季刊・東ティモール No. 23, November 2006

騒乱が続くディリ
アルカティリ辞任、ホルタ新首相就任後のディリの状況

文珠幹夫

6月のマリ・アルカティリ首相辞任、7月のラモス・ホルタ首相就任から暫くは活発な政治的駆け引きにともなう活動が続いた。しかし、その後のディリでは、警察力の空白とも言うべき状況が騒乱・混乱状況を持続させている。一方、一部の地域を除き、ディリ以外の地方都市や村落部での治安状況は以前と変わらず落ち着いたものである。ただエルメラは反政府活動の拠点になった感があり緊張感が増している。
 新聞(Suara Timor Lorosae紙、9月11日)によると、政府発表で被害を受けた家屋は1,815軒で内681軒が全焼となっている。そして、未だ5万人ほどが難民生活、あるいは避難生活を強いられている。
 最近の東ティモール状況について見てみたい。

●難民キャンプ

 ディリの市内や郊外には多くの難民キャンプがある。これらに避難している人はIDPs(Internal Displaced Persons国内避難民)と呼ばれている。ディリにはカトリックの広大な施設が複数ある。そこには多数のテントが張られ大きなキャンプとなっている。中・小規模の修道会にもテントが張られている。国連施設、空港、政府庁舎に近い港の公園にもキャンプができている。

・メティナロ難民キャンプ
 最大の難民キャンプはディリの東方30kmにある、メティナロ・キャンプである。一時数万人が避難したといわれている。現在もまだ多数の人が避難生活を送っている。ここはF-FDTL(東ティモール国防軍)基地の周辺である。4月後半からの騒乱で多くの人、特に「東の人」(バウカウ県、ビケケ県、ラウテン県出身者)が逃れてきたが、「西の人」も逃れて生活している。一時このキャンプに逃れたが、その後親戚や知り合いを頼って故郷のバウカウ県、ビケケ県、ラウテン県に移った家族も多い。逆にそれらの地域からディリに戻るため、治安状況など様子を見るために一時的に滞在している人もいる。ディリの情報は地方にはなかなか届かないからだ。この場所はディリと東方を結ぶ長距離バスの通り道なので情報が手に入りやすいためであろう。
長期に及ぶ避難生活では、子供たちのことが心配だが、教育に関しては近隣の学校が受け入れている。子供たちはかなりの距離を歩いて通学している。知り合いの東ティモール人によると、キャンプの子供たちの栄養状況は良くない。別の人によると、キャンプには日本人医師も含め医療NGOが定期的に診療に訪れている。雨季に入ると衛生状態が心配される。さらに、キャンプの人口密集度が高いことにより結核が広がることが懸念されている。
キャンプにはちょっとした市場もできている。食料品始め日用品は手に入る。しかし、現金収入が得られない避難民の中には生活に困窮し始めている人も多くなっている。掲示板には求人広告が張ってある。ただし、仕事先の多くはディリである。こういった求人広告のほとんどは政府関係か国連(UNMIT)または援助関係からのもので、地方都市でも見られた。

・ティバル難民キャンプ
 9月半ばにできたティバル・キャンプも大きなキャンプになった。9月20日に大規模な抗議デモ(後述)が計画されていたため、混乱を恐れた「西の人」が逃れてできた。ディリから南西に20kmほどの地域である。山岳地に近いこともあってか数十〜百程度のテント村が複数の地域に点在している。比較的新しくできたためか、メティナロ難民キャンプほどには「環境」が整っていない。

・ディリ市内の難民キャンプ
 ディリの市内の難民キャンプは、前述したようにほとんどのカトリック関係の施設にできている。敷地のあらゆるところにテントが張られている。建物の廊下にもマットが引かれ蚊帳がつるされている。これらの場所でも小規模な市場ができており、食料や日用品が売られている。大神学院やある修道会では教室や食堂まで避難民の生活場所になっている。
 国連(UNMIT)の施設近くや空港近くの難民キャンプも大きい。10月半ばには空港の駐車場にまでテントが張り出した。

 これらの難民キャンプのテントや給水、トイレ、シャワー設備はUNHCRやUNICEFなどが提供している。ティバルのテントは国際ロータリークラブ、EU、オーストラリアからの提供であった。飲料水は定期的にタンク車が給水している。食料は米のみがWFPによって供給されていると聞く。しかし、他の食料の供給はない。
 ただ、政府庁舎に近い港の公園にできたキャンプは他のキャンプに比べると差異が目立つ。テントではなく、工事用シート(いわゆるブルーシートの類)で仮住まいをしている。国際的な支援も少ないようだ。近隣の人(「西の人」)によると「このキャンプは「東の人」で商売をしている人がほとんど」「彼(女)らはお金を持っている」「昼間は商売をして、夜だけここで寝泊りしている」とのことである。キャンプの人からすれば「夜間、放火や襲撃などが怖くてキャンプで寝泊りせざるを得ない」となる。そして、この周辺ではキャンプの人と「西の人」の間で連日投石や暴力騒ぎが起こっている。
 カトリックの施設での避難生活が長引くにつれ、カトリック施設の責任者などから不満の声も出始めている。「家を焼かれた人はともかく、家があり昼間自宅に戻り働いている人の中には米が無料でもらえるのでここに居座っている」「米以外の食料や油などの無心が結構ある」というのである。しかし、家があり夜だけ避難している人も「夜は怖い」「いつ放火されるか、いつ襲撃を受けるかと心配なので」というのである。治安を回復できない政府と国際警察、国際軍が問題のようである。

 ディリから多くの人が避難したことで、ディリの経済が変調をきたしている。雇い主が遠方へ避難しため解雇された従業員が増えた。3大マーケットは放火され壊滅状態である。放火されたマーケットの商人は別のところで仕事を始めているが規模の縮小を余儀なくされている。そのため品物の流通に支障が出ている。一時、様々な品物が品薄状態になったため値段が高騰した。現在、価格は落ち着きを取り戻しつつあるようだ。夕方から始まる投石合戦など暴力事件の影響で、どの店も日が落ちる前には店じまいをしている。5時を過ぎると早々と店じまいするところも結構ある。夜間、どの通りからも人影が消える。
 交通機関にも影響が出ている。「東西対立」で東方に向かう長距離バスのターミナルが近隣と共に放火され全焼した。また、西に向かう長距離バスのターミナル周辺は離脱した兵士「請願者」グループとF-FDTLの銃撃戦と放火で人影がなくなった。これらの長距離バスは不便だが安全な場所に移動せざるを得なくなっているが、運行は続いている。市内の乗合いバスやタクシーは半減した。

●地方の状況

 難民キャンプに入らず、親戚などを頼って地方都市に逃れた人も大勢いる。第二の都市バウカウでは、避難した人が商売をし始めたのか、以前に比べると店の数がずいぶんと増えたように思える。また、ディリで乗合いバスを運行していた人はバウカウでも運行している。バウカウだけではなく他の地方都市や中小の都市間を運行しているディリのバスを見かけることもあった。
基本的に地方都市でディリのような騒乱はない。夜遅くまでマーケットが開いており人々で賑わっている。しかし、ディリから逃れた人々の話や噂で不安な状況にはあるようだ。家族を殺害された人、家を放火された人、略奪を受けた人などが疎開している。これらの人からの話は衝撃的だ。しかし、全体像が掴めないこと、政府がどうなっているのか、今後どうなるのかなど正確な情報が手に入らない。人々が不安を募らせている。新聞はディリ以外で販売されていない。東ティモールのテレビ放送はディリとその周辺でしか視聴できない。私がディリから来たことを知ると「ディリはどうなっていますか」とよく質問された。

●政治抗争と暴力事件、そして国際警察・国際軍

 ラモス・ホルタ首相が就任しても、政治的な駆け引きは続いている。憲法では多数派与党から首相を選出することになっているが、ホルタ首相は与党フレテリン党員ではなかった。知名度と政治的妥協で首相に選ばれたが、与党フレテリンには不満がある。フレテリン主流派は、ホルタ内閣は暫定内閣で重要な事項の決定権はないと主張している。また、今回の騒乱の責任問題で解任され、さらに私兵に武器を手渡し政敵殺害を企てたとして逮捕(自宅軟禁)されたロジェリオ・ロバト元内相をフレテリンの副代表にした。
 主流派のやり方に反発する反主流派の改革派(Mudansa)グループができた。しかし、主流派をしのぐ勢力ではない。
 ファリンティルの元司令官や元幹部らを中心として野党も参加しているFNJP(正義と平和国民戦線)を名乗るグループができた。彼らの要求は、今回の騒乱の責任の追及と早期の選挙の実施である。アルカティリ首相訴追要求や逮捕されたのに拘置所に入らず自宅にいるロバト元内相への寛大な扱いに不満を募らせている。ホルタ政権に様々な要求を突きつけている。いずれもホルタ政権にとって実現が容易でないものばかりである。要求が入れられないと9月20日に大規模なデモを行うと圧力をかけていた。しかし、互いにこれ以上の騒乱は起こしたくないことでは一致しているように見受ける。妥協が成立しデモは回避された。他日に予定されていた別のデモも中止された。うまく妥協しているようだ。しかし、その度毎にディリの人々は不安に落とし入れられるのである。
 また、軍を離脱したアルフレド少佐とその部下は、7月25日武器不法所持で拘束された。ところが8月30日、拘置所の警備がなぜか手薄になったとき何者かの手引きで脱走した。手引きした中には外国人が加わっていたと噂されている。彼らや「請願者」グループも政治状況を不安定にさせている。人々の不安感は簡単に消えそうにない。
 5月からの騒乱に便乗し殺人、放火、略奪を繰り返したギャング連中は勢力を拡大したように見える。また、「東西対立」といわれるまでになった近隣同士の争いは収拾が困難な状況にまでなっている。些細な諍いや噂程度の悪口が(酔った勢いでか)略奪や時には放火に発展している。当然、略奪や放火された側は報復する。それに対しまた報復という悪循環に陥っている。新聞には連日のように暴力事件の記事が載っている。日常的な治安がまったく守られていないからである。
 東ティモール警察はディリでは解体状態である。オーストラリア軍やオーストラリア警察を主体とする国際軍や国際警察が治安を守るために派遣されたはずだったが、治安は一向に回復していない。「危険地帯」といわれるところが何箇所もある。政府の重要施設の近くも「危険地帯」である。しかし、常時の警備はない。
 10月24日、25日に空港近くで起こったギャング同士の抗争で空港が一時閉鎖された。警備がなされていなかったからだ。車による巡回警備はなされているが、事件の頻発する夕方や夜の巡回は多くはない。事件が起こり、通報を受けてから駆けつけている。そのときには事件を起こした連中は霧散している。近隣の人には犯人は判っている。しかし、国際警察の捜査はうまく行っていない。テトゥン語(やインドネシア語)が解らないからである。東ティモール人警察なら問題なく逮捕となるが、国際警察は手間取り、またしばしば誤認逮捕を行う。ディリの人から信頼されていない。殺人事件ですら犯人が判っていても逮捕に時間がかかるためか、数日後に犠牲者の関係者によって犯人が殺害されている。市民の足である乗合いバスは「危険地帯」を迂回運行し、タクシーは行ってくれない。私が滞在中、一度だけ国際警察が大規模な捜査をしたことがあったが、それはオーストラリア警官の乗った車が若者らに投石を受けたためであった。
 ディリ以外で国際軍や国際警察を見ることは少ない、というよりまず居ない。ただ、反政府的な活動の拠点となった感のある西部のエルメラ県では、オーストラリア軍が常駐しているらしい。この県の東ティモール警察官の武装解除(注1)を強引にしたとも言われている。
 また、ディリの中心部に近いヘリポートにオーストラリア軍が駐留しているが、オーストラリア政府の「駐留は一時的」との言葉とは裏腹に恒久的な施設作りが始まったとも言われている。

●国連安保理

 8月25日国連安保理は、東ティモールをサポートしてきたUNOTIL(UN office in Timor-Leste)の期限の切れるため、サポートを継続するため決議1704を採択した。新しくUNMIT(UN Integrated Mission in Timor- Leste )が活動を始めることになった。しかし、国際警察は国連の指揮下に入るが、国際軍のほとんどは指揮下に入らない。最大の派遣国オーストラリアが自国軍の指揮権を手放さず、国連指揮下に入るのを拒否したからだ。これをアメリカ、イギリスそして安保理の議長国であった日本が支持した。(→別の記事を参照)
 また、UNMITの代表が未だに決まらない。9月22日に退任した長谷川UNOTIL代表(SRSG)の後任にカボ・ベルデの元大統領マスカレンハス・モンテイロが指名されたが、東ティモール内からの反対もあり、就任を辞退した。現在も代表(SRSG)は決まっておず代表代理が指揮をとっている。

 騒乱は収まる気配がない。東ティモール警察の再編は一向に進まない。オーストラリア軍・警察を主体とする国際軍や国際警察も本気でディリの騒乱を収拾させようとする気配が伺えない。空港が一時閉鎖を余儀なくされたとき、ホルタ首相がBBCのインタビューで「暴力事件は対立するギャング集団によるものだが、一方でわれわれは政治的動機を持った何者かが背後にいるのではないかと疑っている。若者らに薬・アンフェタミンや酒を飲ませ、お金を与え、暴れさせている何者かがいるのではないか」(青山森人の「東チモールだより」第42号http://www.geocities.jp/hkbtls/)と。また、青山森人氏によると東ティモール国防軍のタウル・マタン・ルアク司令官は「オーストラリア軍が国連軍の指揮下に入らないことを批判し、さらにオーストラリアは暴力を悪化させている、オーストラリア軍が来てからもなぜ危機が続くのか」(同)と発言したと言うのである。

(注1)東ティモール警察の再編のために武装解除の命令が出ているらしいが、他の県ではまだなされていないようである。


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