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毎日昼休み、三井造船の門前に立ち続けるゼッケンをつけた男性がいます

 その男性は、向野宏治(むかいの こうじ)さん、56才。

 1960年、向野さんは工業高校を卒業して玉野造船所(現・三井造船玉野事業所(註1))に入社しました。以来、ディーゼルエンジン部品の設計の仕事にたずさわり、設計の技術をみがいてきました。
 職場の仲間や演劇サークルの仲間と反戦平和について討論したり、原水爆禁止世界大会に参加するなかで、「平和な社会を作りたい」、「三井造船が軍事産業の一翼をになっているが、職場でものが言えないのは戦争の始まりだ」と強く感じるようになり、自分と同じ思いを持ち献身的に活動しているのが日本共産党であることを知り、20才の時にその党員になりました。そして、反戦平和の活動を続け、三井造船労働組合の玉野支部委員などを務めて従業員の要求を実現するために献身的に活動してきました。

 1967年、労組の会社寄りのメンバーは、会社の後押しで「選挙違反事件」をでっち上げて、会社寄りでない組合役員を攻撃し、排除してきました。そうして組合は、労働者の権利よりも会社の利益を重視する組織へと変質していきました。
 会社は、1978年、86年、87年と人減らしのための大「合理化」を計画し、労組は抵抗せず、それぞれ数百人から千人規模の大量の首切りを実行しました。

  1988年1月、三井造船は2100人規模の人減らし計画を発表して対象者に退職を強要。労働組合の反対はなく、9月末までに2091人が退職に追いやられました。
 88年1月、会社は向野さんに、岡山市内の下請け会社への出向(註2)を命じました。向野さんは、本人の同意なしに会社の都合だけで出向させられるのはおかしいと考え、出向命令を断りました。以後会社は、向野さんに新しい仕事を与えることを中止しました。7月からは、退職を強要してきました。

 1989年5月、会社は向野さんを労務直轄の「総務部付」に配転し、約7m2の隔離部屋(註3)にとじ込め、1時間おきに労務担当が来て退職を迫ったり、からかったりしました。仕事は、不要になった紙を利用したメモ用紙作り、英文の和訳(使い道がないもの)、グランドの草むしり(写真右)をさせられました。このように、会社は向野さんに、28年間の仕事経験がまったく活かされない単純・不要な労働をさせながら、「こんなこと家に帰って言えまあが(=言えないだろうが)」と執拗に出向や退職を迫りました(このような攻撃で、これまで多くの従業員が、苦悩し、退職させられてきました)。向野さんは8月、三井造船労組に対し、自分への人権侵害がなくなるように協力を要請しましたが、労組は協力を拒否しました。また、玉野労働基準監督署に隔離部屋の是正を申告しましたが、改善されませんでした。
 89年9月、会社は出向命令拒否を口実に、向野さんに「出勤停止5日、けん責」の懲戒処分を行いました。

 1990年10月、向野さんは、昼休み時間に、「三井造船は謝罪せよ、元の職場に戻せ」などと書いたゼッケン(註4)をつけて会社の正門前に立つ行動を始めました。
 すると、会社の守衛が数人やってきて、向野さんを引き倒したり、腕をねじ曲げて正門から排除し(写真左)、戻ってくる向野さんを追いかけ回してまた腕をねじ曲げて排除するなど、集団での暴行が数日間行われました。向野さんは、労基署に暴行の防止などを申告し、正門に立ち続けました。会社は、隔離部屋は続けながらも、暴行は中止し、単純な製図の仕事を与えはじめました。
 90年11月、向野さんらが、会社の人権侵害とたたかう仲間の全国交流集会に参加するために年休を取ろうとしたところ、会社は仕事をぶつけて参加を妨害。向野さんらは玉野労基署に妨害の是正などを申告し、同署は会社に、年休取得の改善を指導しました。
 90年11月、三井造船の同僚や地域の市民らが、「三井造船の人権侵害やめさす会」を結成しました。毎月1回、会社に抗議するため、数人の同僚が向野さんに並んで立つようになりました。

 92年11月、会社は、正門近くにあった隔離部屋を壊し、正門まで自転車で10分近くかかる場所にあったプレハブを新たな隔離部屋(註5)にしました。向野さんは、門前に立つ時間を確保するため、昼食をとることをやめて立つようにしました。
 93年9月、向野さんは岡山人権擁護委員協議会へ人権救済を申請しました。
 94年2月、同人権擁護委員協議会へ早期救済を要請。同協議会が立ち入り事情聴取を行いましたが、隔離部屋は改善されませんでした。
 隔離部屋では、製造部の課長がたまに仕事を持ってくるだけで、1人ぼっちの状態です。人と会話ができない苦しさは、私たちの想像を越えるものと思われます。会社は、この悪質な人権侵害を今も続けています。

 今も、毎日昼休みに向野さんは正門前にゼッケンをつけて立っています。週に1回は、国民救援会の会員が向野さんに並んで立っています。また、月に1回、月初めには三井造船の同僚が数人立ち、第2水曜日には国民救援会倉敷支部の会員数人が立ち、第3火曜日には国民救援会岡山県本部の会員数人が立ち、月の下旬には年金者組合玉野支部の組合員数人が立っています。立っている向野さんの前を通り過ぎる人も、会社ににらまれるのを気にしないで挨拶をする人が増えています。

註1・三井造船玉野事業所=岡山県南西部に位置する玉野市玉にあります。
註2・出向=籍は三井造船におき、基本給は保障しながら、仕事を子会社や下請企業に移し、その会社の労働条件に従わせること(土曜勤務などがあり所定労働時間が長くなるので、時間当たりの賃金など労働条件は低下する)。
註3・約7m2の隔離部屋=通路をベニヤ板で遮断して簡単なドアを付けた4畳半の部屋。
註4・ゼッケンには、次の文字が書かれています。片面=「人権侵害 謝罪せよ Apologize for The Infringement of The Human Rights.」、他面=「思想信条による差別をやめよ 職場隔離をやめよ 不当懲戒処分撤回せよ 原職復帰させよ Stop The Isolation. Reinstate Me in My Former Position.」
註5・新たな隔離部屋=正門から約2キロ離して建てられたプレハブ6畳の部屋。


闘ってこそ道はひらける −向野宏治−

 物心両面のご支援ありがとうございます。
 「職場に返せ!」「仕事をさせろ!」という闘いのなかで、隔離部屋に電話を付けさせ、最近は機械加工治具の設計などの仕事をしています。
 隔離部屋でひとり、人とはなしもできずに仕事をすることは大変な苦痛ですが、リストラと言う首きり・いじめで職場を去っていった働く仲間の、無念の思いを胸に「働くものの人権と尊厳を守れ」「人間らしく働きたい、そんな職場にしたい」とたたかいつづけています。 私を会社から追い出そうとした三井造船の初期のもくろみは、皆さんの支援で阻止していただきました。「人権侵害を謝罪し、職場復帰させよ!」の目標に向かって、ねばり強くたたかっていきます。三井造船のいじめをやめさせる声を大きくひろげてください。


2001年9月に向野さんは三井造船を退職しました。ご支援ありがとうございました。


 2004年5月14日、向野さんら12人が三井造船(株)に、極秘名簿などで差別されていたことに対し、文書で謝罪と損害賠償を求めました。

 2007年6月の株主総会で、「第三者による交渉で解決」することを確認しました。その後、数回の交渉の結果、2008年4月に合意に達しました。

 2008年5月17日、岡山県玉野市のダイヤモンド瀬戸内マリンホテルで、「三井造船争議 勝利解決報告集会」が160人の参加で開かれました。


次のホームページからリンクを張っていただきました。ありがとうございます。
法政大学大原社会問題研究所
日本共産党下関市議会議員近藤栄次郎
日本国民救援会

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