季刊・東ティモール No. 23, November 2006

東ティモールにおける子どもの養育施設

亀山恵理子(オランダISS)

1999年の住民投票後の騒乱を経て、国連による暫定政府と独立後の東ティモール政府は、教育や保健といった社会サービスをより広く社会に行き渡らせ、また一定の生活水準が達成されるための施策を数多く行ってきた。それらは成果を挙げている面もある一方、実際にはさまざまな理由でそのような開発の成果を享受できない人びとが存在している。
 東ティモール政府労働連帯庁が収集したデータによると、2005年の時点で全国に51の子どもの養育施設がある。それらはこれまで親を失った子どもや家庭の状況が困難な子どもを受け入れてきた。東ティモールにおける子どもの養育施設は、そのようにして社会のセーフティネットとして機能してきたのである。
 子どもの福祉の所轄官庁は労働連帯庁であり、そのなかでも社会サービス課が子どもの養育施設にかかわる施策を担当している。2003年に労働連帯庁が書き上げたガイドラインは、孤児院と全寮制の寄宿舎をまとめて「子どもの養育施設」(Child care center)と定義している。孤児院は「孤児、貧困家庭の出身で親がひとりの子ども、親と離れ離れになった子ども、世話をされていない子ども、家庭内暴力あるいは虐待の被害にあっている子ども、病気あるいは貧困のために養育できない両親をもつ子ども」に生活の場を提供する施設とされている。一方、寄宿舎は家から遠く離れた学校へ通うなど教育へのアクセスを第一の目的とし、13歳以上の子どもを対象とする。だが、実際には両者の境界はあいまいなことも多く、たとえば孤児院に学業の達成を目的とした子どもが生活していたり、あるいは家庭の事情から寄宿舎に入っていたりする場合がある。
それでは、子どもの福祉向上に貢献しているそれらの養育施設はどのように運営されているのか。今回は今年の8月に行った聞き取り調査をもとに、首都ディリにある2つの孤児院とディリから車で5時間ほど南下したマヌファヒ県にある寄宿舎の例を紹介したい。

孤児院1(ディリ県、レシデレ地区)

この孤児院は1992年からマナトゥト県のソイバダに拠点をもっていた修道会によって始められた。修道会はインドネシア時代からソイバダで寄宿舎を運営していた。1999年の騒乱後ソイバダには親を失った子どもがいたが、そういった状況をみて何かできないかと考えた修道会のシスターたちは、ディリで孤児院を始めることにした。現在ディリの孤児院では、2人のフィリピン人シスターと1人の東ティモール人シスターが働いている。
2000年にポルトガルの修道会から施設の建設資金を得た。その後もポルトガルの修道会から3年間の支援が予定されていたが、それは実現しなかった。労働連帯庁からは、時折米の支給があるが定期的、継続的なものではない。以前労働連帯庁に支援を申し出たときには、その2年後に米10袋を受け取った。外国の援助機関からの支援もほとんど受けていない。各国の大使館など外国の援助機関にも相談に行ったが、修道会は「NGO」や「コミュニティグループ」ではないため、資金提供の対象にはならなかったという。現在までのところは修道会のネッワークで孤児院を訪問する外国人など個人からの小額の寄付をやりくりして、子どもたちの食費や学費をまかなっているのが実情である。国連による暫定統治期にはマナトゥト県にPKF(国連平和維持軍)が駐留していたが、そのときはフィリピン軍が食料を分けてくれたので助かったとシスターは話している。
修道会はマナトゥト県のナタルボラに約6ヘクタールの農地をもっている。そこではとうもろこしやキャッサバを栽培している。またココナツやマンゴ、オレンジ、ランブタンといった果物の樹も植えており、そこでの収穫は子どもたちの食料にもなる。またディリの孤児院の近くに、運営の足しになるようにと小さな店を開いた。そこで子どもたちが作った編み物やテーブルクロスを販売していたが、4月からの騒乱でその店は焼けてしまった。
今回の騒乱は子どもたちの生活にも影響を及ぼしている。孤児院には45人の子どもが暮らしているが、ディリの治安状況が悪化したため、5月からはナタルボラにある修道院に避難している。その修道院にはもともとシスターが暮らしていたが、家のトタン屋根を拡張するなどして、とりあえずは子どもたちが住める状態にした。8月にディリの孤児院を訪問したときは、子どもたちが身の回りのものや教科書を取りにディリの孤児院に戻ってきていた。大部分は小学生で、9月からはナタルボラにある学校に通うとこのことだった。修道会が運営するこの孤児院には多くの人の避難所となっていて、夜になると足の踏み場もないほどの人が集まってくる。そのためナタルボラからディリに一時的に戻っていた子どもたちは、屋上のテントで寝ていた。孤児院には大学生も数人暮らしていたが、彼らはそのままディリに留まり学業を続けている。

孤児院2(ディリ県、ベコラ地区)

 この孤児院は東ティモールが国連による暫定統治下にあった2000年4月に正式に設立された。東ティモールの子どもの養育施設の多くはカトリック教会によって運営されているが、この孤児院を始めたのはイナシアさんというひとりの東ティモール人女性である。OMT(東ティモール女性同盟)のメンバーだったイナシアさんは、1999年9月の騒乱後は仲間とともに地域への食料配給や炊き出しを行っていた。緊急時の食料配給を行う国際機関WFP(世界食糧計画)から支給される米を、当時配給の対象となっていた世帯に配ってまわった。その際にディリ市内のいくつかの地域の村長に連絡をとって子どもの状況を調べたところ、親のいない子どもが13人いることがわかり、その子どもたちを集めて世話をすることにした。それが孤児院としての活動の始まりである。孤児院をつくるというアイデアは、当時OMTの仲間にも支持された。代表のマリア・パイシャオは50万ルピアを寄付してくれ、それで電球や導線、壁を塗るペンキなどを購入した。またCNRT(東ティモール民族抵抗評議会)も、石鹸や子どもの靴、遊び具などを提供してくれたという。
 ちなみにイナシアさんにはインドネシア時代に、3人の子どもをディリ市内にあるカトリック教会が運営する孤児院に預けていた経験がある。インドネシアへの抵抗運動を担っていた夫とともに1979年から1981年まで投獄されていたが、1984年から1999年までは公務員として働いた。だが夫が亡くなった後は、ひとりの稼ぎで7人の子どもを育てなければならず生活は大変だったという。1999年9月の騒乱後は、食料配給の活動のかたわら、2000年初めまでその孤児院を手伝ってもいた。イナシアさんはそのときに孤児院での仕事を覚えたと話している。
 孤児院を始めた当初は13人だった子どもの数は、現在は小学生から高校生まで28人に増えている。全員が学校に通っており、また孤児院でも外部の先生やカトリック教会のシスターが、英語やポルトガル語、歌とダンス、道徳の勉強などを教えている。事務所と子どもの遊び場、教室のような勉強部屋を備えた孤児院には、イナシアさんの子どももやってきて、他の子どもたちと共に1日を過ごしている。
この孤児院の特徴は、これまで主に外国の援助機関からの資金や有志の寄付を確保することで運営が行われてきたことである。まず2000年には知り合ったオーストラリア人が仲介となって、東ティモールにある世界銀行の事務所に資金申請書を提出した。公的には資金はおりなかったものの、ワシントン在住の世界銀行職員の家族から個人的な寄付があり、それで騒乱で焼かれた状態にあった建物を修復した。またこのときの支援で2003年までの学費や子どもの生活費、そして活動資金をまかなった。
 その後はイギリス大使館から1年間の資金提供を受けた。このときには東ティモールの大統領夫人でオーストラリア出身の女性が設立したアロラ財団というNGOが大使館との仲介をしている。その資金は、孤児院が財政的な財政基盤を築けるよう小規模な事業を始めるのに利用した。ディリの街にある大学の近くで食堂とコピーサービスを始めた。だが東ティモールで働く外国人の数も減り、次第に客足が遠のいたため、その店舗は事務所として貸し出すことにした。現在は今年に入ってからの騒乱の影響で、その事務所は使われていないという。
 2004年にはポルトガル人有志からの寄付があった。以前文民警察官やポルトガル語教師として多くのポルトガル人が東ティモールに派遣されていたが、その人たちが滞在中に孤児院を知り、帰国後は本国で寄付金集めをしたそうだ。その寄付金で子どもたちのために個別の寝室をつくり、それまでの全員の寝室だった部屋は今はお祈りの場所(チャペル)として使われている。また2004年から現在にかけては、子どもを対象としたプログラムに支援を行っているオランダのNGOから2年間の資金提供を受けている。それは学費や食費、施設の修復費に使うことができ、さらにスタッフ3人分の給料も含まれている。オランダのNGOには自らアプローチしたのではなく、資金提供先を探していたそのNGOの方がある日孤児院を訪ねてきたという。そして2年後に資金申請が通ったとの連絡を受けた。なお東ティモール政府の労働連帯庁からはこの間米の支給を受けたことがあったが、それ以外に具体的な支援はない。

寄宿舎(マヌファヒ県、サメ地区)

 インドネシア東部のフローレス島に本部をもつ修道会が、マヌファヒ県で寄宿舎を運営している。修道会は1988年に東ティモールにやってきて、マヌファヒ県を拠点にコミュニティ活動を始めた。当初は6人のインドネシア人シスターが派遣されていたが、そのうち1人のシスターが薬草作りの知識と経験をもっており、それを周辺の地域に普及させることで人びとの生活を助けようと考えた。じつはこの修道会の薬草づくりは、「サメのシスターの薬草園」として東ティモールのなかでも知られている。ディリにはその薬草を販売する店もある。また農業関係のNGOネットワークHASAILによって2002年から毎年ディリで開かれていた民衆博覧会にも、修道会のシスターは地元の資源を使った活動を紹介するために参加している。
 そのような修道会がマヌファヒ県で運営する寄宿舎のひとつには、中高生を中心に35人の子どもたちが暮らしている。もともとは1996年にインドネシア政府によって、男女別にひとつずつ建物がつくられた。どちらも公立の寄宿舎だったが、その運営は地域にある教会の神父やシスターに託された。男子用の寄宿舎はインドネシア時代に閉鎖されたが、シスターが日々の子どもの世話をしていた女子用の寄宿舎の方は今でも続いている。
 インドネシア時代には、政府から定期的な食料の支援や奨学金という形での学費の支援もあった。しかし、国連の暫定統治期以降は、労働連帯庁からは米、油、石鹸の配給を受けたのみである。それは定期的なものではなく、労働連帯庁にたまたま支援物資があれば行われるという性質のものである。
 孤児院とは異なり、子どもたちの学費は原則的には親が負担することになっている。だが実際には支払えない親も多く、そのような場合にはアロラ財団というNGOから奨学金の支援を受けている。また寄宿舎には寮費というものがある。しかしこれについても支払えないことが多く、その場合は払える範囲で親が負担しているのが現状である。この寄宿舎で子どもの世話を担当しているのは、東ティモール人のシスター1人である。12年間インドネシアのフローレス島にある寄宿舎で働いた後、2003年に東ティモールに派遣された。シスターはフローレス島の寄宿舎では学費や寮費がきちんと支払われており、また米やとうもろこしはそれぞれの子どもがもってくることになっていたと話している。だがサメの寄宿舎では、そのように親の協力によって運営することが難しいのが現状であるため、食料が不足してくると、サメ近郊の村の出身であるシスターが自分の実家を訪れて野菜やとうもろこしをもらってくるという。

 以上東ティモールにある子どもの養育施設のうち、2つの孤児院と1つの寄宿舎の運営についてみてきた。これらの3つが東ティモールにある50以上の施設の代表的な例であるとはいえないものの、3つの施設で共通しているのは、政府からの支援はほとんどないなか、それぞれが独自で子どもの世話をし、施設運営を行っているということである。国連による暫定統治期以降は、外国からの援助機関が一気に東ティモールに流れ込み、子どもの養育施設にもそれらの機関から支援が行われている。だが、その支援は「NGO」などに向けられていることが多く、修道会のような組織はその対象にならないこともある。子どもの養育施設に行き渡る支援の度合いは、そのような援助機関の方針からも影響を受けているようである。
今回の聞き取り調査を目的とした訪問では、最近の騒乱が原因となり孤児院で生活するようになった子もいるという話を聞いた。ひとりはエルメラ県に暮らしていたが、母親はすでになくなっており、兄がその子どもの面倒をみていた。だがエルメラからディリの街やってきたときにたまたま騒乱に遭遇し、その際に刺されて亡くなった。もうひとりの子どもも、警察官として働く兄がその子を含めて家族の生活を支えていたが、今回の騒乱で殺されてしまった。家族の収入がなくなったため、その子どもは高校での勉強を続けるために叔父と一緒に孤児院にやって来たという。
 子どもを育てる方法のひとつである養育施設は今も変わらず東ティモールにおいて重要な役割を果たしている。しかしながら、この間は物的、人的、金銭的に限られた資源を何とかうまくやりくりして運営が進められてきたのが現状だろう。援助機関からの潤沢な資金で運営をつないでいることもあるが、その場合にも支援がいつまで続くかという問題が残る。政府、施設、援助機関がどのように子どもや子どもの家族を支援していくのか、その場その場での対応だけではなく、関係者の間で方針と具体的な施策を考える必要があるのではないだろうか。

*今回東ティモールの子どもの養育施設を訪問するにあたっては、この間調査やボランティア活動で孤児院や寄宿舎を訪問されている文珠幹夫さんと牟田健太郎さんにお世話になりました。この場をかりてお礼申し上げます。


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