孤児院住み込みボランティア記

牟田健太郎(長崎東ティモール協会)

住民投票のときIFET(国際東ティモール連盟)選挙監視員として活躍した牟田さんが、3ヶ月半、ディリのある孤児院で住み込みボランティアをした。テトゥン語を学び、子どもたちに英語を教えたり。「みんな懸命に生きている」、それが牟田さんが感じた東ティモールの子どもと大人の姿だ。


切り詰める生活

 ディリ市東部のべコラ地区に、サンタ・バキタという小さな孤児院がある。私はちょっとした偶然から院長のイナシアさんと知り合うことができ、数ヶ月ほど子供たちと生活をともにする機会に恵まれた。
 東ティモールではどこでもそうだと思うが、孤児院といっても政府からの援助は一切なく、院長のイナシアさんが勤務するNGO、東ティモール女性ネットワーク(REDE FETO TIMOR LESTE)からの給与と、ディリ大学近くに所有する小さな文房具店からの収益でまかなわれている。
 子供たちの年齢は6歳から17歳、全国各地から身を寄せて来ている。専従の職員を雇う余裕はないので、子供たちは自分で自分の面倒を見ている状態だ。掃除や洗濯、食事の準備や皿洗いなど、朝から晩まで感心するほどよく働いている。また、登校前や帰宅後、夕食の後片付けをしてから寝るまでの時間を使って勉強もきちんとやっていた。

勉強熱心

 孤児院に来るまでの経緯により、同じ年齢でも進度に開きがあり、中にはテトゥン語のできない子もいた。バウカウ生まれのその子は、当初は皆が遊んでいるときでも一人離れたところにポツンと座っていたりした。私もテトゥン語すらおぼつかなかったのだが、慌ててバウカウ出身の人からごく基本的な現地の言葉を習い、ABCから教えていった。おそらく今まで全然勉強を教わったことがなかったのだろう、初めはまったく途方にくれたような顔をしていたその子も、根気よく続けていくうちにアルファベットの読み書きはできるようになり、本人も自信が出てきたのか、次第に誇らしげな表情に変わっていったのがとても印象に残っている。イナシアさんが、9月から学校に通わせると言ってたので、今ごろは他の子と一緒に仲良く通学していることだろう。
 学校といえば、東ティモールの学校では、通知表を先生が親に直接手渡すことになっているようで、イナシアさんに頼まれ、何人かの子供たちの通知表を受け取りに行ったこともある。皆成績がよく、たいていの科目で10段階で8とか9、あるいは10といった評価を受けていた。恵まれない環境にあってこれだけ懸命に勉強している彼らに、敬意を表したいと思う。科目には算数やポルトガル語、テトゥン語などのほか、人権や衛生といったものまで含まれているのが興味深かった。

院長、イナシアさん 

 懸命にやっているのは子供たちだけでなく、イナシアさんも体を壊すほど働いている(実際数年前には心臓発作を起こし、今も薬を山のように飲んでいる)。それでもやはり20人以上の子供たちを食べさせるのは並大抵のことではく、食事は率直に言ってとても貧弱だ。朝はパン一切れと紅茶、昼と夜はご飯と野菜にチリを添えて食べるといったのがほぼ毎日の定番メニューである。肉を食べられる日はそうそうない。当然子供たちの体格は、日本の同年代の子と比べて3〜4歳くらいは幼く見える。せめて自分がいる間だけでも沢山食べさせてやりたいと、ときどき市場へ出かけて食料やお菓子を買い込んだりした。ところが最初はお菓子を配っても、開け方が解らず黙って手に持ったままという子が少なくなかった。今までお菓子も満足に食べることができなかったのかと思うと、不覚にも涙がこぼれそうになったものだ。
 最近、イナシアさんの努力が実り、あちこちから支援の手が差し伸べられるようになった。例えば、韓国の福祉団体の関係者が視察に訪れたことがある。彼らは、帰国したら子供たち一人一人のためにドナーを見つけたいと言っていた。PKFや文民警察官が米や缶詰などを寄付してくれたこともある。また私が滞在中に知り合ったマレーシア人も、個人的に協力を申し出てくれた。
 私も、特に何かの役に立てるというわけでもないのだが、近いうちにまた現地を再訪するつもりだ。わずか10年前後の短い人生の中で、彼らはもう十分につらい体験を経てきたことだろう。今後は、こうした支援によって不自由なく生活し、学業を継続し、ひいては東ティモールの発展に尽くすようになったり、あるいは幸せな家庭を築いたりすることを心から願っている。そしてひとつだけ欲を言えば、将来幸福になった彼らが、時折りでもいいから「そういえば昔ヘンな日本人がいたっけな」くらいにでも思い出してくれればと思っている。★


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