季刊・東ティモール No. 25 June 2007

Angelina の場合

及川てい子

★ このアンジェリーナさんは、スピーキングツアーで来日したアンジェリーナさんとは違う方です。

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2002年の2月末、6ヶ月に渡る東ティモール滞在の1週間をともに過ごそうと、私の息子と娘が Mantane(私が住んだ村でマンタネと発音する)に来ていた。一緒に朝食をすませた矢先に、Angelinaが一人でやって来た。(Angelinaは2週間前に初めて妊娠の検診に来た。骨盤位だったので、お産は病院でするように、と話してあった)
 内診をすると、子宮口は5cm 開いて、しっかりと陣痛がある。オヤオヤ、病院に行ってる間がないゾ。(病院まで3km だけど車があるわけではなく、歩いていかなければならない)骨盤位の分娩は、日本では医師が行い、今はほとんど帝王切開になる。私は助産婦学校で理論だけは教わったが、実際に骨盤位の分娩介助をしたことがない。チョット不安。

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 息子にシコさんを呼んできてもらって、Angelina の夫を連れてくるように頼むと、シコさんは、この家で産んではいけないと言う。(インドネシア占領時代に動物病院だったという家を、私は月50ドルで借りて住んでいた)
 もうすぐお産になるからここで産むしかないヨと声を荒げてシコさんを追い出して(ゴメンナ)私自身もヤルッキャナイヨと覚悟を決めた。
 寝室が分娩室になった。Angelina の、夫ではなく母親がやって来た。Timor でお産の手伝いをして、産婦の廻りの女性達がやたらにいきませるのを知っていた。私が「いきんだらあかんよ」と言うと、ニッと笑ってうなづいて、産婦に向かって「いきめ」と言う。(Tetun 語を私がわからないと思っているにちがいない)
 今回は初めから、いきんだらあかんで、と釘をさしたらおとなしくしている。(後でわかったが、Angelina の母親は気の優しいおとなしい人だった) 2時間足らずで、男の子が無事に生まれ・・・てくれた。ホッ、神さまありがとう。
 ありあわせの昼食を食べて、Angelina は小さな赤ちゃんを抱いて帰って行った。Angelina とのつきあいはこうして始まった。

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 Angelina の家は村の東のはずれ、眼下にai-bubur(ユーカリの種類)の森が広がり、いつも風がふきわたる丘の上にある。
 お産の後、Angelina に会うことなく私は日本に帰り、2003年再度村を訪ねた。東の方を流れる川に洗濯と水浴に行く時にいつも気になる家があった。そこで Angelina の姿を見つけて知ったのだ。
 丘のてっぺんが整地されて、コンクリートの柱にトタンの屋根だけがのっかっていた。工事はそこでストップされて、その先がいつになっても始まらないことが見えた。造りはじめなのにうち捨てられた、なにかやりきれない空気があった。すぐそばのトタン屋根、竹壁のほったて小屋のような家のまわりで子供達が遊んでいた。

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 1999年の騒乱のとき、Angelina はクーパンに逃れ(?)た。3ヶ月後に帰って来て、夫と畑作をしている。現金収入は無いに等しい。子供を何人欲しいのか尋ねると「神様におまかせ」と答えた。そして Angelina は 5人目の子を産んだ。
 2004年に訪れた時、丘の上の家がまだそのままになっているのが私はどうにも我慢できなくなった。子供達は祖母の家に寝泊りしていた。私は Angelina と家の見積もりをはじめた。300ドルでできる。工事はAngelina の夫が一人で全部やる。
 2005年、丘の上に家らしい家が建っていた。コンクリートの壁で仕切られた 4つの部屋、床はまだ土間、電気もない。夜は暗いので子供達が勉強できないと Angelina が嘆く。この村は夕方6時から夜中12時まで電気が来る。Timor の中では電気の供給はとても良い方だ。どこにあるかわからない(村の人に聞いても知らない)発電所から来るらしい(?)太い電線からある家(少し裕福な)に電線が引かれ、その家のメーターを通過し、その家の隣の家、また隣の家までも細い電線が引っぱられてゆく。いつか私が住んでいた家の隣人がやって来て、電気のスイッチを切らないでくれと言った。私の家のスイッチが隣家にも影響があるなんてビックリしたことがあった。2001年に初めてこの村に住みついた時、村の人は電気代も水道代も医療費も払ってなくて、私は、Timor はすばらしい福祉国家だと感動した。実は国連の暫定統治下で、全てが外国の援助で成り立っていたから出来ただけのことだった。独立して、電気料金を払うことになって、貧しい村人は倹約して薄暗い電燈で夜を過ごしている。そんな2005年に Angelina の家に電燈をつけようと、私は100mの電線と電球を買った。

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 2006年の訪問
 Angelina は6人目の子供を身籠っていた。生活が苦しいので助けて欲しいと言った。苦しいのはあなただけではない、私は生活のためのお金をあげられないけど Angelina のつくった野菜を買うことはできるので、食べきれない野菜を持っておいで、と言ったら 3日おきに菜っぱを持ってきた。
 土間の床をコンクリートにしたいと言って来た。セメントを買った。砂も、石も、と言ってくる。砂と石は近くの川から運べばいいではないか。Angelina の夫は何をしているのか、と半ば腹が立った。
 人は何の希望もないとやる気を無くしてしまう。だから Angelina の夫 の意欲を引き出そうと思って、家造りの手助けを始めた。欲が出てきて家造りの続きを自力でやり出すのを期待した。話をするのはいつも Angelina とだったが、私は彼女の後の見えない夫の動きを気にしていた。自分が傲慢になっていくのを感じた。じゃあ、私が砂を運ぼう、毎日2往復でも10日で運べるだろうと思って、私の一輪車を見たらパンクしている。Angelina の一輪車は車輪のボールベアリングが壊れて使いものにならない。シコさんは、「タイヤは修理できる」と言いながら、自分に係わりのないことは一向にやってくれない。日本ではのん気な私が、Timor ではとても短気だ。Angelina の一輪車を修理するために、首都 Dili にしかないという部品を、丁度 Dili に出かけるシコさんに買って来るように頼んだ。手ぶらで帰ったシコさんは、Dili の町は恐くで買い物できなかった。小さな部品のために命を落としたくない、というのが言い分だった。
 Dili の不穏な状況は、こんな田舎の小さなことにまで影響していた。

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 3ヶ月 Timor にいると Timor の人に似てくる(?)のか、やることが中途半パでも気にしなくなる。気にするなと自分に言いきかせている。Angelina は何とかするさ。何とかしなくても どうってことないサ、とやけに無責任な開放感と一緒に日本に帰ってきた。カインズホームで売られている一輪車を見ると、チョッピリ胸が痛むこの頃です。

【ひとこと】Angelina という名前は東ティモールではとても多いのです。2007年春に来日したアンジェリーナさん(27歳)とは関係がありません


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