<書評>

ステファニ・レナト神父
『アツサベからの便り』を読んで

監修:ステファニ記念・東ティモール子ども基金
『アツサベからの便り』

注文は同基金へ
485-0003 小牧市久保一色524-105

松野明久

2003年10月6日、エルメラ県アツサベ村に移住して1年9ヶ月のステファニ・レナト神父が交通事故で亡くなった(追悼記事は本誌13号)。あれから1年、レナト神父の遺志を継いだ「ステファニ記念・東ティモール子ども募金」は、レナト神父がアツサベから送り続けた「東ティモールニュース」を一冊の本にした。


貴重な記録

 本文300ページちかくなったレナト神父の「東ティモールニュース」は、あらためて読んで見ると、レナト神父の奮闘ぶりに加え、ディリから遠く離れた山村の日常的な諸相が描かれていて、貴重な資料ではないかと思った。かなり断片的だし、当初は言葉もあまりわからなかったレナト神父の推測・思い込みもあるように思われるが、それでも随所に興味深い話が記録されており、独立した東ティモール社会が抱える問題を現場から伝えている貴重な資料だと思う。

プロテスタント

 レナト神父は、赴任後1月もたたないうちに、プロテスタント教徒とカトリック教徒の対立に頭を悩ますことになった。2002年2月9日に次のように書いている。

 前夜3人のブラジル人がバイクに乗って近くの部落の、ある家に行ったそうです。彼らはAssembly of Godというプロテスタントの一派で、その地域には60人の信者がいます。彼らを見たカトリックの信者たちが、「牧師がカトリック教会の悪口を言っている」という理由で、夜大雨が降りしきる中、家を襲って石を投げ、3人にかなりな怪我を負わせたのです。警察はすでに7人の容疑者を逮捕していましたが、民衆が怖くて3人を警察署から出せないし、彼らをグレノ市(県庁所在地)に移送することもできないでいるということでした。

 この後、レナト神父は民衆を説得し、ブラジル人を神父の責任でディリに送り返すということで、その場をおさめたようだ。レナト神父が住民から聞いたところでは、彼らは1988年に初めてアツサベにやってきて1999年にはトラブルがおきてプロテスタントの一人が殺され、4人が犯人として懲役7年の刑を受けた。事件後、「プロテスタントはカトリック信者を刺激するような言い方や行動はしない」と書かれた約束書を交わしたが、最近はプロテスタントの方がおおっぴらに約束を破るような行動を繰り返していたということらしい。

 (ちなみにAssembly of Godは東ティモールで最大のプロテスタント宗派。2004年3月17日には、3人のプロテスタント牧師が怪我した事件の裁判が始まると書いてあるところから、暴行を働いた者は裁判にかけられたということがわかる。)

 また2月23日には、ひとりのカトリック青年がプロテスタント信者2人を殴った、とレナト神父は記録している。「前回の事件で逮捕された4人のカトリック信者が未だディリの拘置所にいることと、ディリから牧師が来たことを根にもってやったこと」らしい。警官は訴えを聞いて青年を探したが、青年は逃げていてつかまらなかった。ちなみにディリの正義と平和委員会は、グレノの警察が逮捕状もなく7人のカトリック信者を逮捕していたことを知り、グレノ警察の違反行為を当局に訴えたということだ。

 8月8日、プロテスタントの集落とカトリックの集落の住民の間でケンカが起きた。

 原因はカトリック信徒の牛がプロテスタント信徒の畑を荒らしたので、畑の持ち主が牛をカタナで殺してしまったことにあります。牛の持ち主は「野菜の弁償はしますが、牛の弁償をしてください」と言ったそうですが、そこで意見の調整をしようとした安全委員会の担当者(各村で行政から任命されている)が畑の持ち主に襲われて怪我をしました。彼は早速警察に事件を報告したものの、危険を感じて部落に戻りませんでした。

 一時的に事が収まったと見た警察は動きませんでした。しかし午後になってカタナや槍、棒を持ったプロテスタントのグループが牛の持ち主の家を襲撃し、それを見た仲間が助けに来て大喧嘩となりました。その際に畑の持ち主がカタナで頭を叩かれて倒れたので、彼の仲間が牛の持ち主の家族3人を襲い、槍とカタナで怪我をさせました。(小学生の女の子も槍で刺されました。)

 レナト神父はけが人をグレノまで運んだ。死者は出なかったようだ。しかし、これほどの事態が発生しているということは、問題は相当に深刻だと言わなければならない。

プロテスタント教会の今日

 ジョン・フィリアトローの「座礁した教会ー東ティモールのプロテスタント教会はもうだめなのか」という記事(John Filiatreau, PCUSA News, 16 July 2004)は、独立後の東ティモールのプロテスタント教会が直面している困難な状況を描いている。それによると、東ティモールのプロテスタント教会は「破産」してしまっている。東ティモールにプロテスタントがもたらされたのは1940年代半ばで、バウカウが最初だ。インドネシア時代の東ティモール教会(Gereja Kristen Timor Timur: GKTT)の最初の指導者はビンセンテ・デ・バスコンセロス・シメネス牧師だが、その息子、フランシスコ・デ・バスコンセロス・シメネス牧師は、2003年6月の会議で、ダニエル・マルサル牧師に暴行をはたらき、その後投獄されてしまった。指導者のこうした行状は、教会の分裂を示してあまりある。

 フィラトローによると、インドネシア時代3万人いた信徒は今では17,000人に減ってしまった。インドネシアの公務員にプロテスタントが比較的多かったこともあって、プロテスタントは「インドネシア派」とみなされていた。1990年代にアルリンド・マルサル牧師が独立派のキャンペーナーとして登場して以後、そのイメージは大きく改善された。マルサル牧師は今は東ティモール政府のインドネシア大使になっている。

 ところが、ダニエル・マルサル牧師(アルリンド・マルサル牧師のいとこ)の元には教会改革を求める声が集まっているというが、「インドネシア時代はすべてうまくいっていた」というビンセンテ・シメネス牧師が再びプロテスタント教会の指導者に選ばれた。シメネス師がマルサル師を殴った事件は、統合派が独立派に暴行を働いたという風に解釈できる。しかも教会は元インドネシア派を指導者として再選したわけだ。このあたりのしこりはそう簡単にほぐれそうにない。

 一方、米政府国務省の『宗教的自由報告書』(2003年)は、東ティモール政府の政策を一応は宗教的自由に貢献しており、法的枠組としても宗教の自由を保障し、宗教にもとづく差別を許していないなど評価しているが、事件がいくつか発生していることに憂慮を示している。とくに警察や司法部門は、少数派宗教に対する犯罪行為の訴えに対し、反応がゆっくりしていると述べている。例えば、2000年にはアイレウでプロテスタント教会が襲撃され、2002年にはブラジル人の伝道者がリキサでカトリックをプロテスタントに改宗させたとしてハラスメントを受けた。また、改宗したある女性は、5人の親族(うち2人は警官)から改宗によって親族を侮辱したとして殴られた。女性は警察に訴えなかった。別な男性は、改宗しようとして3人の男性に脅迫され、訴えたが、検察は暴力が(まだ)ふるわれていないので関係者で話しあって解決するように促したという。

 カトリック教徒の住民にはプロテスタント教会に信者をとられるという危機意識があるようだ。それにプロテスタントはかつてインドネシア派だったというイメージがあるため、余計に迫害されやすい。こうした背景が、カトリックによるプロテスタントに対するハラスメントにある。

元統合派民兵

 帰還した元民兵やその家族が住民に殴られるという事件もいくつかあった。
 4月7日の記録では、金曜日にUNHCRのトラック30台がアツサベに到着し、50数家族の難民がもどってきた。マラベというところに170名(40家族)が戻ってきたが、その夜、戻った人びとの中の元民兵5人が殴られるという事件がおきた。殴ったグループの主犯格の人物は逮捕され、ディリに移送された。

 4月21日の記録では、帰還したことを後悔している元民兵の話が書かれている。それによると彼は、「人に自分の家を使わせないために、徹底的に燃やしてしまい、今は家を建て直さないと住む家もない」。民兵でない人でも「彼らの言うことを信じて家を燃やした上に、畑まで売ってしまった人」もいるらしい。

 8月27日の記録には次のようにある。

 今日は100人以上の難民が帰還したが、そのなかに元ミリシアの一家がいました。本人は危険を感じてアツサベの警察に避難したが、家族が元の家に着いたところを襲われ、奥さんが殴られたということでした。僕の車で彼女をアツサベのクリニックに連れて行って看護婦に看てもらっていますが、ほとんど意識不明の状態です。生後20日の赤ちゃんをつれていたのに・・・。

 彼女を襲ったのは、1999年の住民投票の時に夫を民兵に殺された妻とその家族でした。本人がいなかったので、代わりにやられました。

 11月26日の記録には次のようにある。

 信じられますか?民兵が戻ってきました。昨日の夜7人の民兵が武器をもってアツサベの近くの村、マラベに現れて住民二人を殴り、銃を発射して逃げていきました。その中の中心人物はミゲルと言って、先日西ティモールのアタンブア難民キャンプから、おそらく偵察のつもりでアツサベに戻ってきて、その後またアタンブアで帰った人物です。警察が捜していますが見つかることはないでしょう。

 11月29日には、昨夜、別な村の家2軒が民兵に襲われて、350ドルと金目のものが全部奪われたと書かれている。警察官に「元民兵を捕まえる可能性はありますか」と神父が聞くと、「不可能に近い」との答えだったそうだ。なぜなら警官は12人いるのに車は1台だけ、無線機も署にあるもの以外は1機しかないという状況だからだ(12月2日)。

 1月2日には、12月30日、元民兵のリーダーが神父の車を止め、「脅かされています、何とかして下さい」と訴えことが記されている。彼を脅しているのは、彼の指示で夫を殺された女性の家族らしい。レナト神父は、「司法機関が麻痺しているので、彼が裁きを受けることなく毎日を送っていることに我慢できなくなったから」だと書いている。

 同じ日の記録に、先日、「アタラ村の信徒2人が民兵に連れて行かれた。一人が逃げるのに成功し、私の家に知らせに来た」とラサウン分教会の信徒会長が知らせに来たと書いてある。民兵はインドネシアから来ているが、アツサベの村々の出身の人間で、11丁の武器をもっていたそうだ。この連れて行かれた教会のリーダーは1月3日に戻ってきた。ただ、脅されていて、犯人については何も語らなかった。

 そして1月4日、国際的なニュースとなったアツサベ近くのティリロロ村の民兵襲撃事件が起きた。その日ディリの空港に人を送りに出ていたレナト神父は、戻った後夜8時45分、ライフルの発射音を連続して聞いたと記している。翌日の記録に次のようにある。

 昨夜民兵は村長の家に入って、銃をぶっ放して村長の息子を殺し、子どもを含めて3人が怪我をしました。その後民兵は食料や料理器具や役に立ちそうな物を一切合切盗んで出て行きました。民兵の別なグループは隣の村の独立派の人物を殺し、やはり食料などを奪って逃げていきました。この二人の遺体は明日アツサベに運ばれてくる予定です。

 このふたつの村の襲撃事件では、合計7人の死者が出た。村長の息子とレナト神父が書いているのは実際には甥だったようだ(The Bulletin, 22 January 2003)。

コリマウ2000

 コリマウ2000と言えば、元ファリンティル兵士の中の不満分子が新興宗教的な結社をつくり住民から金などを集めている集団として知られている。レナト神父は原始宗教への回帰という観点でこれを見ているようだ。6月6日に次のような記述がある。

 人類学者のカクリンさんと今日はゆっくり話ができました。研究する場所としてアツサベを選んだのは、当地が宗教、文化、民族の伝統を東ティモールでもっとも残している地域であるからとのことです。と同時にアツサベでは、伝統に繋がりの深い、昔からの土地や水にまつわる争いが現在の地域紛争の原因になっています。また昔の原始宗教(アニミズム)はカトリックの様式を取り入れて、隠れた形で残っています。

 この話に繋がるのが、2日前にアツサベの市場で起こった事件です。この事件には原始宗教を取り戻したいと考えている人びとが関係しているからです。数人の男たちが市場に入って、彼らの仲間になることを断った人や気にくわない人を殴り始めました。その中で3人が重傷を負って病院へ運ばれ、軽傷の人はその場で手当てを受けました。今警察が捜査を進めています。

 男たちの中に「コリマウ・デ・アルプ万歳」を叫ぶ人がいましたが、「コリマウ」というのは、原始宗教では有名な人だそうです。

 そこに絡み合っている重要な要素は、元ファリンティルの反体制グループです。このグループは元ゲリラの一派ですが、新大統領や憲法をはじめとする現政治体制を認めません。政府を困らせるために、地方で不満をもっている他のグループと手を組んで問題を起こしています。

 また、12月22日には次のように書いている。

 今日は教会から一番遠い村(14キロ)で告白を兼ねてミサを行いました。参加者は350名ほどでした。ミサ後カテキスタ(教会奉仕者)でもある村長から、KORIMAO2001という団体の話を聞きました。そしてその団体の2人のメンバーが村の住民であることから、12月24日に彼らが村を襲う計画があることを知らせてきました。

 このグループは最近分裂してKORIMAO 2001とKORIMAO2112が出来たそうです。政治団体であると同時に宗教団体でもあり、カトリック教会をまねて司祭や司教、法王までいます。KORIMAOの長は洗礼式や結婚式、叙階式まで行っているので、これからは人が「洗礼を受けました、結婚式をしました」というときには、どこで、誰からと聞かなければとんでもないことになりかねません。(注:Korimaoの綴りは正しくはColimauまたはKolimau。)

 コリマウ2000のメンバーは1月4日のアツサベ襲撃事件に関連して逮捕されている。西ティモールから侵入した民兵と一緒になって攻撃に加わったらしい。(ここまで来ると、コリマウ2000が元ファリンティル兵士だったかどうかも疑わしくなる。)

最後に

 個人的なことだが、『東ティモール独立史』を「とても面白い」と、ろうそくの明かりの下で100ページも読まれたとのこと。著者としてとてもうれしい。本の中でサンタクルス虐殺直後、マックス・スタールのビデオをもちだしたレナト神父の功績に触れなかったのは悔やまれます。★


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