季刊・東ティモール No. 23, November 2006

国連独立調査委員会報告書

松野明久

4月から6月にかけての騒乱の真相に関する国連独立調査委員会の報告書が、10月17日やっと公開された。報告書は、騒乱の事実をかなりな程度明らかにし、責任者を100人以上名指しであげ、訴追などの措置を勧告した。


枠組

 「国連東ティモール独立調査委員会」は東ティモール政府の要請にもとづいて設置された。当時のラモス・ホルタ外相が6月8日、国連事務総長に委員会の設置を要請したのが始まりだ。6月20日には安保理が委員会設置を歓迎し、国連人権高等弁務官事務所がこれを管轄することになった。国連事務総長によって選ばれた委員は、パウロ・セルジオ・ピニェイロ(ブラジル)、ゼルダ・ホルツマン(南ア)、ラルフ・ザクイン(イギリス)の3人。事務局はディリの元国連合同事務所(カイコリ)内におかれ、7月7日にジュネーブからのスタッフを迎えて実際の業務が開始された。
 委員会のマンデート(任務)は4つ。(1)4月28-29日、5月24-25日のできごとなど危機にいたった経緯の事実と状況を、治安部門の機能不全を含め、明らかにすること、(2)これらのできごとの責任を明確にすること、(3)犯罪及び重大な人権侵害の責任を追及するための方策を提言すること、(4)設立から3ヶ月以内に国連人権高等弁務官及び東ティモール国会を通じて調査結果を報告すること。
 委員会が採用した証明基準についてふれておいた方がいいだろう。委員会は司法機関ではないので、犯罪性については通常要求される「合理的な疑いの余地のない」証明基準を採用せず、むしろ「合理的な疑い」を基準とした。つまり、委員会は合理的に疑わしいかどうかという基準で責任を論じたということだ。
 さて、調査においては、委員会は200以上のインタビューを行ない、1,000以上の文書を検討した。また、要請した面談はすべてかなえられ、政府、軍、警察、国連、NGOなど各方面から十分な協力を得ることができたと書かれている。

危機の展開過程

 報告書は危機の展開過程を次のように記述している。

政府庁舎での発砲
 4月24-28日の請願者たち(差別撤廃を要求するサルジニャ中尉率いる兵士たち)のデモは、2日目からコリマウ2000(山地に拠点をおく反政府グループ)が加わって混乱をきたすようになった。25日、レシデレの海岸で青年が襲われ、タイベシの市場では東部人の店が燃やされるという事件がおきた。その日、コリマウ2000の指導者オゾリオ・レキは、市場への襲撃を警察がやめさせることができなければ群衆を動員する、政権交代を実現するために暴力を使うなどと演説した。サルジニャ中尉は、翌日、またオゾリオ・レキに演説を許したが、その時、オゾリオは東部人を排撃する扇動的な演説を行なった。首相はこのオゾリオの存在、彼の反政府的な演説について、知らされていた。
 27日、サルジニャ中尉はマリ首相など政府指導者と会合をもち、首相はそこで3ヶ月間の政府委員会が調査を行なうという提案をした。サルジニャ中尉は請願者たちのところ(政府庁舎近くに集まっている)に行って演説するよう求めたが、これは首相は拒否した。ホルタ外相が翌日演説を行なうと約束した。
 28日、しかし、ホルタ外相は朝9時にあらわれなかった。外相は午後3時に約束したつもりであって、9時ではなかったと記憶しているが、請願者と群衆はがまんできなくなって、11時半には石を投げ始める者がでた。そして群衆は急にふくれあがり、サルジニャ中尉は群衆の怒りを静めることができなくなってしまった。警察は動員されたが、数が十分でなく、群衆が政府庁舎に押し寄せて、横断幕を広げ始めた。
 マリ首相は10時頃レレ・アナン・ティモール参謀長に電話して(タウル司令官は外遊中)軍を待機させるよう命じた。レレ参謀長はバウバウの第一大隊から2小隊を待機とした。情勢の悪化を受けて11時に首相はレレ参謀長に電話し、警察を支援するため、憲兵隊の派遣を命じた。首相は大統領に電話してもらい、サルジニャ中尉から群衆をコントロールし、請願者を退去させるという約束をとりつけた。昼頃、シャナナ大統領、マリ首相、ロバト内相はホテル・ティモールで会った際、情勢を議論した。しかし、彼らの委員会に対する証言は食い違っている。首相は大統領に警察はすでに崩壊しており軍に援助を要請する必要があると言ったと述べているが、大統領は軍を呼ぶという話はなかったと述べている。
 昼頃、抗議の群衆は政府庁舎に向かった。警察のブロッケードはこの時点で崩壊し、警官は散り散りになってしまった。一方、政府庁舎には機動隊が、旧「ヘロー・ミスター」スーパーマーケットの交差点には機動隊と憲兵隊が警備に立った。しかし、群衆は政府庁舎を襲撃し、車を燃やし、一階部分を略奪した。警官が山刀で襲われ、「撃てるものなら撃ってみろ」と叫ぶ者もいた。パウロ・マルティンス警察長官が現場に到着し、催涙ガスの使用を認めた。彼は発砲を許可はしなかったと述べているが、警官は発砲した。その結果、午後1時半には群衆は解散したものの、2人の民間人が死亡、3人の民間人と1人の警官が銃弾で負傷した。

コモロ市場での発砲
 28日、政府庁舎から警察と国連警察に付き添われてタシトルへ戻る途中、デモ参加者たちはコモロ市場の前を通りかかった。その時、ある大勢の集団がデモ隊に近づき、一人の機動隊員に石を投げた。その機動隊員はそれで少なくとも6発発砲し、一部は群衆に向けて発砲した。それから機動隊がコモロと空港近くのロータリーに急派されたが、コモロでは機動隊が群衆に襲撃された。請願者たちは機動隊があけてくれた道路をタシトルに向かって進むことができたが、コモロ市場のところで、発砲に遭遇した。発砲は、彼らに付き添っている機動隊と群衆の両方からやってきた。民間人1人が死亡し、8人の民間人が銃弾で負傷した。


ライ・コトゥでの発砲
 コモロを過ぎてデモ隊はタシトルへ向かった。しかし、一部は山の方角に散り散りになり、東部人の家を100軒ほど燃やした。ライ・コトゥには弓矢をもったデモ隊が終結し、タイヤを燃やしてバリケードをつくった。そこを軍の車が通った時、デモ隊は手りゅう弾を投げ、兵士がこれに発砲で応えた。5分間に渡って100発が発せられた。その結果、1人の民間人が死亡、1人の兵士が手りゅう弾の爆発で指に傷を負った。

軍動員の正当性
 4月28日に首相の自宅で開かれた会議には、首相、内相、国防相、行政相(アナ・ペソア)、参謀長、警察長官が出席し、軍の動員を決定した。この会議にホルタ外相は呼ばれず、会議中、大統領にも連絡はなかった。この2人には翌朝、連絡された。
 その後、首相は5月11日の国会への報告で、このときの軍動員の決定は、2004年11号政令と憲法115条(1)(c)にそったものだと説明している(政府は公的秩序と規律を維持することを任務とするという箇所)。しかし、軍動員の命令は文書によってはなされず、危機について公式の宣言が出されたわけでもない。いずれにせよ、この決定より前に、軍は動員されており、憲兵隊が警備にあたり、ライ・コトゥでは軍兵士が銃撃に関わっている(これはバウカウの第一大隊からスタンバイ要員として派遣された2小隊のひとつ)。
 翌29日、警察と軍は一緒にパトロールを行なった。しかし、彼らはその時異なる目的をもっていた。警察は、請願者たちは動き回ったりするのでなければ逮捕はせず、請願者を捕まえる作戦はないというものだった。一方、軍は請願者を捜索してまわり、逃げようとしたら撃てと命令されていた。
レイナド少佐の離脱
 軍憲兵隊は警察と一緒にディリ市内をパトロールしていたが、5月3日、アルフレド・レイナド憲兵隊長が突然職務を放棄してエルメラに行ったことで、パトロールはなくなった。これに先立ち、軍の動員を知ったタウル司令官(バリに滞在中)はすぐにディリに帰り、4月29日の首相宅での会議に参加した。そこで軍の撤退が決定されたが、すぐには実行されず、5月4日まで軍は動員され続けていた。
 レイナド少佐は武器・弾薬をもってエルメラに行き、請願者たちと会ったが、意見が異なっていたようで、彼らはアイレウに移動した。レイナド少佐は委員会に対して最高司令官としてのシャナナ大統領に忠誠を誓っていたというが、4月28日以降、軍が市民を管理するという書かれた命令書はない。大統領はレイナド少佐と連絡を保っていたが、それはレイナド少佐をコントロールしようとする意図からであり、レイナド少佐が大統領の許可を得て、犯罪行為に及んでいたということではない。レイナド少佐率いるグループには、警官、国境警備隊(警察の部局)、軍通常兵士などが加わっていた。

ファトゥ・アヒの銃撃戦
 ファトゥ・アヒ地区の銃撃戦は5月末の治安悪化、難民増加の原因となった事件だ。5月22日、警察・軍は、警察予備隊の隊員たちがファトゥ・アヒで東部人・西部人の問題について扇動しているとの情報を得て、共同で監視ポストをつくる計画を立て、翌日、ファルール中佐指揮下の9人の第一大隊兵士が警察と合流する目的でファトゥ・アヒに到着した。しかし、その日の午前9時、レイナド少佐のグループ(12人)がファトゥ・アヒに来ていて記者のインタビューを受けていた。そこでこの2つのグループの間に銃撃戦が始まったが、記者の録画テープによると、レイナド少佐側が軍兵士に10数える間に退去せよと命じ、それを聞かなかったとして発砲を始めたことが記録されている。ファルール大佐は兵士に応戦を命じつつ、応援を呼んだ。銃撃戦は夜まで続き、応援にかけつけた兵士たちを含め、合計5人が死亡、10人が負傷するという大きな事件になった。

タシトル、ティバルの銃撃戦
 5月19日頃からタシトル、ティバル丘陵当たりに不穏な動きを感じ取った軍が、24日にパトロールを行なったところ、高いポジションからの銃撃にさらされた。これはリキサの警官、請願者、ライロスグループ(フレテリンが武装したとされる民兵)のメンバーだった。銃撃戦は夕方まで続いた。翌日は朝から銃撃戦が始まり、結局、9人が死亡、3人が負傷した。

タウル司令官宅襲撃
 5月24日、軍警備班が警備をしていたタウル司令官宅に向かって、アビリオ・メスキタディリ警察副長官率いる10人程度の警察官のグループが発砲し、銃撃戦になった。それは夕方5時まで続き、1人の警官が死亡した。その日の午後、タウルは野党社民党議員レアンドロ・イザークに電話し、アビリオ・メスキタに連絡をとってもらって、子どもたちを避難させるための一時的停戦を行なった。イザークもSteyr社製の銃で武装していた。銃撃戦は25日も朝から夕方まで続いた。

警察本部投降警官射殺事件
 5月25日に警察本部外で投降した警察官が兵士に射殺された事件は、一連の経過の中でもひときわ深刻な事件だった。これによって軍と警察の対立は決定的となった。
 5月24日の段階で、警察と軍はお互いを疑うようになっていた。軍が警察を襲撃するとの噂が広まっており、25日午前2時、軍の指揮下で動いていた警察副長官(事務担当)リノ・サルダニャが上司に、軍が警察本部へやってきて警官を殺す計画だという情報を伝えた。24日夜から25日にかけて、軍は200人余りの民間人と警官を武装させ、ディリ各地に配置した。25日の朝、警官の車がコモロの「リーダー」スーパーマーケットを通りかかった際、警備していた軍がこれに発砲した。これは警官をパニックに陥れ、警官たちは本部に返って、応戦体制に入った。警察も軍も先に攻撃したのは相手だと言っているが、委員会は発砲を始めたのは軍の方だと考える。
 午前11時頃、軍の車が警察本部の前を通った。その時、警察は警告砲を一発撃った。すぐにPKFビルにいた軍から、2発の手りゅう弾が警察本部に投げられ、それで3人の警官が負傷した。警察は応戦し、銃撃戦になった。軍は警察本部の東西南北に兵を配置し、6人の兵士からなるグループが法務省の交差点(ここで殺人が起きる)に立った。
 実は、警察本部には国連文民警察官が5人いて、彼らは身動きがとれなくなっていた。国連警察の上級アドバイザー、サイフ・マリクはこの事態を知り、また警察が停戦をしたがっているが軍と連絡がつかないということを知って、軍首席アドバイザーのレイス大佐と一緒に、長谷川代表の許可をえて事態に介入することにした。
 レイス大佐はPKFビルに出かけ、タウル司令官と話をして、停戦の合意をえた。停戦合意は現場の兵士に伝えられた。マリク警官他国連警察官が警察本部に到着し、警官を武装解除した上で、国連車が並んだ道路上に整列させた。ところが、この頃、リカルド・ブレという兵士が警察本部内からの発砲で死亡するという事件がおきていた。レイス大佐は警察官を警察本部から法務省の交差点に向けて誘導した。このとき、一人の兵士が興奮した様子で警官の列の中に誰かをさがしていた。それでマリク警官が興奮した兵士に話をしようとしたところ、兵士は横へ移動して、警察官たちに向かって発砲した。交差点の3方向から発砲があった。兵士たちは地面に倒れていた(伏していた)警察官に向かって発砲した。少なくとも6人の兵士がこの発砲に加わっている。発砲は2、3分続き、100発以上が発せられた。この発砲で8人の警官が死亡、27人が重傷を負った。マリクは負傷者をオブリガード・バラックに避難させ、発砲した兵士たちはタウル司令官の前に連れて行かれた。タウルしれ官はこの事件については謝罪している。

ダ・シルバ宅の放火
 5月25日の朝、ディリ西部にあるベボヌク地区では若者の集団が西部人の家に石を投げたり、放火したりしてまわった。昼の12時半頃、フォメント1地区にある内相の親戚、ダ・シルバ一家の家が放火された。家は高い塀に囲まれ、武装した者たちによって包囲されていたようだ。彼らは窓に石を投げていたようだ。逃げることに成功した2人の子どもは、彼らが「ロバトが中にいる」と言っているのを聞いたという。数日前、近所の人たちは「内相の家族」に対して脅迫するようなことを叫んでいるのを聞いたという。火は近所の人たちによって午後3時頃には消し止められたが、18歳以下の子ども4人を含む6人が焼け死んだ。

民兵武装問題
 5月8日、首相、内相、ライロスと彼の2名の部下の会議が首相宅で開かれた。会議の目的は来るフレテリン党大会の警備について討議することだったが、内容についてそれぞれの証言はちがっている。ただ、武器そのものについては話されなかったという点については一致している。ライロスは、首相が彼に請願者たちを「始末する(eliminate)」よう指示したと述べたが、首相は「始末する」などということばは使わなかった、ライロスたちは党大会の参加者を西部の諸県から連れてくる案内役として紹介されたと述べた。首相は、会議中、警察予備隊を支援する民間人のグループが必要だということを内相と議論した、しかしそれに武器や制服を与えるという話はしなかったと述べた。
 委員会は、警察予備隊に民間人の支援をつけるなどということを議論する方法としては、これは尋常ではないと考える。この議論の前後いずれにも、警察予備隊長、警察長官がそういう必要があるかということについて意見を求められてはいないからだ。
 5月8日、ロバト内相は警察の武器弾薬を2つの民間人のグループ、すなわちライロスのグループとアントニオ・ルルデスのグループに与えた。内相は国境警備隊長のダ・クルスに命じてライロスにライフル10挺と弾薬、内相補佐官に命じてアントニオにライフル5挺と弾薬を与えた。さらに5月21日ライロスは銃を8挺受け取り、23日には31着の警察予備隊の制服を受け取った。翌日、ライロスはこの制服を着て、軍兵士のパトロール隊を攻撃した。
 警察長官は5月19日の段階で内相による武器の民間人への配布の事実を知り、ホルタ外相のアドバイスを得て首相宛に事態を告げる書簡を書いた。書簡はその日のうちにも秘書官に届けられた。ただし、首相がこの手紙を受け取ったどうかは委員会は確認できなかった。
 そして21日、首相宅で会議が開かれた。出席者は首相、外相、国防相、内相、国防軍司令官、警察長官。 ここで外相が武器配布問題を取り上げた。しかし、内相が国境警備隊の武器をディリにもってきたのだと答えたことで、その後、誰もこの問題を追及していない。首相は軍・警察の武器弾薬を再チェックするよう求めた。
 委員会は、首相がライロスに政敵を「抹殺する」よう指示したとは考えていないが、少なくとも首相は武器の民間人への配布を知っていたと考える。また、委員会は、民間人が警察を支援をすることが国内治安法において許されているとする首相、内相の見解には同意できない。

軍の武器の民間人への配布
 一方、軍もまた民間人に武器を配布していた。5月17日、タウル司令官は、民間人が軍の武器を携帯しているとの訴えに応じて、軍の武器庫を検査するよう首相に申し入れていた。しかし、5月24日になって軍は民間人に武器を配り始めたが、それはタウル司令官の命令によってだった。しかもこのことを国防相は知っていた。軍の武器手渡し記録にこうして206人の民間人に武器が渡されたことが残されている。ただ受け取った者は署名をしていない。彼らは元ファリンティル兵士、そして64人の現役警察官だった。
 タウル司令官は「予備役」の武装については規定がなく、彼が国防相にそう提案して受け入れられたので武器の配布を行なったということだ。それは国防相が責任を負うべき政治的決定だった。この決定は5月23日のタウル宅の襲撃、24日のタシトル、ティバルの銃撃戦の後、軍の能力が不足していることを痛感したためなされたもので、それらの攻撃は、軍本部に対する攻撃と同じことだとタウル司令官は述べた。委員会は、それが軍本部に対する攻撃だったとは考えない。

治安機構内部の不法な武器の移動
 警察と軍の内部でも武器の移動があったが、そもそも武器の組織的な管理体制ができていないことは憂慮すべきことだ。
 警察長官は武器庫管理官の知らせず、武器を移動させた。また、ディリ県副司令官のアビリオ・メスキタは西部出身の警官に武器を与えた。合計219挺の警察の武器が行方がわからない。
 軍の武器管理もまたずさんだった。2002年には1,200挺あったM16銃が、2004年には1,235挺になっていた。35挺がどこから来たのかわかっていない。政府ではない。2005年には1,073挺、2006年には1,200挺となっている。さらに、どこから提供されたかわからないライフルなどの武器があり、一方、ファリンティルから接収した342挺の武器がどうなったのかがわからない。

死者・負傷者

 委員会が知りえた情報からすると死者は38人で、民間人23人、警察官12人、兵士3人だった。60人の虐殺が4月28-29日にタシトルであったとの疑惑については、証拠はなかった。負傷者は69人で、民間人39人、警察官23人、兵士7人、国連警察官2人だった。

責任の追及

 報告書は、4月28日のコモロ市場での事件、ライ・コトゥの事件、グレノ事件、ファトゥ・アヒ事件、タシトル・ティバル事件などについて、現場の兵士、警察官、ライロスなど民間人が責任をもつものであるから、彼らを起訴するよう提案している。ここではその名前は省略する。
 以下、起訴・捜査が勧告された重要な人物についてのべる。

マリ首相:民間人への武器配布についてその権限を用いて禁止しなかった。しかし、犯罪性を問うためにはさらなる捜査が必要だ。
ロバト内相:武器の不法な移動、タシトル・ティバル銃撃戦で起訴を勧告。
ロドリゲス国防相:武器の不法な移動で起訴を勧告。
タウル司令官:武器の不法な移動で起訴を勧告。
レレ・アナン・ティモール参謀長:武器の不法な移動で起訴を勧告。
アルフレド・レイナド憲兵隊長:ファトゥ・アヒの銃撃戦で起訴を勧告。
ファルール司令官:武器の不法な移動で起訴を勧告。
ライロス:武器の不法な移動で起訴を勧告。
アビリオ・メスキタディリ警察副司令官:タウル宅襲撃で起訴を勧告。
レアンドロ・イザーク社民党議員:タウル宅襲撃に関連してさらに捜査を勧告。
 

報告書の波紋

 報告書に対してはいろいろな反応があった。
 フレテリン、軍の側からは、報告書が問題を政治的な文脈において説明していないことに対する不満が表明された。例えば、タウル司令官は10月26日声明を発表し、国連報告書が問題の政治的文脈を説明していないとして、国会に新たに委員会を設け、今回の出来事の背後にいる人物と彼らの戦略についての調査を行なうよう呼びかけた。
 渦中の元首相、マリ・アルカティリは、自身の疑惑については東ティモールの司法当局が捜査中であるとしてコメントをあまりしていないが、彼自身は疑惑を否定しており、今回の騒乱の背後には教会の指導部がいると主張している。(Southeast Asian Times, 9 Nov.)
 新しく首相になったラモス・ホルタは、タウル司令官には信頼をおいているとし、長らく兵舎に留め置かれていた軍兵士たちを任務につけようとの考えを示した。(Reuters, 18 Oct.)
 国会は11月6日、7名の議員(うちフレテリン4名)からなる委員会を設置し、報告書の検討に入った。(Lusa, 6 Nov.)
 こうして報告書の発表から1月がたった。しかし、マリ・アルカティリは病気治療のためとしてポルトガルに出国し、報告書が勧告した捜査や起訴の準備はあまり進んでいるようには見えない。報告書は無視されてしまうのだろうか。★


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