<巻頭言>

伝統的正義

 伝統的正義(Traditional Justice)が議論されている。
 ジョゼ・ラモス・ホルタ外相が主催する「平和民主主義財団」が『慣習的係争解決に関する研究と東ティモール民主共和国のための仲裁モデル案』と題する報告書を5月に発表した。それは、民事的な係争について、村・郡レベルで仲裁チームをつくり、調停を行うというもので、未整備な国家の司法制度を費用をかけずに補うことができる。政府もこうした方法を採用することを本格的に検討しているようだ。
 この考え方は古くは1974年にさかのぼる。フレテリンは当時出した『政治マニュアルとプログラム』の中で、伝統的司法制度の維持とその国際的基準による調整を目標にかかげている。東ティモールの伝統的司法制度の採用はフレテリンの方針だったのだ。
 フレテリンは東ティモールのアイデンティティを「プレ・カトリック」(カトリック以前)の段階に見定めていた。洗礼名を使わず、土着的な名前を使うというのも同様の発想だ。植民地主義の一翼をになっていたカトリック教会に対抗していたフレテリンの、文化的、イデオロギー的プロジェクトだった。フレテリンはまたウマ・ルリクの保護を、教会やモスクと同様に、保証した。
 しかし、21世紀となった今日、注意が必要だ。
 地域のリーダーが仲裁する場合、力の弱い者は不利とはならないだろうか。仲裁の基準に慣習法が利用されると、夫婦のもめごとや財産問題など、女性が不利にならないだろうか。結局、誰が仲裁しても、近代的な平等主義に基礎をおいたものでなければ、人は納得しないのではないか。
 また、村や郡レベルというが、ディリやバウカウなど都市部に住む人たちは、たとえ民事でも、こうした伝統的仲裁を受け入れないのではないか。利害がからむ係争で素人の仲裁を受け入れるだろうか。この発想の背後に、都会の人と田舎の人をわける二分法的考えがないだろうか。
 東ティモール受容真実和解委員会の和解プロセスが、伝統的仲裁方法と近代司法の合体したものとしてモデルとされている。しかし、委員会の仲裁は司法の監督下にあり、委員が仲裁を指揮するから、内容的には伝統的正義とは言えない。委員会の和解プロセスは告白・謝罪が条件であり、ことの善悪ははっきりしている。「仲裁」とは罪のつぐないについての仲裁にほかならない。
 伝統的正義の採用は、費用がかからず、国家にとってお手軽かも知れない。しかし、正義が結局のところ強制装置をともなったものだからこそ維持されるという現実を考えれば、強制力のない有力者による仲裁がどれほど問題を解決できるか、かなり疑問でもある。(ま)


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