季刊・東ティモール No. 25 June 2007

追悼 アボ・マルタ
(※「アボ」とはテトゥン語でおばあさん、おじいさんの意味)

古沢希代子

 4月29日、日本でのスピーキングツアー(「女たちの歴史パネルを東ティモールに贈ろう!」キャンペーン)を終え、東ティモールに帰国したアンジェリーナ・アラウジョさん(東ティモール人権協会)から、マルタ・アブ・ベレさんが亡くなったとの電話がかかってきた。その日彼女がアボ・マルタのもとに駆けつけ、家族の方に確認したところ、アボが亡くなったのは同日午前4時頃、東ティモール西部のボボナロ県にある息子の家で家族全員にみまもられて逝かれた。家族の方たちには自分の闘いを引き継いでほしいと言われたそうである。

アボ・マルタの闘い

 アボ・マルタは、昨年2月に亡くなったエスメラルダ・ボエさんとともに、日本軍による性暴力被害を究明する活動の先駆者であり、日本と東ティモールの架け橋であり続けた。アボ・マルタとアボ・エスメラルダは、2000年に東京で開催された「日本軍性奴隷制を裁く〈女性国際戦犯法廷〉」で「慰安婦」にされた事実を初めて公にした。ふたりは証言の際に「法廷事務官」から「すべて真実を話しますか」と問われると、「私は日本見物に来たのではない。真実を話すためにやってきたのだ。裁きを求めにやってきたのだ。真実を話さずにどうするのだ」と口々に答え、会場から大喝采を受けた。その後ふたりはドキュメンタリー・ジャパンのインタビューを受け、NHKのETV特集「戦争をどう裁くか(第2回)」で放送される予定だった(※翻訳の確認と製作協力者の氏名出し確認まで済んでいた)。
 アボ・マルタは、2001年8月、かつて非道な暴力を受けたマロボ慰安所址での現場検証と証言の撮影に協力した。同年12月、8月に撮影されたVTRを携えてアボ・マルタはアボ・エスメラルダとオランダのハーグに飛び、「女性戦犯法廷」の最終判決を受け取った。
 アボ・マルタの外国行きはいつも寒い季節にぶつかった。東ティモールが独立した2002年の12月、アボ・マルタはアジアフォーラムの招待で再び来日し、大学の授業や集会でのお話、交流会、浅草見物を通じて多くの若者たちと交流した。国会議員とも面会した。
 マルタさんは、その飄々とした性格と80年代に病死した夫に関するトークでフォーラムの若者たちに愛された。アボ・マルタは夫から結婚を申し込まれた時すべてを打ち明けていた。女性軍には「男は顔で選んじゃだめだよ」と説き、話題がDV問題に及ぶと「夫の暴力なんて許さない。私がこうするのはありだけど」と殴るふりをし、皆を笑わせた。来日に同行した息子のミゲルさんは「アボの悲しい体験を聞くのは本当につらい。でもこれはうちのアボだけの悲劇ではない。アボの闘いは被害を受けたすべてのティモール人女性のための闘いだ」と語った。その後アボ・マルタの息子たちは近隣の村に住むドミンゴス・ダ・クルスさんというマロボ慰安所に関する証言者を探し出した。
互いにおもいあうこと
 私たちは決してアボ・マルタを忘れない。東京の九段会館で、拙宅で、ボボナロにあるアボの息子たちの家で、マロボの慰安所址で、アボが2005年5月に倒れた後はその病床で、アボ・マルタから受け取った言葉はずっと私たちの運動を支えてきた。なぜなら私たちはアボ・マルタから揺るがぬ「怒り」と「決意」を注入されてきたからだ。
 息子のミゲルさんとジョアンさんが探し出した証言者、ドミンゴス・ダ・クルスさん。ドミンゴスさんは日本軍から道路工事にかり出されていた時、ある女性からマロボ慰安所に連れていかれたという話を聞いていた。また、当時村のまとめ役をしていたドミンゴスさんの父は日本軍に女性を引き渡すように命令された。彼の父は戦後アタウロ島に流刑となり、そこで死亡した。

 アボ・マルタが被害にあった時、彼女はまだ幼くメンスもなく胸もふくらんでなかった。「10人の相手をさせられた後は、痛みがひどくて動くこともできない。まるで膣とアヌスがひとつになってしまった感じだった」と語った。「夜は兵士の相手、昼は道路建設という労働は動物以下だった、なぜって動物なら夜は眠れるから」と言った。「日本人の男も母親から生まれたのだろうに、なぜあんなひどいことができるのか」と怒った。アボ・マルタは来日を控えた当時のラモス・ホルタ外相に東ティモールで会うことも恐れなかった。自分の体験が地元メディアを通じて現地で多くの人に知られることもいとわなかった。
 昨年8月、マルタさんと会った時、マルタさんの右半身はほとんど動かなくなっていた。排便も抱えてもらわなくてはできない状態で「もう赤んぼうみたいだ」と笑った。「私はもうすぐ死ぬから、日本政府が心を改める時間はもうわずかだよ」と皮肉も言う。でも本当は遠路訪ねてきた者のために懸命に話し続けてくれているのだ。倒れてからすでに1年数ヵ月、アボ・マルタの身体はずい分と弱くなり、少し動くのもつらそうだった。私は「日本政府が何もしないから日本のグループと東ティモールのHAK(東ティモール人権協会)が全部の被害者への定期訪問を始めたよ」と報告した。少しはアボたちの生活の足しになるようなお土産つきのその訪問は、日本の普通の人たちの募金によって支えられていると説明した。またwamの東ティモール展が12月から始まり半年も続くと伝えた。これでまたアボの友だちが増えると励ました。マルタさんは「Sira hanoin hau. Hau Hanoin sira. Hanoin malu mak diak.(彼らが私をおもい、私が彼らをおもう。互いにおもいあうことことはよいねえ)」と応えた。100名以上の方に聞き取りをしてこれまでに確認できた被害者は15名。私たちはアボたちとの交流をかさね、信頼を築き、ともに闘う仲間となりたい。そしてマルタさんのこの言葉に報いたいと思う。


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