季刊・東ティモール No. 23, November 2006

アボたちを訪ねて〜合同調査の「第二期プログラム」

古沢希代子

 2005年5月から2006年4月まで、日本の東ティモール全国協議会(以下、全国協と略す)は現地のAsosiasaun HAK(人権協会、以下HAKと略す)と合同で、日本軍占領期に発生した女性に対する性暴力に関する調査プロジェクトを実施した。日本の全国協が旧日本軍による性暴力の実態調査に着手したのは、2000年12月に東京で開催された「日本軍性奴隷制を裁く〈女性国際戦犯法廷〉」がきっかけだった。その後も現地での聞き取り調査は続けられ、その成果はHAKとの合同調査に投入された。
「季刊東ティモール」の第21号(06年4月)では、今回の合同調査プロジェクトの一環として現地で開催された公聴会「〈従軍慰安婦〉の歴史を知ろう」(06年1月)について報告したが、今号では全国協議会とHAKのその後の動きを紹介したい。

■ 共感によるエンパワーメントを

 私は8月中旬から約1ヶ月東ティモールに滞在し、全国協とHAKが共同で実施した日本軍性暴力被害調査の第二期プログラムのスタートアップをサポートした。このプログラムは、(1)被害者への定期訪問、(2)報告書の出版、(3)ラジオ番組の作成、(4)教員向けセミナーの開催などで構成されている。
 第二期プログラムの目標はふたつある。ひとつは、被害者たちときちんと知りあうことによってともに闘う仲間になること、もうひとつは、調査の成果を広く東ティモール社会に伝え、被害者への偏見や差別をなくすことである。被害者への訪問は4月に開始される予定だったが、現地の政治危機によって開始が大幅に遅れた。また調査プロジェクトのリサーチャーたちは今回の危機でみな家を失っていた。現在の東ティモールは、FRETILIN-FFDTL主流派対CNRTという政治的対立とロロサエ(東)対ロロモヌ(西)という出身地による対立が交錯しており、そこに治安の空白による便乗組がからむという状態で、誰もが誰かに襲われる可能性があり、不信と不安が充満している。

■アボたちの痛みーそれで日本政府は何をしてくれるの?
(※アボとはテトゥン語でおばあさん、おじいさんという意)

 今回の訪問は1月の公聴会での証言者と公聴会に参加できなかった被害者を対象とした。目的は、(1)公聴会後証言者に対する暴力はないか確認する、(2)被害者の健康状態や生活状況を知る、(3)両国の政府の態度や市民団体の活動を伝える、(4)日本政府へのメッセージをきく、(5)若干の生活必需品を手渡すことだった。(1)が必要なのはグスマォン大統領が被害者が声をあげることに反対しているからであり、(5)の生活支援は、公聴会で表明された被害者たちの願いであり、私たちはそのアボたちの願いを日本政府に伝えた(※季刊21号の日本政府に対する申し入れに関する記事を参照。申し入れは2001年から毎年実施されている)が、日本政府はまったく動こうとしないからだ。
 さて、全7県をまわって確認したところ、公聴会証言者に対する直接的な中傷や身体的暴力はなかった。しかし家族や周囲の人たちの「それで日本政府は何をくれるの」という言葉が被害者たちを傷つけていたことがわかった。「自分の恥をさらしたのに日本政府が応えないと私は二度恥をかくことになる」というのはアボ・ビルジニア。公聴会の場で日本軍に赤ん坊を奪われたという事実を初めて明らかにしたアボ・イネスは「公聴会はよかった。私は恥など感じない」というが、家族の言葉は気になったそうだ。大戦中に日本軍がしたことも、1975年以降にインドネシア軍がしたこともうやむやにされているこの土地で、人々の記憶はまだらであり、あきらめと冷ややかさが増している。私たちは、被害者の声を聞き続け、家族や被害者の生きる(生きた)社会にはたらきかけ続け、共感という精神のエネルギーを作っていきたいと考えている。

■アボ・マルタからのお土産

 私たちが運んだ、米、調理用油、砂糖、塩、コンデンスミルク、即席麺、腰巻きスカートなどの品々はとても喜んでいただけた。例えば、アボたちは歯が弱くなっているのでお米や即席麺は重宝するといわれた。日本政府が何もしないので、日本の友人たちが募金をしたのだと説明すると、アボ・マルタは「彼女らが私をおもう。私が彼女らをおもう。互いにおもいあうことはよいことだ」と応えた。加齢によりおしなべてアボたちの身体は弱ってきているが、一番状態が悪いのがアボ・マルタである。昨年初夏に倒れてから、左半身はほとんど動かず、今ではひとりで起き上がることもできない。そんなアボ・マルタの口から「日本に行ったのは真実追究のためだった」という言葉が出る。また「私はもうじき死ぬのだから日本政府が改心して私に何かしようとする時間は残りわずかだ」と皮肉を言うことも忘れない。
 アボ・マルタは12月16日からスタートするWAM(女たちの戦争と平和資料館)の特別展「東ティモール・戦争を生きぬいた女性たちー日本軍占領とインドネシア支配の下で」にお気に入りの小物入れや普段着や畑仕事の道具を提供してくれた。WAMの特別展でアボたちの友人が増えることを願ってやまない。それはアボたちを支え、かの地の正義を支えるだろう。

今回訪問した方々

(1) ビルジニア・コスタさん(マヌファヒ県サメ)
☆被害者。公聴会で証言。公聴会後、部落の長をしている夫が市場で人に「おばあちゃんがディリに行ったそうだけど、日本政府から何かもらえるのか」といわれた。夫は「人は軽い気持ちできくのだ。大意はない」と言うが、ビルジニアさんはそういわれることを気にしている。自分の体験を明らかにしたにもかかわらず、日本政府が何もしないということは、再度自分に恥をかかせることだ。日本政府は被害者の支援をすべきだ。謝罪もよいが、謝罪だけではだめだ、と述べた。
☆ビルジニアさんは目が弱くなっているが耳や歯は丈夫。足はしびれることがある。目が弱くなっているので料理ができないが、料理はおもに夫がしている。洗濯をしたり市場に行ったりはできる。戦後結婚したが子どもはできなかった。養子を育てた。
 ハクのプロジェクトスタッフであるエディオは孫のひとり。

(2) アリシア・プレゴさん(マヌファヒ県サメ)
☆被害者。公聴会で証言。「公聴会で話せてほっとした。話したら胸がすっとした。でも行き帰りの車はつらかった。」「帰ってきてから悪口をいう人はいなかった。周囲の人から悪口は聞いていない。『おばあちゃん、ディリに行って話をしてきたのね』と声をかけられたことはある。」
☆身体で悪いところは目。遠くが見えない。食事はトウモロコシはダメなのでお米が主食。お米を買ったり子どもの学費などのやりくりが大変だという。アリシアさんは娘さんの家族と暮らしている。娘さんは畑作農家。アリシアさんもまだ畑仕事ができる。菜っ葉の畑に案内してもらった。
☆「私はもう年だし、いつ死ぬかわからない。自分のことはもうよい。でも孫たちのために少しのお金がほしい。教育や生活のためだ。謝罪?日本人がやってきてこういうことになったのだから日本人が考えてほしい。」
☆ アリシアさんは結婚後子どもができなかった。そのため夫がアリシアさんの妹と一時結婚して子どもをふたりもうけた。その子どもたちをアリシアさん夫婦は養育した。

(3) パラミラ・パイシェコさん(マヌファヒ県バブル)
☆大戦中は日本軍の「オノ」という将校に占有された被害者。いままで車にのったことがなくディリに行くのは無理と家族が判断したため公聴会には参加しなかった。
☆「身体は大丈夫。耳は大丈夫。目ははっきりしない。腰が痛い。病院に行く必要はないが薬をもらうことはある。畑仕事は好き。一日中している。休むのは昼だけ。夜はカゴなどを編んでいる。」
いっしょに住んでいるのは息子さん。毎日していることは畑仕事。植えているのは、ウビ、バナナ、トウモロコシ、ピーナッツ。畑仕事の他に、ヤシの葉でカゴやマットを編む。WAMの展示用にカゴと現在製作中のマットを買わせていただいた。また、バラミラさんが普段している銀のブレスレットをお土産に下さった。

(4) ガブリエル・ラランジェイラさん(マヌファヒ県バブル)
☆目撃者。公聴会には参加できなかった。息子さんが傍聴。日本軍占領期、村の慰安所で警備長をしていた。戦後パラミラさんと結婚。ごあいさつにいく。ガブリエルさんは銀細工や刀の職人(badai,tuku besi,tuku osan)。パラミラさんからもらったブレスレットはガブリエルさんのつくったもの。ガブリエルさんは数年前に目が悪くなり細工の仕事ができなくなったが、技術は息子さんに受け継がれている。パルメラさんの家には息子さんの鍛冶場があった。趣味は闘鶏。闘鶏用の鶏を7羽もっている。

(5) マルガリーダ・ホルナイさん(マヌファヒ県ウェラルフ)
☆被害者。公聴会には参加できなかったが、息子のタデオさんが代理で証言。
☆視力と聴力がよわっている。起きて生活はしているが直接話をするのは困難な状態。
マルガリーダさんは別の息子の家で8人の家族とともに暮らしている。
☆ この家では、かつての日本軍が食糧難のおりに食したというアカール(サゴ椰子の粉)をつくっていた。日干し段階にある幹と粉にしたものをいただいてきた。

(6) ジュアヌアリオ・ファリアさん(マヌファヒ県ウェラルフ)
☆目撃者。大戦中は日本軍の兵補(補助兵)として従軍。公聴会で証言。公聴会パネリストのビセンテ・ファリア議員の父親。
☆「公聴会はよかった。話ができてうれしかった。」「ネガティブな反応はない。それでいくらもらえるんだと冗談という輩はいたが。」
☆妻と暮らしている。今でも現役の畑作農家。家から少し離れた畑にはトウモロコシとムングビーンが植わっていた。畑は今年ネズミの害が出ている。家の一画では豚が飼われていた。「子どもたちは時々ものをくれるが、子どもたちに依存する気はない」。生活の不自由については、村には電気がないので、ランプを灯す油がいること。
☆「この問題はふたつの政府がいっしょにすわって解決してほしい。日本は三年半占領して被害者をもたらしたことの汚名を雪がなければならない。そうすれば両国の友好は強化されるだろう。かつて東ティモールの指導者がこの問題に関する声明を出して、日本が東ティモールの復興に多大な援助を行なっていることを強調したが、個々人の被害をもって国が利益をえることをよしとするのはおかしい。」

(7) マリアナ・アラウジョさん(アイナロ県ハトウド)
☆ 被害者。公聴会で証言。「公聴会からの帰りの車では酔ってしまって大変だった。これまでに自分の体験を子どもや孫たちに話したことはなかったので、帰ってから恥ずかしかった。子どもたち(孫たち?)が『お土産は何?』ときかれたが、『お土産はない』と答えなければならなかったので、恥ずかしかった」。この辺の人から「ディリに行って何をもらってきたの?」ときかれた。公聴会のことをよく知らない人もたくさんいるので「何を話したの?」ともきかれた。
☆ マリアナさんは、公聴会の後の交流会で松浦司教から贈呈されたロザリオを、WAMの渡辺さんたちからのお土産である和風の小物入れに入れて、大事にしている。
☆ 目が弱っており、はっきり見ることはできない。歯がよくないので、ものを食べるのに苦労する。例えばトウモロコシはダメ。お米しか食べられないが、お米はつくっていない。一番下の子が中学校を出た後、ずっとマリアナさんの世話をしている。マリアナさんはこの子を不憫に思っている。
☆日本政府から得たいものは、お金、服、即席麺、そして謝罪。

(8) マリアナさんの家。
写真(11) 家の前にマリアナさんの小さな菜園があり、ヤムイモが植わっていた。ある種のヤムイモは十分煮ないで食べるとものすごいかゆみをもよおすそうだ。人々は完全に煮えてない状態のヤムイモを日本軍にワザと食べさせ、せめてヤムイモは取り上げられないようにしたという。この話はウアトカラバウでもきいた。

(9) ジェラルダ・カルドーゾさん(スワイ県ワラ村)
☆公聴会後に再会できた被害者(※「季刊」第6号、2002年1月参照)。
☆ジェラルダさんはお孫さんと暮らしている。足がよわくなったので最近階段のない方の家(前の家向い。どちらも家族の家)に移った。食べ物は、お米は問題ないが、トウモロコシはついたものしか食べられない。日々の仕事は鶏に餌をやること。餌はトウモロコシ。鶏は20羽ぐらい。放し飼い。
☆同じ村の女性でジェラルダさんと同じような体験をした人を知っているかと聞いたところ、それがクレメンティーナさんだった(※「季刊」第3号、2001年4月)。

(10) クレメンティーナ・カルドーゾさん(コバリマ県ワラ村)
☆今回の訪問で再会できた被害者。最初の聞き取りはディリのマスカレーニャスで2001年3月に行なわれた。今回お会いして明らかになったことは、クレメンティーナさんの夫は日本軍には殺されていなかったことだ。障がいを抱える(日本軍兵士に殴られ骨折した右腕の肘と手首の間がそのままになっている)クレメンティーナさんを戦後支えたのは彼女の夫だった。その夫もポルトガル時代になくなった。その後は子どもたちが彼女の生活を支えた。クレメンティーナさんは今実の娘さんの家で暮らしている。
☆クレメンティーナさんはひとりで外に出ることはできなくなっていた。目もはっきりはしない。しかい耳はよく聴こえる。そして動く左手でたくさんものに触れる。5年前に会った私のこともそうやって確認してくれた。
☆支援の品はとても喜んで下さった。「自分が昔ひどいことをされたので来てくれたのね」と言った。これは日本の仲間たちががんばって集めたお金で買ったものだと説明し、これからはティモールの仲間が運んでくれると伝えた。クレメンティーナさんが途中で涙ぐんだので心配したら、お孫さんがうれし泣きだよと言った。

(11) フランシスカ・マセドさん(コバリマ県スアイコタ)
☆被害者。公聴会で証言。「公聴会では三年間大変な苦労をしたという話をした。自分の体験を話すことは恥ずかしかった。公聴会から帰ってくると『日本は何をくれたのか』といわれた。三年間日本がひどいことをしたことに対して日本はお金をくれたのかときかれた。4日間ディリにいて、やっと帰ってきたのに、そういうわれて悲しかった。」
☆家族の人がいたので、そういうことをいう人は誰か知っているかと尋ねたところ、それは子どもたちがいったことだそうだ。公務員だという息子のひとりがあらわれたので、その方に両国政府の立場を説明し、補償がないことでおばあちゃんをせめないようにお願いした。ハクのスタッフによれば、公聴会の前に家族への説明も行なっているが、「家族」はたくさんいるので情報がいきとどかないのだろうとのこと。改めて、今後の訪問の際に会えた家族の人たちに事情を説明し続けることが必要だと痛感。フランシスカさんの子どもは男が4人、女が2人。
☆身体が弱っているので1日中すわっているだけだという。背中が痛いそうだ。
☆「日本政府は私が受けた3年間の苦しみに対して償いをしてほしい。」

(12)マルタ・アブ・ベレさん(ボボナロ県マリアナ近郊)
☆マルタさんは公聴会を傍聴した長男のアポリナリオさんの家にいる。おしゃべりが始まるといつものマルタあばあちゃんだけれど、身体は一段と弱っている。目はほとんど見えない。左目は完全に白濁している。左手と左足はほとんど動かない。立つこともできない。だから排尿や排便も人に抱えてもらわなければできない。でも耳は聴こえるそうだ。「もう子どものようになってしまったよ」とマルタさんは言う。
☆日本政府へのメッセージ。「私は日本軍占領期大きな苦しみを味わいました。今の生活も苦しいです。日本政府は私たちの生活に目を向けて下さい。私はもうすぐ死にます。私にはもう時間がありません。日本政府が私に手を差し伸べる時間ももう残りわずかです。」

(13) アボ・マルタの息子、ミゲールさんとジョアンさん
 ミゲールさんは2002年のアボの再来日につきそった。息子のポポヨン君がずいぶん大きくなっていた。以下は日本の友人たちへのメッセージ。「日本軍から暴力を受けたのはアボ・マルタだけではありません。他の多くの女性が犠牲になりました。ですからアボ・マルタの闘いはアボひとりの闘いではありません。もしアボが死んだらたら、アボの闘いはその子どもたちが引き継いでいきます。その子どもたちが死んだら、その孫たちが受け継ぎます。」

(14) 故エスメラルダ・ボエさんの夫を弔問(ボボナロ県メモ村)
 ヴィトールさんはHAK創設時からのスタッフで、勤続10年だそうである。現在の仕事は事務管理職である。彼は本当はアボたちの孫(アボ・エスメラルダの娘さんの子ども)だが、養子として養育された。アボたちのおかげで大学まで出してもらえたと彼は言う。中学の頃まで牛追い(水牛の世話)などをして親(アボたち)の手伝いをしたそうだ。ヴィトールさんからは生前のアボ・エスメラルダの映像をCDロムで家族に提供してほしいと依頼されている。

(15) イネス・デ・ジェススさん(エルメラ県ラサウン)
☆被害者。公聴会で証言。公聴会には息子さんがつきそった。「公聴会はよかった。参加できてうれしい。恥ずかしくなどなかった」「公聴会の後でまわりの人から何か言われたことはない。ただ、公聴会で話した結果アボは何を得たのかと家族からきかれた」。その場にはイネスさんといっしょに暮らしている娘さんと訪問中の孫の嫁がいたが、彼女らは朗らかに「それは知りたかったから聞いただけよ」と語った。彼女たちは軽い気持ちで聞いたのかもしれないが、この質問はイネスさんにとってはネガティブな意味を持つのだ。
☆イネスさんの家の入り口にはイネスさんが大事にしている家族写真のスペースがある。一番大きいのは新聞記者している孫の仕事場の写真だ。でも今回は、まず入り口のすぐ上には松浦司教とアボのツーショットがデーンとあった。入り口の左上にはWAMの赤いパンフレット。入り口の左側の家族写真スペースには公聴会の時の写真が何枚か並んでいる。そして、よおく見てみるとWAMのパンフレットの下にアボ・マルタと姪のエスメリンダさんが2002年12月に日本に来日した時の写真があった。「なぜアボ・マルタの写真があるのか。もしかしてふたりは知りあいなのか」と尋ねると、そうなのだという。日本軍占領時代、ふたりはいっしょに家や道の建設工事で働かされたそうだ。
☆ 目が弱くなっている。身体が痛むが今でも畑仕事をしている。アボ・イネスの元の家は強風で壊れてしまったそうだ。その横に小さな家が立っており、アボたちはそこで暮らしている。電気はない。
☆ 日本政府には謝罪してほしい。自分たちの生活にも目を向けてほしい。
☆イネスさんは優れたタイスの織り手だた。タイスは目が悪くなるまでずっと織っていた。WAMの特別展の話をすると、その場所で「昔はこうやって織った」と写真撮影のためにデモンストレーションをしてくれた。

(16) マダレーナ・デ・ジェススさん(エルメラ県ラサウン)
☆女性法廷での証言者。HAKの調査で話をするのは無理な状態になられていた。お会いすると話すことはできないが、耳と身体は大丈夫そうだった。
☆一行の中に現地の言葉ができる者がいなかった。しかたがないのでテトゥン語でかわるがわる説明した。これが通じたかどうかは不明だが、まず家の中からタイスが出て来て進呈された。丁重にお礼を言って帰ろうとすると、今度は家の中から鶏が運ばれて来た。それは固辞したのだがスタッフに受け取るよう説得され、いただくことになった。

(17) フランシスコ・シャビエルさん(エルメラ県エルメラ近郊)
☆目撃者。公聴会で証言。「公聴会ですべてを話せたので、その後は心が穏やかになった。」「人から何か言われることはなかった。」
☆咳がよくでる。二週間熱が続いているという。つらそうだった。子どもと暮らしている。
☆ 「日本政府はこの問題を早期に解決してほしい。ティモール政府も黙ったままではいけない。この国の中で起こった苦しみに対し目を向けなければいけない。」
☆アボの家の庭にかわいい子犬がいた。「欲しければあげるよ」と言われ、もらって帰ることになった。帰りの車の中は大変だった。子犬の取りあいである。その子犬は落ち着いていて誰の膝の上でも静かだった。子犬を膝にのせてなでているとみんなやさしい表情になる。犬に癒されるのも同じなんだと思った。

(18) サラ・ダ・シルバさん(ディリ)
☆2002年5月に東ティモール議員連盟の江田五月会長が現地訪問した際に話をうかがった被害者のひとり。この会の主催は「日本の自衛隊派遣問題を考えるワーキンググループ」(当時)で司会はHAKのジョゼ・ルイスだった。サラさんは2002年3月に自衛隊の第一陣が到着した時、空港での抗議デモに参加した被害者のひとりだった。
サラさんは昨年の聞き取りではさまざまな事がらを他人の経験として話し、自分が被害者であるとは語らなかった。だが、2006年3月、スタッフが車を走らせていると、物乞いをしにシスターのところにいく途中のサラさんと出会い、改めてお話をうかがったところ、ご本人の話から被害者であることが確認された。
☆サラさんは隣に子どもたちの家があるにもかかわらず、柱と崩れかけた屋根だけの家でひとりで暮らしている。近所の方の話によれば、家族はサラさんにきちんと食事を与えておらず、ほおっておくこともあるそうだ。そのため、サラさんは日中物乞いをしに出歩くこともあるという。サラさんの問題について、スタッフのエディオさんが聞いたことを総合すると、
・サラさんの家族では土地をめぐる諍いが発生している。現在、サラさんが寝起きしている敷地はサラさんと夫のもので、サラさんはその土地の所有権を主張している。一方子どもたちもその土地の所有権を主張している。
・サラさんの今のような居住状態はかなり前から続いている。
 今回は、まずスタッフが家族を訪ね、家族にプログラム(定期訪問)の説明をした上で、サラさんに家で私たちを待つよう伝えてもらった。このような経緯をへて、今回サラさんに会い、プログラムの説明し、お米などを渡した。サラさんは「これで外にものをもらいにいかなくてすむ」と語った。最後に「私たちは日本にいて、とても遠いところにいるが、アボのことは忘れていない、一生懸命お金を集めて、アボたちの生活を助けたいと思っている。これは日本政府からではなくてアボの友達からのものだ」と言うと、「お互いに思いあう(honoin malu)ことはよいことだ」と述べた。 

(19) エスペランサ・アメリア・フェルナンデスさん(ヴィケケ県ウアトカラバウ)
☆公聴会を傍聴した方の紹介で会うことができた被害者。プログラムの概要を説明。
これまでお会いした被害者の中では一番若く元気なご様子。毎日畑仕事に精出しておられる。大戦中はマタハリと呼ばれる日本軍の将校に占有された。亡くなる前にティモール人に謝罪した日本軍の将校としてフォホライボー(岩村正八さんのニックネーム)の名前を出したところ、「フォホライボーは死んだのか」と改めて質問され、「1995年に亡くなった」と答えると、「私はまだ生きている。神様は私の方を助けたのだ」と述べた。この地域では日本軍による強制労働で多くの方が亡くなった。

(20) マテビアン山とジョゼ・アシンソコさんの家族
 山道と田んぼの畦を往復5時間ぐらい歩いてジョゼ・アシンソコさんの住むタリホイ村を訪ねる。村につくと、アシンソコさんは不在だったが、妻と息子にお会いすることができた。喉がカラカラだった私たちに、湯冷ましとココヤシの実、それからザボンをふるまって下さった。ザボンはお土産にもいただいた。
 アシンソコさんの隣家には叔父のアントニオ・マシャドさんが住んでいた。彼はアシンソコさんのお母さんが連行される時の様子を語って下さった。アントニオさんの父はリウライだった。アシンソコさんのお母さんが連れて行かれる時、リウライは彼女を自分の妻だといつわった。リウライは彼女があまりに若かったので心配したからだ。しかし、そのウソは発覚し、リウライは尖った石の上にすわらされるという懲罰を受けたという。★


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