を裁判所に要求する控訴人らであるが、控訴   人らは本件裁判を提起した当初、平成元年一一月二七日付訴状や準備書面   では、信者らの勧誘、教化行為を「洗脳」として、その「洗脳」について   の違法性を主張し、控訴人A男も「洗脳」を主張していたものであるが、   平成四年一〇月七日付原告(控訴人)側準備書面で「訴状においてはこの   「マインドコントロール」を「洗脳」という言葉で表現しているが「洗   脳」は誤解を受けやすい表現であるのでマインドコントロールと代える」
  (三頁八行目以下)と、「洗脳」との主張を「誤解を受けやすい」との一<四頁>   言で「マインド・コントロール」との主張に代えているものであって、そ   れまで原告主張の「洗脳」と新たな「マインド・コントロール」は科学的   にどのように関連するのか、同じなのか違うのか、同じならば「洗脳」と   いう言葉を「マインド・コントロール」に言い換えただけなのか、違うな   らば「洗脳」の違法性を主張し、それを根拠として提訴したその根拠自体   が全く変質するのであるから、その提訴自体をどう考えるのか等々に一切   言及しないまま、「科学的」態度を裁判所に要求する控訴人らの態度こそ   「非科学的」かつ「非論理的」で「独断と偏見」の主張でしかない。    また、後述するようにこの「マインド・コントロール」の概念は、アメ   リカの心理学会や宗教界でも、その科学性は否定されており、控訴人らが   証人申請していた西田公昭も、この概念が普及したものではなく、科学的   データが十分とは言えず、仮説であり、科学的結論ではない旨、再三述べ   ているものであって、原審が、「マインド・コントロール」について自ら   科学的根拠が希薄であると認めている西田を証人をして採用しなかったこ
  とは当然妥当であり、控訴人らの原審の判断への批判こそ不当である。 <五頁>  二 同第一の二の原判決の摘示部分については認め、原判決を批判した控訴   人の主張は否認し争う。    控訴人らは、原判決が信者らの勧誘・教化行為について「(原告は)そ   の各段階ごとに自ら真摯に思い悩んだ末に、自発的に宗教的な意思決定を   しているというほかはない」として、「いまだ社会的相当性を逸脱したも   のであるとまではいうことができない」と判断していることに対して、   「マインドコントロールの概念を裁判所が正確に捉えていないため、原告   が判断を求めてきたマインドコントロールの違法性について単純に「自発   的に宗教的な意思決定」があったとして、判断を避けている」とか「自発   的意志決定と思われるものの中に違法なマインドコントロールの結果であ   るものがあり、そのことの判断を原告は求めてきていたのである。そのこ   とについて前記判決は全く判断をしていない」などと批判するが、控訴人   の「判断を避けている」とか「判断をしていない」との原判決に対する批   判は不当である。
   なぜならば、原判決は、控訴人A男に対する勧誘、教化行為の事実関係<六頁>   について、総論的には甲第一六号証の1ないし7、第三一号証ないし第三   九号証、第八九号証の1及び2、第九〇号証ないし第九二号証、第九六号   証の1ないし3、第九八号証の1ないし16、第一〇二号証、第一〇四号証   の1ないし6、第一〇五号証、第一一二号証、証人N子の証言、原告   A男本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合して検討し、一〇一頁ないし一   一六頁において事実の認定を行い、また、各論として前記総論の認定事実   に加え、甲第一九号証、第二〇号証、第二三号証、第二五号証ないし第二   八号証、第九四号証、第九五号証、乙第一号証ないし第九号証、証人N子   の証言、原告A男本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合的に検討し、   一一七頁ないし一五四頁の事実認定をなしているものであり、原判決はこ   の事実認定をもとに、「(原告は)その各段階ごとに自ら真摯に思い悩ん   だ末に、自発的に宗教的な意思決定をしているというほかはない」として、   「いまだ社会的相当性を逸脱したものであるとまではいうことができな   い」と判断しているのであって、原判決は証拠に基づき十分に検討、評価
  し前記判断を行ったものであり、単なるマインド・コントロールという科<七頁>   学的根拠もない概念の捉え方による原判決に対する控訴人らの批判は全く   不当である。    また、控訴人らは、前記判断に当たって「原告の主張しているマインド   コントロールについて科学的知見とそれが及ぼす影響については宗教学者   らの意見に謙虚に耳を傾けるべきである」と主張するが、マインドコント   ロールについては既に述べたように原告らの申請していた証人西田公昭自   らがその概念自体が未だ普及していないと自認しているところのものであ   り、さらに、専門家と控訴人らが主張する西田が前記のごとく自認してい   るのに、ましてや宗教学者などは証人として全く不要で、これらの人物を   証人調べすることは、いたずらに時間を浪費し、裁判経費の増大を招くも   のである。    控訴人らはまた、「右事件の場合、原告の被害の実態について率直に耳   を傾ければあえてマインドコントロールという概念を使用しないでも一連   の不法行為として十分に把握しうるはずのものであった。…具体的行為そ
  のものを確立した法秩序から見ても許されるべきものでないことを明らか<八頁>   にしているのである。」として、「従って「マインドコントロール」につ   いて抽象的に判断したとしても裁判所は原告の主張に対して誠実に検討し   て判断したとは言えない」と主張するが、既に述べたように、原判決は、   甲号証及び乙号証の証拠及び証言、原告(控訴人)供述を総合的且つ詳細   に精査し、マインド・コントロールに付いてばかりでなく、原告(控訴   人)の主張についても誠実に検討し、その結果として「社会的に相当性を   逸脱したものであるとまではいうことができない」と判断しているもので   あって、控訴人らの原判決に対する批判は当たらない。  三 同第一の三の事実の主張については否認し、法的主張については争う。    控訴人らは「破壊的カルトによる被害は近年世界的に問題になっている。   日本においてもオウム真理教事件における高学歴の医師らが地下鉄サリン   事件を起こすなどの出来事からカルトによる危険なマインドコントロール   が社会問題となっている」と主張するが、控訴人らは破壊的カルト又はカ   ルトという言葉を何の定義もしないで情緒的、差別的に使っいるがこれは
  不当であり、控訴人らはこのような言葉を使用するときにはその学問的定<九頁>   義及び実際にどのような被害が問題になっているのかを具体的に提示し、   主張すべきである。    そもそも破壊的カルトまたはカルトという言葉は、米国においては新宗   教、新々宗教を差別する言葉として宗教界のみならず一般においてもその   使用は控えられているものであり、それを好んで使用するのは新宗教信者   に対するディプログラミング(逆洗脳)を行っている人物や団体及びその   支持者といった新宗教及びその信者に対する差別意識と差別思想を持った   人物らである。また、欧州においても新宗教に対する差別への見直しの機   運が高まっており、昨年六月には、新宗教に対する差別意識がとりわけ強   いドイツにおいてさえも、連邦議会は「ゼクト」と呼ばれる新宗教は他の   宗教と変わることはなく「ゼクト」(ドイツにおいてはカルトではなくゼ   クトの用語を使用)の言葉の使用をするべきではないと決定し、官庁やマ   スコミにおいても、蔑視の意味を含む言葉である「ゼクト」を使用できな   くなっている。(乙第一八号証一ないし四)
   このように世界の潮流はカルトなどの差別用語を使わない方向にあるに<一〇頁>   もかかわらず、本件裁判控訴人代理人らは好んでこのような差別用語をそ   の定義もしないままに使用しているが、このような差別用語の情緒的使用   こそ、本件裁判控訴人らの意識に内在する宗教に対する認識の欠如及び人   権意識欠如と差別意識の表れといっても過言ではない。    また、オウム真理教の事件において問題になっているのは、オウム真理   教信者の起こした地下鉄サリン事件等の刑事事件であって、そのマインド   ・コントロールが社会問題となっているものではない。一連のオウム真理   教事件における「マインド・コントロール」については、事件を起こした   被告の元信者の弁護人らが、事件を起こしたのはマインド・コントロール   の結果である旨主張したケースもあるが、これらはいずれも裁判で認めら   れておらず却下されており、刑事事件においてもマインド・コントロール   などという、責任逃れの概念は一切認められていないのである。    また、控訴人らの「一九八〇年代後半になって、カルト・マインドコン   トロールは強制的説得や思想改造の研究などに述べられている物理的な意
  味での身体的拘禁や拷問を用いず、…前記認定のように「一定の行為を繰<一一頁>   り返し積み重ねること」でもないことは明らかである」との主張について   は、控訴人らはマインド・コントロールの主張の根拠を、控訴理由書(そ   の二)の一九頁及び二〇頁にもあるようにスティーブ・ハッサンの主張に   おいていると思料するが、ハッサンは心理学者ではなく、その主張は科学   的理論として検証されたものもなく、新宗教の信者はマインド・コントロ   ールされているものとして、その団体からディプログラム(逆洗脳)する   ために、信者らを拉致・監禁してまで強制的に脱会させるような活動を正   当化する主張として現れたものであり、米国においては心理学等の専門家   に評価を受けるに値しない著書、主張として取り扱われてきたものとされ   ている(乙第一九号証リチャード・ケベドー「信教の自由に対する挑   戦」)。    なお、このハッサンの主張は、米国の心理学者マーガレット・シンガー   及び同サムエル・ベンソンの「強制的説得理論」によるところが大きいが、   この「強制的説得理論」は、個人の自由意思と判断能力を失わせるような
  社会的状況を組織的に作り出す活動を強制的説得と呼び、カルトにおいて<一二頁>   それが行われているとするものである。    しかし、このシンガーらの主張は、カリフォルニア州最高裁判所のモル   コ、リール事件(脱会した信者が、統一教会に入会したのは自由意思では   なく強制的説得によるもので、教会は賠償せよと訴えた事件)において同   裁判所に提出された米国心理学会(APA)の有力会員による一九八七年   八月一九日付法廷助言書(乙第二一号証)及び米国キリスト教協議会(N   CC)等の一九八七年二月二六日付法廷助言書(乙第二一号証)において   明確に否定されている。    また、最近では日本の宗教学者も、マインド・コントロールの概念は信   憑性が失われていること、アメリカの宗教学者の多くがこの概念を認めて   いないこと、マインド・コントロールの概念を前提としてのディプログラ   ミングという名の強制改宗(拉致監禁等)は、全米キリスト教会協議会も、   犯罪であり、世界人権宣言にも反するとしていること、更には、自発的に   やめたものと、ディプログラミングを受けたものとを比較すると、前者は
  精神の健全度を維持していものが多いが、後者には強度の不安や精神の不<一三頁>   安定さに脅かされている者が多いという調査結果となっていること、米国   においては、一九九〇年になり、この概念を前提としていた一部の学者が、   学会(米国心理学会、科学的宗教研究学会等)の共通した見解を反映して   いないという理由で法廷助言者から外されていることなどについての論文   を発表している(乙第二二号証の一,平成一〇年一二月一五日付新聞『中   外日報』掲載の南山大学教授渡邉学の論文)。    更に、マインド・コントロール論の曖昧さも正面から指摘されているの   である(乙第二三号証、平成一一年一月一日付新聞「中外日報」掲載の東   京大学教授島薗進の論文)。    このように、マインド・コントロールの概念は、内外の学者においてそ   の科学性は否定されるものであり、控訴人らがこの「仕組み」の研究者と   して名を挙げる西田公昭の研究(私論)についても、西田の鑑定書(甲四   五号証)の内容は、訴訟提起をしている控訴人らの主張事実のみを資料と   して作成されているもので、科学的信用性がないものである。すなわち、
  本来この種の鑑定には、控訴人ら主張のビデオセンターやセミナーの実際<一四頁>   の検証、信仰を持っている信者らの調査及びそれらの者と控訴人らとの比   較検討等の科学的調査、資料の収集及び検討が当然に要求されるものであ   り、それらなしに、控訴人らの主張事実のみを資料として結論づけること   はできないものである。    また、控訴人らは「マインドコントロールは物理的な意味での身体的拘   禁や拷問を用いないで情報や欲求をコントロールしてなされる考え方の変   化を導くものとされていることであり、多義的ではないし、前記認定のよ   うに「一定の行為を繰り返し積み重ねること」でもないことは明らかであ   る」と主張するが、前記シンガーやベンソンの主張とハッサンの主張は全   く同じではなく、また、西田も「ビリーフ」論を唱えているものであって、   同義とは言えず多義的であり、また、世上使われるマインド・コントロー   ルの用語に至っては、前記控訴人らの定義とは明らかにかけ離れて使用さ   れているものであり、原判決の「多義的」との判断を、控訴人らが批判す   るのは控訴人らの定義による主張からであって、原判決の「多義的」との
  判断は妥当であり、何ら批判されるべきものではない。        <一五頁>    また、控訴人らのいう「情報や欲求をコントロールしてなされる考え方   の変化を導く」ことを、原判決が「一定の行為を繰り返し積み重ねること   により相手に一定の思想を植え付ける」と捉えても、別にそれほど意味上   の変化はないものであり、既に述べたように原判決は実際の認定において   は、原告の前記主張以上の事実の検討をしているものであり、控訴人らの   原判決批判は不当である。    控訴人らはまた、被控訴人の実態やその中での控訴人らの損害、また被   控訴人らの目指すところ等々の実態に迫らないで違法行為を判断すること   はできないとし、「原審は「宗教の自由」を振りかざすことによってこの   判断を避けている」と主張するが、原審は原判決の五頁ないし九〇頁で、   控訴人らの主張を詳細にまとめており、原審は控訴人らの主張を十分承知   しているものであり、原判決は「宗教の自由」を振りかざして判断を避け   ているのではなく、控訴人らの主張は認められないと、明確に判断をして   いるものである。
                                   <一六頁> 第二 同第二「教義と原告意思決定の関わりについて」に対する答弁及び被控  訴人側の主張  一 同第二の一については、控訴人摘示の原判決については認め、控訴人他   の事実の主張は否認し、法的主張については争う。    控訴人らは「原告も、被告統一教会の教義の内容については判断を求め   てきたわけではない。しかし、被告の教義にふれて、原告の意思決定にど   のような影響があったかを判断することは信教の自由を何ら侵害したこと   にならないし、その教義との原告の意思決定・行動と関わりについて検討   しない限り、真に原告の意思決定の過程を明らかにすることはできない」   と主張するが、原判決が違法性の判断において「教義の原告の意思決定へ   の影響」について触れないことは当然である。    即ち、教義の原告の意思決定への影響とは「教義・信仰の内容」と言え   るものであり、これを判断することは、その教義そのものを判断すること   になるものであって、原判決は、憲法の「信教の自由」から「当該宗教の
  教義・信仰の内容の当否等については立ち入って判断すべきものではな <一七頁>   い」との立場を貫いているのである。    また、控訴人の主張する「教義の影響」は、当事者やその解説者によっ   てどのようにも解され、主観的要素に属すところのものであり、そのよう   な主観的内容を判断することは、教義それ自体の当否の判断にも及ぶもの   であり、裁判所が教義の影響を判断しないのは前記裁判所の立場からも当   然のことである。    そのことは、控訴人らの「原告がどのような恐怖感・不安感のなかで決   断せざるをえなかったかは、教義とは不可分である」との主張に如実に価   値判断を込めて主張しているものであり、このような主観的価値判断によ   る控訴人らの主張を、原審が「教義・信仰の内容の当否等に立ち入って判   断すべきものではない」との立場から判断しないのは当然のことであり、   「「教義自体の当否を判断する」ということと「教義を用いて心理的強制   ・詐欺的勧誘をしたことの違法性を判断する」ということを混同した結果
  である。右裁判所の考えは極めて特異な考えで言わざるをえない」との控<一八頁>   訴人らの主張こそ、信教の自由を解さないまたは曲解する特異な考えであ   ると言わざるをえない。  二 同第二の二ついては、控訴人側摘示の奈良判決の判断については否認し、   法的主張は争う。また、控訴人側の事実の主張については否認し、法的主   張については争う。    同第一段については、本件は控訴人らが主張しているようにいわゆる   「青春を返せ」裁判といわれるものであり、前記控訴人らが主張するよう   な「献金の違法性を巡る他の同種の裁判」と同じものではなく、全く異質   なものである。本件裁判では、控訴人らは勧誘、教化の過程即ち信仰受容   の過程及び信仰に基づく活動等々の違法性を主張しているものであり、献   金を巡る裁判とは全く主張が異なるものであって、同種の裁判などという   ものではなく、全く異質な裁判というものである。そして、前記献金を巡   る裁判においての判断は「詐欺もしくは脅迫などの違法な事実を認定する   に際し」たものではなく「被告信者の献金勧誘における違法性の有無につ
  いて」認定するに際して、教義との関わりにおいて判断しているものであ<一九頁>   り、その判断内容は全く事実を無視した杜撰で不当な判断である。    同第二段1及び第三段2の控訴人側摘示の奈良判決の判断は、統一教会   と信者の組織の関係の事実認定及び信者の活動、献金勧誘行為等の事実認   定が極めて杜撰であり、その杜撰な事実認定、「信教の自由」の偏狭な解   釈及び宗教自体に対する無理解から不当な判断を下しているものであるが、   当該裁判における控訴人統一教会は大阪高裁における控訴審で、その不当   性を立証するため関係者の証人申請を行いそれが認められ、審理が続行中   であるところ、控訴審裁判所は控訴人(統一教会)側の多数の証人の証言   を認めている点を見ても、控訴審が原審判決(奈良判決)の認定の当否に   極めて強い関心を抱いていることは明らかであり、そのような判決をもっ   てして、本件裁判において同様の判断を求めることは不当である。    また、同第四段で控訴人らは前記奈良判決の判断につき「被告統一協会   の万物復帰に触れ、それがどのように原告に影響を与えたかを判断してい   るのである。」とし、原判決について「前記判決は一切教義に触れようと
  しなかったが故に原告の恐怖・不安感・考え方の変容の過程を理解するこ<二〇頁>   とができなかった。マインドコントロールについても恐怖心・不安感ある   いは情報とのコントロールによって考え方の変容がなされるというメカニ   ズムに近寄れなかったのである」と批判するが、控訴人摘示の奈良判決は   万物復帰という教義内容を勝手に曲解した原告らの主張を鵜呑みにして、   事実にないことを認定しており、「信教の自由」をも侵害する全く不当な   判断である。その点において、原判決は、単なる控訴人側の主観的主張に   惑わされず、証拠に基づき事実に即して控訴人が信仰を受容する過程にお   ける控訴人及び被控訴人信者の行為を精査、検討し、判断しているもので   あって、原判決の判断方法こそ妥当であり、何ら批判されるものではない。    同第五段で控訴人らは「さらに、献金の違法性についても単純に「信者   が宗教団体に献金する行為は宗教的行為として意味づけられる」として、   具体的な教義に基づく恐怖心や不安感に基づいて献金を強いられた過程に   は触れないで、直ちに「いまだ社会的相当性を逸脱したとは言えない」と   判断している。裁判所の誤った前提が、その後の判断を回避する結果とな
  っている」と主張するが、前記控訴人らの主張は事実をねじ曲げており、<二一頁>   原判決が誤った前提により判断を回避している事実はない。    即ち、原判決は一六四頁ないし一六七頁の「(三) Bの主張について」の   項において「信者が宗教団体に献金する行為は、宗教的行為として意味づ   けられるものである。そして、前記認定事実によれば、原告A男は、被告   法人の教義、信仰を受容する過程において、自ら被告法人に対する献金が   有意義なものであると判断してこれを行ったものと認められる。もっとも、   原告A男がそのような判断をするについては、前記認定のとおり、K、   N子、S、Y、K2、H、K3ら被告法人関係者の宗教上の言説   による勧誘が大きな影響を与えていることは否定できず、その言説の中に   は、前示のように、「女性ばかりの家系はこの後途絶えてしまう。あなた   が今何とかしなければひどいことになる。」、「あなたの先祖は殿様だか   ら、あなたの先祖は相当人を苦しめたり、多くの女性を泣かしている。」   など、吉凶禍福を説いたり先祖の因縁や霊界に触れるものも含まれている。   しかしながら、前記(一)で判断したところによれば、被告法人の原告A男に
  対する勧誘、教化行為は全体として違法なものとはいえず、一般に、宗教<二二頁>   活動に伴う献金勧誘行為にあたって、多少なりとも吉凶禍福や先祖の因縁   話・霊界の話等が説かれる場合が多く、そのような言を用いて献金を求め   る行為一般を違法であると断じることは宗教に対する過度の干渉となるの   で許されないと解すべきであり、本件のそれが特に社会常識を逸脱したも   のとまではいえないのみならず、本件全証拠によるも、被告法人がその他   社会通念に反する合理性を欠く手段を弄したものとは認めるに足りず、さ   らに、献金額等その態様についてみても、原告A男の年齢や収入等に比し   て社会常識に反するものとまでは認められない」と、原告A男の献金に及   んだ過程についても詳細に認定し、「そうすると、被告法人が原告A男に   対して献金をさせた行為は、その目的、方法、結果を総合すれば、いまだ   社会的相当性を逸脱したものとまではいえない」と判断しているものであ   る。 第三 同第三「献金の違法性について」に対する答弁及び被控訴人側の主張
 一 同第三の一については、控訴人ら摘示の原判決の判断は認め、控訴人ら<二三頁>   の事実の主張については否認し、法的主張は争う。    控訴人らは控訴人が行った献金につき、原判決の前記判断を批判し、   「原告は、献金の損害は違法なマインドコントロールとして被告らの一体   的な一連の不法行為の結果発生したものであると主張している。少なくと   も献金を迫った点だけを捉えても十分に違法性があると主張しているもの   である」と主張しているが、原判決の判断は、控訴人A男に対する一連の   勧誘、教化行為及び献金の時点における行為についても検討し、判断して   いるものであって、「献金を迫った点」においても「いまだ社会的相当性   を逸脱したものとまではいえない」と判断しているものである。  二 同第三の二の「被告統一協会の献金の違法性については、…法益の侵害   の有無は法律上の争訟として積極的に判断しているのである」については、   事実の主張については否認し、法的主張については争う。    控訴人らは「被告統一協会の献金の違法性については、同種事案につい   て既に判例があり、しかも福岡地裁のケースは最高裁において既に確定し
  ているものである」と主張するが、既に述べたように福岡地裁を初めとす<二四頁>   る献金を巡る裁判と本件は同種裁判などではなく、全く異質な事案であり、   また、原告主張の献金を巡る裁判においても、被控訴人信者の献金勧誘行   為に社会的相当性を逸脱するものがありその違法性が問われたものであっ   て、被控訴人統一教会の献金の違法性が問われたのではない。    同二の1ないし4の判決は、それぞれ個別の献金勧誘に関わる事案であ   って、被控訴人信者の献金勧誘行為が全て違法の判決を受けているわけで   はない。また、被控訴人は前記四判決は事実認定を誤っており、不当な判   断を下していると考えるものである。本件において原審は、控訴人に対す   る献金勧誘行為について証拠等を精査、検討し、「いまだ社会的相当性を   逸脱したものとまではいえない」と判断しているものであって、その判断   は他の裁判と比して妥当である。  三 1 同第三の三の1の事実の主張については否認し争う。控訴人摘示の     原判決の判断は認める。      控訴人らは「原判決における原告も右各判決における原告と同様の
    経過をたどって献金に至っている(全国的に共通したマニュアルに基<二五頁>     づいて実践されているので被害も同じ経過をたどって発生することに     なる)」と主張するが、本件の証拠、控訴人供述及び証人の証言から     みても控訴人主張の各判決と同等などではないことは明らかである。      また、控訴人らは、「原判決においては、原告の恐怖の原因となっ     た「吉凶禍福や先祖の因縁話・霊界の話」を「一般を違法であると断     じることは宗教に対する過度の干渉となるので許されない」として、     違法性を認めなかった」と主張するが、控訴人A男の供述からも、     「吉凶禍福や先祖の因縁話・霊界の話」が恐怖の原因になった事実も     証拠もないことは明らかであり、原判決の判断は妥当である。    2 同三の2の事実の主張については否認し、法的主張については争う。      控訴人らは「原告に対する「吉凶禍福や先祖の因縁話・霊界の話」     は被告統一協会の教義に基づくものではない。教義とは関係のない嘘     の先祖の因縁話を述べているのである。単に原告を恐怖と不安に陥れ、     献金を出させる目的を実現させるものとしてなされたものであった。
    …右背景事実は前記判決の認めるところである」と主張するが、宗教<二六頁>     における勧誘、教化行為では、単に教義のみならずその理解を深める     ためにより分かりやすい身近な例や様々な宗教的内容が語られるもの     であり、被控訴人の信者がその勧誘において、吉凶禍福や先祖の因縁     等々を語ったとしてもそれは教義の理解を助けるためのものであって、     「教義に基づくものではない」とは言えないものであり、ましてや、     証拠も示さず「嘘の先祖の因縁話を述べているのである。単に原告を     恐怖と不安に陥れ、献金を出させる目的を実現させるものとしてなさ     れたものであった。」との主張は暴論である。      また、控訴人らは「右背景事実は前記判決の認めるところである」     と主張するが、控訴人A男に対しての献金勧誘について、原判決がそ     のような背景事実を認定していることはない。原判決は、控訴人A男     の献金について「原告A男は被告法人の教義、信仰を受容する過程に     おいて、自ら被告法人に対する献金が有意義なものであると判断して     これを行ったものと認められる」と認定しているもであって、控訴人
    A男は宗教的動機に基づいて主体的に献金を行ったと判断しているも<二七頁>     のである。確かに原判決は控訴人A男が前記判断をするについて「被     告法人関係者の宗教上の言説による勧誘が大きな影響を与えているこ     とは否定でき」ないとその影響を認めてはいるが、「本件のそれが特     に社会常識を逸脱したものとまでは言えないのみならず、本件全証拠     によるも、被告法人がその他社会通念に反する合理性を欠く手段を弄     したものとは認めるに足りず、さらに、献金額等その態様についてみ     ても、原告A男の年齢や収入等に比して社会常識に反するものとまで     は認められない」と判断しているものである。      また、控訴人らは「しかも、深夜にわたって長時間献金を迫ったの     である。二項で紹介した各判決の場合に比し、原告への献金の働きか     けが弱かった事情は全くない。例え教義に基づいたものであったとし     ても、原告の恐怖と極度の不安感がどのように醸成されていったのか、     そのことがきちんと判断されなければならない。この点について原判     決では全く触れられていない」と主張しているが、控訴人A男への献
    金勧誘に当たり被控訴人信者が控訴人A男に対して恐怖と極度の不安<二八頁>     感を醸成させた事実はなく、そのことは、原審における平成三年八月     二三日から平成五年二月一〇日までの六回に及ぶ原告(控訴人)本人     尋問からも明らかである。控訴人の「恐怖」や「極度の不安感」等々     の主張は、既に本人尋問及び証人尋問等の証拠調べが終わった後の結     審直前に提出された平成七年七月二三日付原告(控訴人)陳述書及び     同年七月二六日付準備書面で、原告(控訴人)A男に対し、献金に応     じなければ地獄に行く旨の脅迫行為がなされ、同原告(控訴人)は地     獄の苦しみと恐怖に背筋がぞっとする思いにかられ、ついに全財産を     献金することを決断する旨の主張から始まったものであるが、前記本     人尋問においてはこのような供述はなされておらず、また、控訴人ら     の主張に沿う証拠は全く見あたらず、原告(控訴人)の献金について     不法行為が成立するような事実を作り上げたと言わざるをえない。こ     のことについては、被控訴人の平成七年八月九日付最終準備書面の二     七頁ないし三二頁で十分立証したものである。
     原判決は「宗教的言説」と控訴人A男の献金の関係についても判断<二九頁>     しており、控訴人らの原判決に対する批判は不当である。    3 同三の3については、原判決に対する控訴人らの批判は不当であり、     事実の主張については否認し、法的主張については争う。      控訴人らは、原判決が「一般に宗教活動に伴う献金勧誘行為にあた     って、多少なりとも吉凶禍福や、先祖の因縁話・霊界の話等が説かれ     ることが多い」と認識していることに対して、「宗教であれば、教義     とは関係なく献金をさせる目的で先祖の因縁話に触れることがあって     も当然である、との認識は明らかに誤っている。宗教及びその実践者     である宗教者に対する冒涜である」と解釈、主張しているが、前記原     判決の認識は控訴人主張のような内容ではなく、控訴人らの解釈が曲     解であり不当であることは明白である。      献金勧誘行為において「先祖の因縁やたたり」を語ることについて     創価学会の西口浩副会長(広報室長)「『先祖の因縁やたたり』を強     調することがだめだというならば、ほとんどの仏教はなりたたないで
    しょう。寺院が葬式に際して戒名料を受け取ることも許されないわけ<三〇頁>     ですからね。『病気や健康の不安』だって、日本の宗教動機の一つで     す」と語っており、また、新宗連も「『先祖の因縁やたたり』は、日     本の宗教が古来からもってきた考え方です。『病気・健康の不安』も、     日常の信仰実践のなかでごく自然に話題にされている」(乙第一七号     証の二、仏教系月刊誌「大法輪」一〇月号二四頁)との認識を明らか     にしており、原判決の「一般に宗教活動に伴う献金勧誘行為にあたっ     て、多少なりとも吉凶禍福や先祖の因縁話・霊界の話等が説かれるこ     とが多い」との認識は妥当であり、宗教や宗教者に対しての冒涜など     とは言えないものである。      また、控訴人らが引き合いに出す献金裁判の判決においても、      「一般に、特定宗教の信者が存在の定かでない先祖の因縁や霊界等     の話を述べて献金を勧誘する行為は、その要求が社会的に見ても正当     な目的に基づくものであり、かつ、その方法や結果が社会通念に照ら     して相当である限り、宗教法人の正当な宗教的活動の範囲内にあるも
    のと認めるのが相当であって、何ら違法でないことは言うまでもな <三一頁>     い」(平成六年五月二七日福岡地裁判決)、「特定の宗教を信じるも     のが、当該宗教を広めるため、他人を説得し、その過程において、人     類一般に生じうる過酷な運命の到来を警告し、それを克服するため、     当該宗教の教義が信じるに足りる所以を説明すること、教祖又は宗教     上の指導者が過酷な運命から人類を救う超能力を備えることなどを説     明すること、更には、当該宗教活動を維持するために献金を求めるこ     とは、その方法が市民法の許容するものである限り、法律上の責任を     生じることはない。」(平成九年一〇月二四日東京地裁判決)と判断     しているものであって、本件原審の認識が誤っているとは言えない。      宗教行為であっても、社会的相当性を逸脱したことが明らかに認め     られる場合には民法上も違法性が問われることはあり得ることであり、     また、虚偽や脅迫が事実行為としてあれば刑法上の詐欺罪や脅迫罪が     成立することは当然である。しかしながら、原判決は、そうした認識     (一五五頁及び一五六頁)を明らかにした上で、控訴人A男に対する
    勧誘及び献金勧誘行為を詳細に検討し、「本件のそれが特に社会常識<三二頁>     を逸脱したものとまではいえないのみならず、本件全証拠によるも、     被告法人がその他社会通念に反する合理性を欠く手段を弄したものと     は認めるに足りず、さらに、献金額等その態様についてみても、原告     A男の年齢や収入等に比して社会常識に反するものとまでは認められ     ない」と判断しているものであって、原判決は宗教行為に対する判断     を避けてもいないし、従来の刑事・民事の判例の動向に反するもので     もない。      同三の3の@及びAの判決が出されている事実は認める。しかしな     がら、この二判決はそれぞれ個々の事件について具体的な事実関係と     証拠に基づいて判断されたものであって、本件とは事実関係も証拠も     全く別のものであり、原判決が具体的な事実関係と証拠に基づいて前     記判断をしたことは批判されるべきことではない。      また、控訴人らの「以上述べたとおり、…従来の判例の動向と対立     する不当な判断を下している」との主張は事実ではなく、本件と同種
    の「青春を返せ」裁判の平成一〇年三月二六日名古屋地裁判決では <三三頁>     「同原告に対する勧誘、教化行為は違法とはいえず、各の献金等を決     断するについては、宗教上の言説による勧誘によるところが大きかっ     たが、本件全証拠を精査しても、強制、その他社会通念に反するよう     な手段を弄したことを認めるに足りる証拠はない。…」として、右献     金等をさせたことは、その目的、方法、結果を総合して判断するとき、     いまだ社会的相当性を逸脱したとはいえない」(四六四頁)と判示し     ているものであり、勧誘、教化行為の過程における宗教的言説による     献金勧誘行為を違法とは判断していない。原判決においても、控訴人     らの主張を事実関係と証拠を精査、検討した上で、「社会的相当性を     逸脱したものとまではいえない」と判断してものであって、原判決の     判断は妥当である。
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