季刊・東ティモール No. 25 June 2007

信州で18年、
東ティモール支援活動の現場から見えたこと

東ティモール支援・信州 事務局
及川 稜乙

安曇野にお迎え

 アンジェリーナさんの講演会を信州で開催するにあたって、最初に決めたのは宿泊地を拙宅にしたいということでした。経費が節約できるという理由はむろんですが、なにより春の田植えが始まる4月下旬の安曇野の風景を見せてあげたいと思ったからです。この季節、私の家の窓からは、あたらしく水を張った田んぼが広がり、その水面に残雪をいただいた北アルプスの連山が映ります。何十年も見続けていてさえ飽きない、安曇野がもっとも安曇野らしく輝く光景です。それを、雪を知らないティモールの人たちが目にしたらなんと言うでしょう!
 また、わが家は日本人でも今ではほとんど住まなくなった茅葺屋根の古い造りになっており、屋根裏の煤けた垂木と茅がむき出しになった寝所は、壁にぐるりと貼ったタイス(ティモール特産の織物)と相俟ってなかなかの風情を醸し出しているのです。日本人の客人のなかには古材の感触が肌に会わない方々も多いようで、ときどき閉口なさったらしい感想が洩れ伝えてきます。ティモール人ならきっと喜んでくれるでしょう!

コーヒーの香り漂う集会

 講演会当日の会場では、参加者のみなさんにティモールコーヒーを提供しました。うちのかみさんが東ティモールから持ち帰ったコーヒー豆を、ちかごろ珈琲道修業中のわが二男坊が前日に選別し、フライパンで煎っておいたものです。受付のテーブルを即席のカウンターに拵え、挽きたてのコーヒーの香りがただよう中での集会になりました。おいしいと言っておかわりを求めてくださった方もいらっしゃいました。もっとも、おかわりができたとことはたいした人数が集まらなかったってことじゃないの、と突っ込まれそうですが、そのとおり安曇野会場の参加者は心配的中、予想下限の20人でした。

政治家よ、もっと関心を!

 講演会の期日が4月23日の月曜日と決まったところから、ちょっと集まりにくいかなとは思っていました。前日の22日は大町市や松本市、塩尻市などの議会議員選挙の投開票日にあたってしまい、過去の東ティモール集会の参加者の多くがなんらかの形で選挙運動にかかわっていたからです。それにしても、選挙のなかった安曇野市の議員が一人も見えなかったことはちゃんと記憶しておきたい。全議員宛個別に案内を封筒に入れ宛名を書いて議会事務局へ持参した上での結果でした。

ジャーナリストよ、もっと関心を!

 参加しなかった人たち、と言えば、じつはこの原稿、そのことを書きたくて引き受けたのです。
 東ティモール問題、というより東ティモールに関する日本人の問題というべきですが、私が約18年間かかわってきた中で痛感する最大のポイントは、この国のマスメディアの姿勢です。具体的に、ある記事をとりあげてどこがどう間違っているとか、かくかくしかじかの重大な事件を報道しなかったとかということは、これまで東ティモール全国協議会のメンバーなどが数多く指摘してきたのでここでは繰り返しません。【が、ひとつだけあげてみましょう:今この文を読んでいるあなた、あなたはシャナナ・グスマオ東ティモール民族抵抗評議会議長(のちの初代東ティモール民主共和国大統領)が1992年11月20日、東ティモールのディリで侵略者インドネシア軍に捉えられた時の報道を目にした記憶がありますか?】
 信州では、東ティモールがインドネシア支配下にあった1989年以来、今回のアンジェリーナさんまで、18人の東ティモールの人々が県内各地の公民館や教会や学校を訪れて講演会を重ねてきました。亡命先のポルトガル、アンゴラ、マカオ、オーストラリア、カナダなどから困難な状況を克服してやってきた彼ら彼女らに直接会ってその肉声に触れた長野県の人々は、私が記録しただけでもゆうに1000人を越えています。
 しかし、テレビ局による取材は皆無でした!
 かつてオリンピック招致活動を展開した長野県では、「国際化」を唱え「一校一国運動」なるものを推奨しました。テレビも県民に対する啓蒙活動に貢献すべく、外国人との交流の場面などを積極的に放映しました。一例をあげれば、わが大町市で、大町高校の生徒が家庭科の授業かなんかで(日本の伝統美を伝えるための)半被を贈り物として作ったと全局横並びで放映されました。が、同じ頃、大町北高校で2日にわたって授業をおこなった東ティモール青年はまったく無視されました。ちなみに、東ティモール人が学校を訪問して授業や集会をおこなったところは、大町北高校のほか、穂高中学校、伊那北高校、清泉女学院短期大学、信州豊南女子短期大学、信州大学、松本市内の予備校があり、信州の支援グループによる公式授業としては松本美須々ヶ丘高校、阿智中学校、大町北高校があります。
 アンジェリーナさんの報告集会をやはりテレビは取材に来ませんでした。テレビだけでなく、今回は新聞も社としての取材姿勢はゼロでした。結果的には長野県最大発行部数を誇る信濃毎日新聞の記者が個人的な関心から取材し、4月25日付けの紙面に載りましたが、私は、全国紙を含めた県内全社が報道することを避けた、いえ取材することさえ逃げたとみています。そう思う根拠は次のとおりです。
 集会に先立って私は、テレビ局(NHK長野ほか民放4社)を含めた報道機関20ヵ所へFAXを送りました。講演会の案内チラシと参考文書(「女たちの戦争と平和史料館」パンフレットから6枚)と以下の取材依頼文を全部送信するのに2時間以上かかりました。


取材依頼

長野県内報道各社(報道担当)各位

別紙のとおり4月23日(月)午後7時から、安曇野市穂高の安曇野市商工会穂高支所において、東ティモール人女性アンジェリーナ・デ・アラウジョさん(27歳)による講演会を開きます。

アジア太平洋戦争における日本軍のなかにあった性奴隷(いわゆる「慰安婦」)問題は、インドネシア、フィリピン、中国、韓国などの場合、政府間で一応の交渉が行なわれましたが、当時中立国であったポルトガルの植民地東ティモールに侵攻した日本軍の行為はまったく問われないまま放置されてきました。それゆえに、日本政府にとって東ティモールの従軍慰安婦問題は、どのように言い繕うとも「解決済み」と逃げることはできないのです。 女性国際戦犯法廷(2000年12月8、9、10、12日東京開催)を扱ったNHK番組で、削られた3分の中に東ティモール人証言者の部分があったことにも、東ティモール従軍慰安婦問題の特殊性重要性があらわれています。

今回の報告(講演会)は大阪、下関、東京、仙台、安曇野、と5ヶ所のみの開催となります。今後ふたたび同様の企画を立てるのは困難とおもわれます。ぜひこの機会に東ティモール問題のさらなるご理解のために取材いただきますようお願いします。

東ティモール支援・信州
上伊那郡南箕輪村9610-12
河崎宏和(代表)

今回企画担当・問合せ先
大町市社4095
及川稜乙(事務局


 読めばあきらかなように、私は報道関係者に対して、放映しろとも記事にしろとも圧力をかけたわけではありません。「従軍慰安婦」問題に関しては日本政府にとって非常に重要な意味をもつ東ティモールの事例についての現地調査者の直接の報告なのだから、せめて取材くらいはしてきちんと記録しておいてほしいと要望したのです。でも来なかった。否、だから来なかった、というのが本音でしょう。事の重大性を認識しながら報道を控えればジャーナリストとしての見識が問われる。さりとて報道すれば、政府筋から根拠があるのかと詰問されるかもしれない。最近、最高裁が中国人「慰安婦」たちに日本政府へ賠償を求める権利はないぞよと最後通告を下し、安倍晋三首相は目前に迫った訪問先の米国で鋭い追及を受けるかもしれない。そんな微妙な時期にわざわざ世間が気づいていないことを取り上げて、自国の政府の弱点をさらすことは国益を損なうとでも考えたのかもしれません。

 地元安曇野や松本では信濃毎日新聞にひけをとらない購読者数を擁する市民タイムスは、安曇野支社へ案内チラシを持って行ったさいには、直接支社長が話しを聞いてくれたうえ、催しものの事前の紹介記事と講演会を取材したあとの記事とどちらがいいかとまで言ってくれただけに、あとから他社同様の資料をFAXしたのは藪蛇だったかもしれません。大町市にいる朝日新聞記者がその日の出来事として翌24日の紙面に載せたのは、「給食 おしゃべり 花が咲く」の見出しで「大町西小学校の全校児童が、グラウンドの周囲に植えられた満開のソメイヨシノの下で『お花見給食』を楽しんだ=写真」というものでした。この記者にもかなり前に案内を手渡ししてあったのだが、関心をもってはもらえなかったようです。

 新聞記者がみんな意気地なしだなどとけなしたいのではありません。かつては、そして今も個人としては尊敬に値する見識と力量を備えた記者たちがいることを、私は指折り名を挙げることができます。しかし巨大な組織の内部で、残り少なくなったジャーナリスト魂は今や風前の灯となっているように思えてなりません。東ティモール問題において私たち日本人が良心を示すことができるかどうか、それは、私たち日本人が民族として生き残れるかどうかという問題だと思います。その答えは将来そう遠くないうちにあきらかになりそうな気がします。


ニュース

バリボ・ジャーナリスト殺害事件の「検死法廷」

 1975年10月16日、国境を越えて攻めてくるインドネシア軍の秘密部隊と東ティモール人民兵を取材しようと、オーストラリアのテレビ局員5人が、東ティモールの国境近くの町バリボにいた。しかし彼らは全員そこで死亡した。インドネシアは銃撃戦の中で死んだと主張したが、長年遺族らは真相の究明を求め続けた。
 それが昨年来、シドニーの「検死法廷(coroner's court)」で死んだ5人のジャーナリストの一人、ブライアン・ピーターズの死の真相をめぐる審理が始まった。当時の政府高官、インドネシア軍の無電傍受に関わった人たちが法廷にやってきて、ジャーナリストたちが意図的に殺害されたという証言をした。そして、たまたまシドニーを訪問していたジャカルタ知事のスティヨソは、当時のバリボ進撃作戦に参加した司令官だった。その彼に突然裁判所の呼び出しがあり、ホテルの部屋で寝ていたところに警官に押し入られ、彼はいたく憤慨したという。インドネシア・オーストラリアの外交問題にまで発展した。
 それにしても、30年以上も、ジャーナリストの死の真相を追求するオーストラリアの報道界の姿勢には脱帽する。国は、外交のためなら、自国のジャーナリストの命などなんとも思っていない。彼らはそういう政府の態度を追求している。それはジャーナリズム全体に関わる問題なのだ。


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